代わりにハンバーグを差し上げます。
~ドーンソリア大陸東部・フォースポイント~
いくつかの朝と夜が過ぎた頃でした。
いつものように泥にまみれて坑道から戻ったセイムを待っていたのは、短い呼び声でした。
「来い」
男の頑健な肩が、月の光に照らされて岩のような質感を帯びていました。
彼はそれだけ言うと、振り返ることもなく歩き出しました。
セイムはここ数日間、自らの居場所だった古い物置小屋の中を一瞥し、それでも黙ってその背中を追います。
石畳の先。丘の上に鎮座する屋敷は、夕暮れの名残を受けて静かに黒い輪郭を浮かび上がらせていました。
重たい扉の前で男が立ち止まり、無骨な手で取っ手を押し開きます。
すると、途端に温かな光が細く差し込みました。
セイムの視界がぐらりと眩みます。
屋敷の奥から、こと、ことん、と、リズミカルな蹄の音が響いてきます。
土と鉄の匂いが染みついたセイムの体を、煮込み料理の湯気と、乾いた薪の匂いが不意に包み込みました。
やがて、明るい玄関先へ半身を現したのは、一人の女性でした。
しかし、その下半身は人間のものではなく、しなやかな毛並みを持つ馬の体でした。
顔は見上げるほど高い場所にあり、どちらの身体にも、この地での生活に相応しい自然な装いがなされています。
柔らかな灯りの中で、彼女のたくましい体躯は不思議と威圧感よりも頼もしさを感じさせました。
「……あら」
彼女は目を丸くした後、ふっと笑いました。
「やっと連れて来たのね?シャズ」
「ああ、紹介しよう。ピナ、セイムだ。セイム、ピナだ」
隣に聳えるのは、岩を穿ち、鉄を叩くのにふさわしい、彫刻のような筋肉を持つ男。しかし、その瞳には今まで再三見てきた野蛮さではなく、それがどのようなものであろうとも、ささやかな生活を守り抜こうとする者の、静かで深い知性が宿っています。
セイムはその場に立ち尽くしたまま、わずかに唇の隅をきゅっと引き締めただけでした。
ピナの馬体は強靭でありながら、女性の胴体は驚くほどしなやかで、その表情は余裕に満ちていました。
彼女は、セイムのすべてを知っているかのように、穏やかな笑顔を浮かべます。
「よろしく、セイム君」
ここ数日間、坑道内に響く岩盤を叩く音と、男の最低限の命令しか聞いてこなかったセイムは、そのあまりにも穏やかな声に返事をすることができません。
そんなセイムを小馬鹿にするように、シャズは肩をすくめます。
それを見たピナは、ほんのわずかに眉をひそめ、たしなめるように首を横に振りました。
やがて、ピナの馬体の影から、もう一つの影がおずおずと顔を覗かせます。
ふと、セイムの呼吸が止まりました。
それはジゼルでした。
数日ぶりに見るその姿は、別人というほどではないのに、確かに少しだけ変わって見えました。
頬には前よりもわずかに血色があり、袖は動きやすいようにまくられています。髪も後ろで一つに束ねられ、細い首筋が露わになっていました。
理由も聞かされることもなく、地下の作業を手伝っているセイムと同様に、彼女もまた、日々の家事を手伝っているからでしょう。どこか生活の熱を帯びた、健康的な気配がそこにはありました。
その姿から、セイムはどうしても目を離すことができませんでした。
無事だった。
ちゃんと食べている。
眠れてもいるのだろう。
夜気に凍えても、砂嵐に怯えてもいないのかもしれない。
そんな当たり前のことが、胸の奥へ遅れて押し寄せてきます。
「……」
数日ぶりの再会、そのはずでした。
しかし、二人には到底そう思えませんでした。
先にたまらなくなったのは、ジゼルの方でした。
彼女は眉を寄せ、束ねられた髪の先に指をやりながら、ひどく居心地悪そうに身じろぎします。
その視線は露骨に逸らされているのに、再びピナの影に戻ることはありません。
彼女は言葉を探すように視線を泳がせ、それから諦めたように視線を足元へ落としました。
セイムは、その様子をじっと見ています。
