勇者死す。
勇者は、ほとんど捨て身の勢いで石畳を蹴りました。
塞がったばかりの腹を庇う素振りすら見せず、わずかに身を沈めた瞬間には、すでに怪人の側面へと回り込んでいます。
振り抜かれた剣が灼熱の弧を描きました。
「…!」
ですが、その刃は空を灼いただけでした。
怪人はわずかに肩を引き、まるで舞踏の一歩をずらすような自然さでその一撃を躱していたのです。
整えられた口髭の下で、唇がゆるやかなカーブを描きます。
「おや」
低く、愉快そうな声。
「彼女の味には、興味がなかったのかね?」
「…!」
挑発に応える代わりに、勇者はさらに一歩、深く踏み込みます。
しかし、その瞬間にはもう怪人の方が速く動いていました。
突き出された五本指。
握るためでも、殴るためでもありません。何かを掴み取り、奪い去るためだけに研ぎ澄まされた、異様な手つきでした。
それが、勇者の頬を掠めます。
皮膚が裂け、赤い線が一気に走りました。
遅れて鮮血が弾け、勇者の顔半分を斜めに汚します。
それでも勇者は止まりません。
頬を裂かれた勢いのまま剣を翻し、怪人の懐へと食らいつくように立て続けに切り込みます。
勇者の剣が唸り、怪人の片腕が跳ね飛ばされます。
怪人は笑っていました。
灰色のスーツを翻し、紙一重で刃を躱し、時に残った爪先で、時に手首だけでその軌道をずらしていきます。
両者の足元で石畳が砕け、火花が散り、血と粉塵が停滞する空間へと放たれました。
その激戦をよそに。
ベラトリスは、酷く静かな足取りでロロの元へ歩み寄っていました。
「…!」
「そうだとも…何も命を奪ったわけじゃない…ッ!」
怪人は勇者の剣をいなしながら、愉快そうに喉を鳴らしました。
「!」
猛攻をしのぐ勇者の視線の先には、石畳の上に横たわる少女。
白い肌の下では、黒ずんだルーンが鈍く脈打ち、細い首筋から肩へ、胸元へ、じわじわと染み広がっています。
ベラトリスはその有様を、しばし黙って見下ろしていました。
そして彼女は、倒れ込むロロへとゆっくりと片手をかざします。
『―――』
詠唱もなく発動したそれは紛れもない治療術でした。
彼女の指先から零れた淡い光が、ロロの身体を這うルーンの筋へと静かに染み込んでいきました。
暴力的に引き剥がすのではありません。まるで、傷ついた花弁を一枚ずつ撫で整えるような、あまりにも丁寧な修復でした。
「…!」
その光景に、勇者の目が大きく揺れます。
怪人の爪を剣で弾き、間合いを取り直しながらも、その視線だけはどうしても背後へ引かれてしまう。
そのわずかな動揺を、怪人が見逃すはずもありませんでした。
斬撃を半身で躱すと、怪人はそこで不意に距離を切ります。
滑るように二歩、三歩。
そのわずかな間に、切り落とされた片腕は元の形を結びます。
やがて十分な間合いを取ると、懐から煙草を取り出し、劇場の幕間にでも入ったかのような優雅さで火を点けました。
紫煙が、ゆるやかに空へと溶けていきます。
その背後。
ロロがうっすらと目を開けていました。
まだ焦点の定まらない瞳。しかし、ふらりと立ち上がったその口元には、ひどく柔らかな笑みが浮かんでいます。
ベラトリスは何も言わず、その頬にかかった銀髪を指先でそっと払いました。
自然すぎる手つきでした。
まるで最初から、そうするのが当然であったかのように。
ロロの指先が、そっと持ち上がります。
ベラトリスの白い指に触れ、絡み、するりと撫でるように重なりました。
「ありがとう、ベラ。今日は優しいのね」
甘えるような声。
けれどその響きは、あまりにも素直で、だからこそ異様でした。
ベラトリスはふっと目を細めます。
「もう、ロロったら」
咎めるでもなく、むしろ愛おしげですらある囁きでした。
「ふふ」
「ふふふ」
お互いに腰が触れ、腹や胸さえも触れ合うほどに近く、息のかかりそうな距離。
指先を絡めたまま瞳を覗き合う二人の姿は、少し離れた場所で血まみれの斬り合いが行われていることさえ、まるで別の世界の出来事のように見せてしまいます。
あまりにも静かで、あまりにも親密な光景に、勇者の心臓がはっきりと、恐怖とは別の何かで軋みました。
橙色の刃が傾き、その切っ先を渡るように、怪人がこちらへと向かってきます。
灰色のスーツの裾が、静かに揺れています。
ジャンヌには、目の前の光景が鮮明に見えていました。
その残酷とまで呼べる現実が、彼女の体を縛っていました。
(…来る!)
