EAST。
翌朝。
屋敷の中には、昨日の余韻がまだ薄く沈んでいました。
もっとも、それをいちばん分かりやすく表に出していたのはジゼルです。
彼女は今朝から、まるで小さな避難動物のように、片時もピナの傍らを離れようとしませんでした。
薪を運ぶ時も、朝食の支度を手伝う時も、食器を拭く時も、蹄の音一つ分も離れまいとする勢いです。
そしてその一方で、シャズに対してだけは、露骨ではない、けれど確かに細やかな敵意を向けていました。
シャズの姿を見かけるたびに、彼女は華奢な肩を怒らせます。
「毎日毎日、シャズさんのいびきがうるさく眠れません」
「また靴下に穴をあけてしまったのですか?誰が縫うと思っているんです」
「ポケットに石を入れたまま、お洗濯に出さないでください」
「口に入れたスプーンをバターの容器に入れないで!」
「シャズさん、たまには食べた後の食器を片付けたらどうなんです?」
「そのお皿は、そっちじゃありません」
「そういう置き方をすると、拭いた意味がなくなるんです。もう、あとは私がやります」
「あと、パンくずを落としたままその上を歩かないでください。見ればわかるでしょう?」
「……」
今朝はそのように、先端を丸めた言葉の針が、度々シャズを突いていました。
シャズはというと、怒るでもなく、言い返すでもなく、ただ面倒そうに鼻を鳴らしながらその都度適切に応じていました。
その態度が、かえってジゼルの気に障るのでしょうか。彼女の声は、時間がたつごとに少しずつ鋭さを増していきました。
シャズは、時折ピナを睨みつけましたが、ジゼルの言っていることは、ピナ自身が普段から胸に秘めている不満であることもまた事実でした。ですので、必然的に彼女が返すのはジゼルに対する遠慮がちな肯定のリアクションと、一段と柔らかな微笑みだけでした。
そんな朝の一幕の隅で、セイムだけが普段通りに過ごしています。
それは他人事を決め込むというよりも、昨晩の逃避行がまだ胸のどこかに引っかかったままで、目の前のごく小さな共同体との距離を未だに測り損ねているようでした。
「セイム」
床のパンくずを掃き集めていたシャズがふいに呼びました。
セイムはすぐに視線を合わせます。
「はい」
「今日は休みだ」
「…休み」
聞き返すように呟いたセイムに、シャズは床に視線を落としたまま短く頷きました。
「今日だけじゃない。実はな、他にやってもらいたいことがある。やれるか?」
「はい」
「よし」
それを聞いた途端、ジゼルの手がピタリと止まります。
ピナのそばで皿を拭いていた彼女は、横目だけをすっとシャズへと向けました。
「へえ」
その短い一言には、小さな棘がいくつも仕込まれていました。
テーブルの影、シャズがセイムに向かって密かに微笑みを投げかけます。
「逃げるぞ」
「はい」
「ずいぶん、優しいことをおっしゃるんですね。毎日セイムさんをこき使っておいて、一体どんな風の吹き回しなのですか?」
身体をしっかりとピナの影へ寄せ、ジゼルは努めて慎ましく(少なくとも彼女はそう思っていました)尋ねます。
パンくずを掃き終えたシャズはようやく顔を持ち上げます。
窓の外、陽の高さを確認した彼は、遊びは終わりだとでも言わんばかりに足早に食堂を後にしました。
「来い」
セイムは反射的に「はい」と答え、彼の後に続きました。
「あ!ちょっとシャズさん!セイムさんをどこへ連れて行くおつもりですか!今日はお休みなんでしょ!」
両肩をぷりぷりと怒らせたジゼルの声が、すぐさま飛んできます。
一足先に、セイムは食堂から抜け出しました。
「お前には関係のない場所だ。また怖い思いをしたくなかったら、ついて来るなよ。シオ」
「……なっ!」
ぶっきらぼうに言い捨て、シャズは背を向けます。
ジゼルのむっとした―――けれど、小動物のように怯える気配を背中で嘲笑いながら、彼はセイムを連れて廊下の奥へ歩いていきました。
屋敷の西側。
普段はあまり使われない、外へつながる細い通路の先にその部屋はありました。