「お前たち」
シャズの声。
「いったいどんな関係なんだ?」
そこには隠しきれない嘲笑が混じっていました。
セイムは、迷うことなく即答しました。
「夫婦です」
自分でも違和感を覚えるほどの明瞭な音声が、屋敷の壁に柔らかく反響します。
びくりと肩を跳ね上げたジゼル。その頬は瞬く間に赤く染まりました。
「夫婦…」
聞きなれない異国の言葉を吟味するように、シャズは呟きました。
夜風が吹き込み、ピナの白く長い尾が、砂の混じった空気を優雅に薙ぎ払います。
シャズはセイムの肩に手を置くと、そのまま屋敷の玄関へと押し込みました。
それから、何事もなかったかのように告げます。
「とにかく、入れ」
彼は既に興味を失ったのか、あるいは、初めから微塵もなかったのか、屋敷の奥へと歩き出していました。
重い扉が、ひとりでに閉まります。
背後で鳴ったその音に、セイムはようやく、自分がどれほどあからさまにジゼルを見つめていたのかを悟りました。
彼女から目を逸らそうとして、けれど、一度逸らしてしまったら、今度はもう二度とちゃんと見られなくなる気がして、結局うまくいきません。
その滑稽な沈黙を、ピナがくすりと笑ってほどきました。
「立派なのね、セイム君」
返答を求めることなくピナが踵を返します。
四つある脚の内、三つの脚先が白く、残る一つは栗色でした。
リズミカルに鳴る蹄の音に従うように、ジゼルも彼女の後を追いました。
セイムも、吸い寄せられるかのようにその後に続きました。
廊下は、玄関先の温かな光にから離れるにつれ、次第に深い影を帯びていきます。
前を行くジゼルの束ねた髪が、歩くたびにかすかに揺れ、露わになった細い首筋にランプの灯りが絡みついては離れました。
「…」
セイムは、その横顔を背後から盗み見ることしかできません。
ジゼルの横顔は、少しだけむっとしたように尖って見えました。それは、セイムがあまりに無防備に放った言葉に対する抗議なのか。あるいは、泥にまみれた彼の姿に対する失望なのか、はっきりとは分かりません。
けれど、彼女はセイムを追い払おうとはしませんでした。
それどころか、ピナの蹄の音が遠くなり過ぎない程度に、気まずそうに肩をすくめて、彼の歩調を待っていたのです。
土と鉄の匂いが染みついたセイムの靴音と、生活の熱を帯び始めたジゼルの軽い足音。
二つの不揃いな音が、影の濃い廊下に重なり、地底の静寂に慣れきったセイムの耳に過剰なほどの音量で鳴り渡りました。
その音が、ピナの蹄の音に完全に同化したとき。
廊下の先、影が最も濃くなった場所に、その空間は口を開けていました。
食卓です。
そこだけが、周囲の闇から切り離されたかのように、不自然に明るい光の立方体として浮かび上がっていました。
ランプの灯りが使い込まれたテーブルの木目を執拗なまでに鮮明に照らし出し、そこに置かれた陶器の白い皿が、暗闇の中で冷たく発光しているかのようにすら見えました。
その光の奥、すでに席に着いたシャズは、堂々と食事を始めていました。
しかしそれは、食事というよりも、どちらかと言えば補給の光景です。
「…あ!」
セイムの目の前、華奢な肩が持ち上がります。
「もう!シャズさんっ!?どうして先に食べているのです!ひとりで!」
ジゼルは、腰に手を当ててぷりぷりと怒りながら、シャズの背中に詰め寄りました。
その仕草は、セイムの良く知る怯える迷い子のそれではありません。この屋敷の台所に立ち、薪を焚き、ピナと語らいながら、自分の居場所を必死で耕してきた者だけが持つ、生活者の図太さが宿っていました。
シャズは、肉を断ち切るナイフの手を止めようともせず、低く鼻を鳴らします。
「腹が減っているからだ」
「そういう理屈はやめてくださいって言ってるんです!もう…!」
ジゼルは、出かけた文句を飲み込み、食堂の手前で佇むセイムの元へと戻ります。