彼女が立ち上がろうと足に力を入れたとき、すでに怪人は鼻先まで迫っていました。
せめて一撃。
ジャンヌは息を殺し、崩れたドレスの裾の中で、わずかに指先へ力を込めました。
この距離なら、喉でも目でも、どこでもいい。
たとえ自分がその直後に噛み砕かれるのだとしても、何か一つは持っていく。
そう決意したジャンヌの視界が、唐突に塞がれます。
それは、土でした。
「…むっ!?」
大地そのものを引き剥がして積み上げたような、分厚い壁。
音もなく現れたそれが、ジャンヌと怪人の間に出現したのです。
「…やれやれ。いったいなんだというのかね?」
肩をすくめ振り返る怪人へ、勇者が猪突します。
「…!!」
怪人の瞳が、わずかに見開かれます。
次の瞬間、その五本指が勇者の胴を深々と貫いていました。
容易く。
あまりにも容易く。
肉を裂き、骨を砕き、背中へと抜け出たその腕に、怪人は一瞬、薄い笑みすら浮かべます。
それは、勝ちを確信した捕食者の顔でした。
しかし。
「…グフッ!」
その笑みは長く続きませんでした。
口元から、黒ずんだ血が溢れます。
「…いったい、これは?」
喉を震わせるような押し殺した吐息と共に、ゆっくりと視線を落とした怪人は、自分の体を貫いている刃を見ました。
さらにその下、勇者の体を貫く腕。
さらにその下―――。
勇者の腰元に吊るされた小さなランタンが、不気味なほど穏やかな光をともしていました。
それは揺らぐこともなく、ただ静かに、しかし絶対的な明るさで、ただそこに在りました。
「ご主人様…?それは『アイテム化』の効果でございますわ」
視線だけを向けたまま、ベラトリスがそう告げます。
まるで歌を詠むように、ロロが言葉を連ねます。
「64個のアイテムを、好きな時に出し入れできるのよね?ベラ?」
「ええ、その通りでございますわ。ロロ」
「『真昼のランタン』…光に照らされた者の状態を、一時的に日常へと回帰させる…私が見つけたのよね?ベラ?」
「ええ、懐かしいですわね。ロロ」
「ふふ」
「ふふふ」
「日常…?」
怪人の顔が、努めて紳士的に歪みます。
「この焼けるような痛みが私の日常だとも言うのかね?」
怪人を貫く刃がじゅうじゅうと音を立て、彼の血液を蒸発させます。
先ほど、片腕を跳ね飛ばされた時とは明らかに異なる激痛が、怪人の表情をいっそう歪めさせていました。
「ああ、それは」
「その剣……『ウルメリアスの残り火』の効果よね?ベラ」
下から覗き込むようなロロの瞳を、ベラトリスは穏やかに見つめ返します。
「ええ、その通りでございます。ですが……」
「ええ、こんなの、おかしいわ……ふふ。だって日常へ戻すなら、焼けていること自体が矛盾しているもの」
「そうでございますわね。ふふふ」
ロロは愛おしげにベラトリスの指を絡めながら、苦悶する怪人を他人事のように眺めました。
「きっと、ご主人様が特別だからだわ…ね、ベラ?」
「ええ、ロロ。ご主人様は特別でございます」
「だから痛いのね。ふふ」
「ええ。とても」
「クラウゼのお尻に刺さった時は、ちゃんと効果があったのもね?」
「そんなこともございましたわね。あの時は、一晩中笑いが止まりませんでしたわ」
「そうね、ふふ」
「ふふふ」
囁き合う二人をよそに、怪人と勇者の表情は、いっそう険しさを増していました。
怪人はなおも紳士然とした笑みを張り付けていましたが、そのブラウンの瞳には、先ほどまでの愉悦とは別の色が混じり始めています。
身体を貫くのは文字通り、焼けるような痛み。
逃れようとしても、勇者の刃はまるで得物の喉笛へ食い込む牙のように、その角度をじわじわと深めていきました。
怪人が半歩退けば、その分だけ勇者も前へ出ます。
体を捻って躱そうとしても、切っ先は執拗に肉を探り、逃げ場を塞ぐように迫ってくるのです。
「……」
その額に、じわりと汗が滲みました。
それでも怪人は、努めて余裕を崩さぬ声色で口を開きます。
「お嬢さん方。すまないが少々、手を貸して頂けないかな」
まるで夜会の席で給仕を呼ぶような、穏やかすぎる声色でした。
「ええ、もちろん」
「ふふ。いいわ、ご主人様」
承諾は、あまりにも早く返りました。
勇者の眼差しが鋭く揺れます。
渾身の力で、刃の傾斜が深まる中、ベラトリスは指を絡めたまま、わずかにもう片方の手を持ち上げました。
『ツインキャスト―――バーストウィンド』