重たい扉を押し開けると、乾いた木と砂と、金属と油の匂いが混ざった空気が流れ出てきます。
そこは使い古された作業場でした。
壁には大小さまざまな農具、掘削用の金具、滑車、削り途中の木材が掛けられていました。
棚の上には釘やボルトや油さしが整然と並び、作業台の隅には砥石や金床、万力が設置されています。
どの道具にも埃が薄く積もってはいるものの、長い間打ち捨てられたような気配はありません。むしろ、使われる時を静かに待っているような、手入れの行き届いた粛々とした沈黙がそこにはありました。
部屋の中を見回し、セイムはわずかに目を細めます。
「……すごいですね。何かを作っているんですか?シャズさん」
少年の瞳が、光の微粒子一つ分ほど輝きます。
するとシャズは気まずそうに鼻を鳴らしました。
「ああ、そうだ」
「…?」
どこか落ち着かないその様子をセイムは不思議に思いました。
シャズの視線が棚や作業台の上を旋回し、やがて彼は作業台の前で立ち止まり、顎でセイムを呼び寄せました。
「セイム」
「はい」
セイムは、頑健な男の傍らへと小走りで駆け付けます。
そんな彼に一瞥もくれることなく、シャズは台の上に置かれていた金属板を軽く弾きました。
斜めに立てかけられたそれは、光の加減で鈍く銀色にくすんでいました。
「これを見ろ」
「はい」
続けて、彼は手近にあった小さな金属のブロックをその上へ置き、わずかに傾けます。
がりがり……。
耳に不快な音を立てながら、ブロックは途中で引っ掛かり、滑るというよりも擦れ落ちるように下まで移動しました。
そのたった一度の動作で表面には細かな傷が走り、すり潰された砂埃の跡が白く残ります。
「これをどう思う?」
「?」
セイムは少し黙りました。
問われていることの意図がよくわからないのか小首を傾げます。
「どうって……」
彼は金属板へ目を戻し、慎重に言葉を探しました。
「傷がついています」
「そうだ」
シャズは小さく頷きました。
彼は、今度は砥石の横に置かれていた油さしを手に取り、金属板の表面をゆっくり濡らしていきます。
余計な油を手近な布で拭い、再度、金属のブロックを滑らせました。
するーーー。
「…」
「…」
「な?」
「?」
同意を求める短い声が、道具部屋の静けさに溶けていきました。
セイムは黙ったまま、その手元を見ていました。
「なにが言いたいんです?シャズさん」
シャズは気まずそうに視線を逸らしたまま、鼻を鳴らします。
これといった説明もないまま次に彼は、床に固定された回転ノコギリの横で小さく山をなしていた木くずを頑健な手で掴み取ると、それを作業台の上へと載せました。
「いいか、これが……」
低く、どこか遠慮がちな声でした。
シャズは開いた掌で、その木くずの半分を台の端へと乱暴に押しやりました。
逃げ場を失った木くずは、重力に従って床へと散らばっていきます。
「こうだ」
囁きに近い、けれど妙に重々しい断定。
セイムは目を丸くしながら、雪のように舞い落ち、汚れとなって床に広がる木くずを呆然と眺めていました。
「……?」
「だがなセイム」
「はい」
返事を聞き届けるや否や、シャズは作業台の横に引っ掛けられていた古びた麻袋の口を広げました。
そして先ほどと同じように、残った木くずを隅へと追い込みます。
すると木くずは、今度は床ではなく袋の中へと落ちていきました。
「…こうすれば、床には落ちない」
「はあ」
セイムの困惑は、今や混迷の極みに達していました。
目の前で繰り広げられるのは、あまりにも当たり前の『道理』。しかし、それを実演する男の背中からは、まるで一人の人間の命運を分かつ戦略を説いているかのような、異様なまでの切実さが漂っています。
セイムがそのあまりの熱量に圧され、何を問い返すべきか測りかねていた、その時でした。シャズの体が巨木のように軋みます。めきめきと背筋を伸ばしたその姿は、セイムのよく知る姿でした。
半ば反射的に、セイムも聞く姿勢を整えます。
「実はなセイム。さっきも言ったが、お前たちに頼みたいことがある」
「なんでしょう」