温かな光から影へ、慌ただしく揺れる彼女は遠慮がちにセイムの腕に指先を伸ばします。
「さ、セイムさん…?あなたも、お腹が空いたでしょ?」
けれど、セイムは答えませんでした。
ただ、じっとジゼルを見ています。
その視線のあまりの真っすぐさに、ジゼルはたまらず肩をすくめました。
「……もう。座ってください」
促されるまま、セイムはようやく食卓に着きます。
椅子に腰かけた瞬間、体中に染み渡るのは快感とすら呼べるような、ぐったりとした安息感。しかし、セイムがそれに気づくことはありません。
ふいに羽ばたいた小鳥を追うように、その視線を旋回させるのみでした
ピナが小さく微笑み、静かに膝を曲げ、各々と視線の高さを合わせます。
シャズは特に気にした様子もなく食事を続けていました。
温かな湯気に包まれた食卓。四人分のお皿と、磨かれたカトラリー。煮込みの匂い。焼かれた肉の香ばしさ。
「いただきます」
ジゼルがそう言っても、向かいの席に座るセイムの視線はまだ彼女から外れません。
湯気の向こう側にあるその目が、まるで何かを裏側まで確かめているみたいで、ジゼルはますます落ち着かなくなってきました。
ナイフを持つ手に、少しだけ力が入ります。
「……」
耐えきれなくなった彼女は、自分の皿の上のハンバーグを切り分けました。
それから、明らかに大きい方を、そっとセイムの皿へと移します。
その瞬間でした。
ふっと、野生動物のようだったセイムの瞳に、現実の光が戻ります。
「…いいんですか?」
掠れた声。数日間、ほとんど空気の通り道としてのみ機能し続けていた喉が、ようやく人間らしい響きを紡ぎ出しました。
ジゼルは何も言わず、こくりと頷きました。
焼けるように熱い頬。どういうわけか、顔は上げられません。
セイムはしばらく皿の上のハンバーグを見つめ、それからようやく、小さく言いました。
「……ありがとうございます」
その声は、屋敷の中で聞くどんな声よりも静かで、ジゼルの胸の奥に妙にすんなりと納まりました。
ようやくセイムが自分の皿へ視線を落としたことで、食卓は少しだけ普通の呼吸を取り戻します。
シャズは何も言わず、ピナだけが楽しそうに目を細めていました。
ジゼルは俯いたまま、自分の皿の小さくなったハンバーグを口に運びます。
肉を練り合わせ、香草と共に焼き上げた塊―――温かく、香ばしく、滑らかな舌触りの―――大好きなハンバーグ。……なのに、不思議と、味はよくわかりませんでした。
夜が更け、屋敷が深い静寂に沈んだ頃。
二階に用意された二人の部屋は、窓から差し込む青い月光に満たされていました。
セイムは、並べられたベッドの一つに横たわり、天井の梁を見つめていました。
身体を苛む筋肉痛と、食事の重み。忘れかけていた、たっぷりのお湯に浸る感覚。それらが混じり合い、抗いようのない眠気が彼を闇へと誘います。
その時。
扉が、そっと、けれど確かな存在感を滲ませながら開きました。
ギィ、という古い木材の鳴き声。手にしたランプの小さな光。
月光に満たされた部屋、天井を這う淡い影が、遠慮がちに揺れています。
暗闇の中、ジゼルが隣のベッドへと滑り込む気配がします。
「おやすみなさい」
セイムがそう言うと、
「お……おやすみなさい」
少し遅れて、ジゼルの声が返ってきます。
それだけでした。
あまりにも簡単で、拍子抜けするほど短い夜の挨拶。
けれど、その短さのわりに、ジゼルの胸はなかなか静かになってくれません。
セイムに背を向けるようにして、もぞもぞと寝床を整えてからも、彼女はしばらく目を閉じることができませんでした。
やがて、もう一方の寝台から、規則正しい呼吸が聞こえ始めます。
静かで、深くて、無防備な寝息でした。
その日、ジゼルは初めて、セイムの寝息を聞きました。彼女はそれでよしとします。
その小さな音が、凍てつく廃坑の夜を、少しずつ温めていくのを感じながら、彼女もまた、深く、深い眠りへと落ちていったのです。