次の瞬間。
ロロ、そして勇者、双方の足元で爆発的な上昇気流が発生しました。
深く食い込んだ刃が骨を砕き、肉を切り裂き、怪人の外側へと通り抜けていきます。
「…が、はッ!」
直後、怪人を襲ったのはむしろ、肉体をすり潰すような鈍い衝撃でした。
しかし、それによって彼は身を焼くような痛みから解放されます。
一方で、上空へ放り出された勇者を待っていたのは、ロロでした。
「高い高い。お星さまに届くかしら…」
くるり、と。
軽やかに身を翻したロロが、勇者の真上へ回り込みます。
「ごめんなさいね。けれど、星を見るたびに…きっとあなたを思い出すわ」
甘えるような声色のまま、彼女は踵を振り下ろしました。
鈍く、重い衝撃音と共に、勇者の体が石畳に向かって一直線に叩き落されます。
砕けた地面が揺れ、白煙と砂塵が舞い上がりました。
「…」
真昼のランタンは砕け、発生したくぼみの中央で、彼は完全に沈黙しました。
「…勇者!」
ジャンヌが勇者の元へと駆け出します。
その上体を抱き起した瞬間、彼の体が想像以上に重く、そして熱を失っていることに気づきました。
「おい…!しっかりしろ!」
返事はありませんでした。
その間、怪人の体は空中へ退きました。
灰色のスーツの裾を揺らし、苦悶の表情ですら気品に変えてしまうような仕草で高みへと身を逃します。
その左右から、ロロとベラトリスが寄り添うように浮かび上がりました。
怪人を挟むようにして身を寄せた二人は、互いの肩が触れ合うほど近く、それでいて酷く穏やかな顔をしていました。
「ご主人様。そろそろお茶になさってはいかがでございましょう?」
「ふふ。だめよベラ。ご主人様は今、とてもお痛いのだもの」
「ああ、そうでございましたわね…ふふ」
「ふふふ」
甘く、それでいて温度のない笑い声が、訪れた静寂の中に不気味なほどはっきりと響きました。
やがて、それはいくつもの足音と、地を震わせる低い怒号にかき消されていきます。
「道を開けろォ!」
先頭を駆けてきたのはレオンでした。
その背後には、教会騎士たち。十数名。
往来に雪崩れ込んできた誰もが、片手に『真昼のランタン』を、もう片手に『ウルメリアスの残り火』を携えていました。
本来穏やかであるはずの灯が、今は処刑台の灯りのように冷たく見えます。
怪人の頬が、わずかに引きつりました。
「……これはまた、ずいぶんと熱烈な歓迎だ」
苦痛に口元を歪めながらも、彼は紳士的な態度を貫いていました。
しかし、整えられた口髭の下に浮かぶ笑みは、もはや余裕ではなく、崩れかけた体裁を辛うじて繋ぎ止めるための仮面に過ぎません。
彼は傍らへ、ほんのわずかに目を向けました。
ロロとベラトリスは、示し合わせたように半歩下がり、服の裾を摘まんで完璧な淑女の礼を捧げました。
怪人は胸元を軽く正し、それから眼下の勇者たちを見下ろします。
「今日はここまでにしておこう。あまり長居をすれば、折角の楽しみを使い果たしてしまう―――」
ブラウンの瞳の奥で、赤光がぬらりと細まりました。
「だが、実に愉快なひと時だった。麗しいお嬢さん。またいずれ、もっと落ち着いた席で語り合いたいものだね」
そう言って、彼は恭しく一礼します。
背後の二人は甘えるように、それぞれ怪人の両腕に手を添えました。
そして次の瞬間。三人の姿は無数の蝙蝠となり、傾いた塔の影を掠め、どこか遠い空の彼方へと飛び去っていきました。
「…!レオン様!」
「待て!!」
追おうとした騎士たちを、レオンの怒声が制しました。
彼は往来全体を一瞥し、即座に叫びます。
「治安維持が最優先だ!全部署へ伝令を走らせろ!ターミナル周辺の封鎖、負傷者の収容、必要とあらば避難誘導を急げ!巡回線を設け、奴らが残していった痕跡をひとつでも見逃すな!お前、それからお前………」
『はっ!!』
次々と発せられる指示に、騎士たちが順番に散っていきます。
その間にも、ジャンヌは胸の中の勇者に呼びかけ続けていました。
「おい……おい!しっかりしろ!」
返事はありません。けれど、その胸はかすかに上下していました。
やがて。
勇者のまぶたが、ほんのわずかに震えます。
「…!」
ジャンヌが息を呑みました。
ぼんやりと開いた瞳は、最初、どこにも焦点を結んでいませんでした。
ただ、その指先だけが、何かを探すように宙を彷徨います。
ジャンヌはすべてを悟り、自らの髪をかき上げました。