「ああ」
シャズは作業台に置かれた油さしと金属ブロックを元の位置へ戻しました。
「買い出しだ」
―――
東のフォースポイントからさらに東へ。
砂嵐を抜けた眼前に広がったのは、陽光を照り返して白く光る砂の大地でした。
その過酷な道中、先頭を行くピナの背中は、迷うことなく砂煙の先を目指していました。
セイムとジゼルは、交代で三頭の騎乗動物『ウルキラ』を乗り継ぎ、この旅を共にしていました。
大陸の特に厳しい地域に生息する原生生物ウルキラ。
その性質は馬に似ていますが、断じて馬ではありません。砂を食み、たてがみで光合成する馬などどこにいるというのでしょう。
岩場に強い葦毛のアーサー。
持久力に長けた漆黒のソロモン。
そして、最も気性の荒い青毛のタイベリアス。
それぞれの蹄が砂を蹴り、二頭を休ませては一頭に二人で騎乗して進む。効率を重んじるシャズらしい旅程をこなし、ようやく風に湿り気が混じり始めた頃、一行は海沿いの要衝、ジョズの街へと辿り着いたのです。
街の入口でピナは手綱を引き、ウルキラたちの首筋を優しく叩きました。
ピナの指先が離れると、タイベリアスが頭を激しく上下します。
「……どう……どう」
撫で足りないと抗議するタイベリアスを、セイムが慣れた手つきで落ち着かせます。
フォースポイントに住み着いてからというもの、ウルキラたちの世話を担当するのは彼でした。
蹄が落ち着いたのを見計らい、セイムは背後のジゼルへとそっと声をかけました。
「ジゼルさん。今のうちに降りてください」
「は……はい、セイムさん」
ジゼルは恐る恐る、タイベリアスの背中から降りました。
砂を踏む靴底の感覚が、早くも懐かしく思えます。
「……ふぅ」
一息ついた彼女の頬を、ソロモンが分厚いその舌で舐め上げました。
この地では、たとえ汗であろうとも、大変貴重な水分なのです。
「……きゃっ!」
『べろん…べろん…べろろんッ!』
「ちょ、ちょっと……!ソロモン!いけませんっ!…めっ!めっ!」
ジゼルが慌てて身を引く横で、セイムはソロモンの首筋を軽く叩き、静かに宥めました。
それからふと、彼は顔を持ち上げます。
眼前に広がっていたのは、人間の住む街というよりも、巨大ななにかの残骸でした。
白く乾いた大地の上に、途方もない質量を持つ何かが視界を埋め尽くすように横たわっています。
幾重にも積み重なった外壁。突き出すように並ぶ櫓。掘削機の名残を思わせる無数の突起。その輪郭は建築物でありながら、どこか生き物の骨にも似ていました。
「さあ、ここからは二人で行ってきなさい。頼んだわよ、セイム君、シオちゃん」
ピナは二人の顔を交互に見つめ、まるで親戚の家にでも送り出すかのように微笑みを浮かべました。
「はい、ピナさん」
「……やっぱりピナさんは、一緒に行ってくれないのですか?」
ジゼルはすかさずピナの白い前足に縋り付くようにして、あからさまに不安げな声を上げます。
彼女を一人でシャズの元へと帰すのも嫌でした。
ですがそれ以上に、セイムと二人きりにされるのは、嬉しさ半分、それ以上の気恥ずかしさがあったのです。
「ふふ、そうね。わたしもそうしたいけど、あの場所を長く開けるわけにもいかないの」
そう言ってピナが上品に笑うと、ジゼルは何かを悟ったようにしょんぼりと肩を落とし、縋り付いていた手を離しました。
「そうでした……帰り道、どうかお気を付けください。あと…その、シャズさんにもよろしくお伝えください。ちゃんと、行ってまいります。と」
声は頼りなく震えていましたが、その響きには確かな決意も伴っています。
ピナは嬉しそうに目を細めました。
「ふふふ、わかったわ」
セイムとジゼルは、旅の疲労も忘れてピナと三頭の逞しい生物に別れを告げました。
その瞳は、ウルキラたちの去り行く姿を惜しむ間もなく、前方から押し寄せる重々しい鉄の気配へと吸い寄せられていきます。
ジョズの街。
かつてスカイワールドを巡った超巨大な採掘船です。
今は船としての機能をほとんど失いながら、それでもなお、朽ちた船体の内側に極めて歪な『街』を育て続けている場所でした。
セイムはポケットの布越しにシャズから渡された買い物リストの存在を確かめます。
旅の途中、一度も中身を確かめる余裕などありませんでしたが、リストは確かにそこにありました。
「行きましょう、ジゼルさん。商業船は街の東側に停泊するそうです。帰りは調達した物資と一緒に僕たちもフォースポイントへ搬送してもらえる手筈になっています。欠品がある場合は、補充され次第届けてくれるそうなので、とにかく、受注だけは早めにしておきましょう」
シャズからのことづけを、セイムは軍隊の任務でも報告するかのように堅苦しく告げました。その表情は真剣そのもので、歩きながらも、彼はポケットの中のリストを大事に握り締めています。
そんな彼の後を追いながら、生真面目な横顔を見つめるジゼルの瞳には、つい先ほどまでの憂いなど微塵も残っていませんでした。
「…もう、セイムさんたら」
ジゼルはふふっと小さく噴き出すと、駆け寄るような足取りでセイムの隣に並びました。
二人の間で風が小さく渦を巻きます。
街から染み出した空気は、鉄と潮の臭いで濁っていました。
おおよそ、華やかなロマンスの気配とはかけ離れた匂い…しかし、一歩踏み出すたびに隣から伝わってくるセイムの気配が、彼女の心に、砂漠では決して咲かないような色鮮やかな期待を咲かせていました。
知らない街に置き去りにされる不安も、一度喉を通り過ぎてしまえば取るに足りません。
それにジゼルにとって、これは単なる買い出しではありません。
シャズのいびきも、ピナの視線も、いつもの家事の日課も届かない―――自分とセイム、二人きりの特別なお出かけでもあったのです。
「そんなに怖い顔をしなくても、今すぐシャズさんに怒られたりはしませんよ?…だから、その」
ジゼルは視線を伏せながら、セイムの服の袖をちょんと引きました。
余談ではありますが、これは大変に勇気が試される行為でした。
セイムが歩調を緩めたのを見計らいジゼルは恐る恐る告げてみます。
「目的地に行く前に、ちょっとだけ寄り道しても……いいですよね?」
上目遣いで覗き込まれた瞳には、断る隙を一切与えないような、無邪気で、かつ確信犯的な輝きがらんらんと揺れていました。
ジゼルこと、小日向栞―――必殺のおねだりです。しかし。
「え、だめです」
「!!」
これまで親しい間柄のみならず、数えきれないほど多くの相手に常に有効だった『必殺のおねだり』でしたが、今回ばかりは不発に終わりました。
あまりの即答に、ジゼルの思考は白く飛びました。
喜び勇んで差し出した少女の期待は、セイムの無慈悲な正論によって、音を立てて粉砕されます。
「さっきも言いましたけど、品物の在庫や運送スケジュールは、どれも確実性はありません。特に…」
セイムは、静かに空を見上げます。
「特に、船団の運航は、天候に大きく左右されるそうです。この辺りのエレメントの乱調と砂嵐は、近年ますます不安定になっていると聞きました。…だからできるだけ時間を無駄にしないようにしないと……なので寄り道はだめですよジゼルさん」
すっぱりと告げられた言葉。
彼女の思い描いていたセイムとは到底思えない、あまりにも可愛げのない態度でした。
「時間の無駄って……なんなんですか、その言い方!せっかく夫婦二人っきりになれましたのに、少しは雰囲気を読んでくれたっていいじゃないですか!」
不意にジゼルの口から飛び出た言葉に、セイムの頭がぐらりと揺れました。
じわりと冷や汗が噴き出し、無意識に周囲を確認します。
―――誰もいない。
そして、何もない。
「……とにかく、早く済ませて帰りましょう」
それは、無意識に出た言葉でした。
「……もう、セイムさんたら!」
そっぽを向いて、ぷりぷりと怒りだすジゼルをよそに、セイムは街の境界を越えながら、空の色と変わらない、灰色の街を真っすぐに突き進んでいきました。
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