「ほら…私なら無事だ」
傷一つない滑らかな自らの首筋。それを彼の指先に、そっと、押し当てます。
「……」
すると、たとえ目が見えなくとも、彼女の無事が伝わったのでしょうか。
勇者の口元が、ふいに綻びました。
怒号が飛び交う喧騒の中、ジャンヌはただ、膝の上の重みだけを感じていました。
ですが……。
彼の指先はそこでは止まりませんでした。
震える手は、這いずるような鈍い動きで、ジャンヌの胸元へと伸びていきます。
「!」
ジャンヌが固まった瞬間、その掌は、ドレスの布越しに彼女の胸を、むんずと、しかし壊れ物を扱うような必死さで掴み取りました。
怒号が飛び交う戦場に在って、そこだけが異様な静寂に包まれます。
ジャンヌは、そのあまりにも場違いで、けれどあまりにも力強い生への固執に、言葉を失いました。
指先から伝わってくるのは、彼女の熱。
勇者は、まるでそこにしかない世界の真実を確かめるように、何度も、何度も、弱々しくその感触を確かめます。
ジャンヌは、込み上げてきた怒りも羞恥も、すべてを飲み込みました。
代わりに溢れ出したのは、どうしようもない呆れと、鼻の奥がツンとするような悲しみです。
「…ばか。…この、大馬鹿者が。…どうだ?柔らかいか?」
ジャンヌが呆れ笑いで問いかけると、勇者は満足げに、そしてひと際深く口元を綻ばせました。
その顔は、英雄のそれではなく、ただの、救いようの無いほど正直な一人の男の顔でした。
やがて。
ジャンヌの膝の上から、その重みがふっと消え失せます。
彼女の胸に触れていた掌が力なく解け、指先を通り抜ける淡い光の粒子だけが、風に乗り、どこかへと旅立っていきました。
「…ジャンヌ様」
背後からかけられた声は、レオンのものでした。数歩離れた位置から聞こえたその声に、どれほど苦渋に満ちた申し訳なさが滲んでいるか、ジャンヌには手に取るようにわかります。
ジャンヌは振り返ることなく、空を掴んだままの掌を見つめて告げました。
「あのようなペテンを思いついたのは、ルキウスだな?」
淡く背筋の伸びた視線の先。慌ただしく動き回る騎士たちの姿がありました。
その手に握られているのは、スカイワールドの至宝とも呼べるアイテム。
本来ならば、伝説の片隅に、あるいは厳重な宝物庫に眠るべきそれらが、今や安価な標準装備であるかのように平然と扱われています。
それらはすべて、見た目だけを精密に模倣した、急ごしらえのレプリカでした。
レオンは恭しく視線を下げたまま、絞り出すように答えました。
「ご明察の通りです……!」
「…そうか」
ジャンヌの声には、自嘲と、そしてほんのわずかな安堵が滲んでいました。
ふいに、ジャンヌが振り返りました。その瞳に宿る、言葉に出来ないほどの色を恐れるように、レオンは思わず視線を逸らします。
「……手を貸してくれるか」
純白のドレスの下、震える膝を隠すように、ジャンヌは力なく笑いました。
「情けないな…腰が抜けてしまったんだ」
その言葉を聞いた瞬間、レオンはすぐさま彼女の傍らへと駆け寄りました。
ジャンヌの瞳は潤んでいながらも、そこから涙がこぼれることはありません。
理不尽な運命に翻弄され、なおも気高く、そしてあまりに可憐なその横顔。レオンの指先を震えさせていたのは、強敵を前にして感じるものとは全く別種の、正体不明の恐怖でした。
己の動揺を悟らせまいと、彼は震える喉を抑え、努めて事務的な報告を口にします。
「…重症ではありますが…マクシミリアンも無事です」
ジャンヌはその言葉を、平然と聞き届けます。
「……そうか」
すべてを使い果たして消えた男―――勇者が残した空白の向こう側では、レプリカのランタンの光が慌ただしく揺れていました。
やがて人々は、この地で起こった出来事が、本物であったのか、あるいは、入念に脚色された偽物であったのか、語ることをやめていきます。
けれど。
後日、教会都市の喧騒から外れた静かな片隅に、ひっそりと、勇者の姿を模した石碑が立てられました。
それは組織の公的な記念碑ではなく、誰かが―――おそらくは、その重みを肌で知る者たちが、私的に、しかし強い意思をもって刻んだものでした。
その碑文には、こう刻まれていました。
『勇者。
彼は完璧な人間ではなかった。
しかし最後の瞬間まで、彼は人々の期待を裏切ることはなかった。』―――と。




