Cの2旅の終わり。
誰も、間に合いませんでした。
少なくとも、その瞬間までは。
怪人の背後に立つものはいない。
割って入る影もない。
崩れ落ちる塔の破片に怯えた群衆の足も、地に投げ出されたジャンヌ自身でさえも、まるで世界から切り離されたかのように、息を呑んだままその瞬間へ縫い止められていたのです。
聞こえていたはずの悲鳴も、足音も、遠くへ退いていました。
ただ一つ。
この場のすべてを置き去りにするような確かさで、怪人の牙だけが、着実にジャンヌの首筋へと迫ってきます。
紅く揺れる瞳。
白い首元へと吸い寄せられるように開かれた口元には、獣のものとも刃物のものともつかぬ、冷たい光が覗いていました。
避けられない。
そう理解した瞬間でした。
甲高い衝突音が炸裂します。
「―――っ!?」
怪人の牙が届く寸前、どこからともなく滑り込んだ三枚の小盾が、花弁のように連なってジャンヌの首元へ差し込まれていたのです。
銀とも白金ともつかぬその盾は、かみ砕かれる寸前で火花を散らし、怪人の顎を強引に押し返しました。
怪人の動きが止まります。
美しい花嫁姿のまま、地面に腰を落としていたジャンヌも、吸い寄せられるように視線の先を追いました。
――――たたたたたたっ!!
すると視線の先、往来の向こうから石畳を砕くような踏み込みと共に、一人の男がこちらへと真っすぐに突っ込んできているのが見えました。
つい先ほどまで、祭壇の上で永遠の愛を誓いあうはずだった男。
「…勇者」
ジャンヌがぽつりとつぶやくと同時に、勇者はその手に握られた小さなガラス瓶を一切の躊躇なく握り潰します。
ぱきん、と乾いた音。
砕けた瓶の中身が、赤く発光する液体となって彼の指の隙間を濡らしました。次の瞬間、それは皮膚へと吸い込まれるように消え、勇者の全身から熱を帯びた圧が吹きあがりました。
それを目の当たりにした怪人が、極めて優雅に上体を起こします。
「……ふむ」
顎を引いた視線の先、勇者の足元に薄い光の板が一枚、音もなく出現しました。
踏み込んだ瞬間、その板が砕けるように弾けます。
常人なら到底あり得ない初速で、勇者の体が前方へと射出されました。
空中で左手が翻り、放たれた鉤爪が傾きかけた塔の外壁へと深く食い込みます。
―――引く。
その一動作だけで、勇者の軌道が獣じみた鋭さでねじ曲がりました。
さらに、その先でもう一枚、光の板が弾けます。
正面からではありません。
怪人の死角から潜り込み、ジャンヌを巻き込まぬ角度だけを選び取った、あまりにも無駄のない接近。
「…面白い」
怪人の髭がかすかに持ち上がり、三つ揃えのスーツ姿に禍々しい気配が立ち上がります。
「…!」
接触の刹那、勇者の右手に一振りの剣が現れます。
黄昏の光をそのまま鍛えたような鈍い光沢。
装飾は少なく、華美さとは無縁。
にもかかわらず、その刃には、墓標の前に立つ司祭のような、静かで絶対的な気配が宿っていました。
「むぅっ!?」
怪人の瞳が驚愕に揺れました。
勇者は空中から、その刃を振り下ろします。
狙いは首ではありません。胴でもありません。
ジャンヌの体に最も近い怪人の肩口。
その一撃は、討つためではなく、まず引き剥がすためだけに研ぎ澄まされていました。
怪人が舌打ち交じりに身を捻ります。
直撃こそ避けたものの、刃は肩を深く裂き、黒ずんだ血が夜の泥のように宙へ散りました。
『浮遊小盾』。『疾風跳躍板』。『反転鉤』。『超越ポーション』。そして『葬送剣』。スカイワールドの至宝とも呼べるアイテムたちをふんだんに活用した戦術に一同は瞠目しました。
「…!?」
しかし、勇者の脳裏をよぎったのは、手応えを上回る強烈な違和感でした。
「ほう」
深手を負ったはずの男の声には、わずかな驚きが混じっている―――それ以上のものはなかったのです。
勇者は着地と同時に身を沈め、そのままジャンヌの前へ半歩だけ滑り込みます。
浮遊小盾はなおも彼女の首元を巡り、獣の牙から庇うように緩やかな軌道を描いていました。
彼の纏う神話等級の鎧に亀裂が走り、光の粒子となって砕け散ります。
それは彼の命数が一つ、着実に失われたことを示していました。
「…おい!」
「…」
勇者は、前を見据えたままジャンヌの言葉を遮りました。
その横顔にあったのは、常に勝者であった者の余裕ではありません。
ただ、大切な何かを必ず守り抜くという、あまりにも純粋で、苛烈な意志だけでした。
対する怪人は、裂けた肩を一瞥し、口元を愉快そうに歪めます。
「なるほど。ようやく、まともな相手が来たか」
ブラウンの瞳の奥で、獣じみた赤光がぬらりと揺れました。
拳から昇る白煙が、知らぬ間に繰り出されていた打撃の凄まじさを物語っていました。
「…」
勇者は答えません。
ただ葬送剣を静かに構え、足元に次の跳躍板を、すでに一枚、呼び出していました。
怪人は、自身の肩に刻まれた深い傷跡を、無関心極まる眼差しで再度見つめます。
「ずいぶんと容赦しないじゃないか?それほど私が怖いかね?」
裂けたスーツの向こう側、そこには真っ黒な虚無が広がっていました。
怪人が新たな煙草を取り出し、点火します。
すると、肩口に鋭く走る虚無の亀裂は、未知の力によって元の姿へと戻っていきました。
吐き出された煙が捩じれながら上へと昇り、やがて陽光の中に溶けていきました。
「…」
ジャンヌの瞳に映るのは、修復というよりは、「無かったことにされる傷」という異常な現象でした。
触れているはずの石畳は暖かいはずなのに、底冷えするような不気味さが彼女の体を駆け巡ります。
勇者の横顔にも緊張が走りました。
指先一つ分、彼は前へと構えます。
わずか数秒。
先ほどまで開いていた亀裂は、何事もなかったかのように元の滑らかな輪郭を取り戻していました。
怪人は優雅な手つきで乱れたネクタイの結び目を直します。
「お礼をしよう。礼儀としてね」
怪人の瞳の奥、ブラウンの虹彩が急速に退き、そこへ煮えたぎるような赤光が満ちていきました。
再生を終えた肉体からは、先ほどまでの紳士の装いでは押さえ込みきれないほどの、獣じみた熱気が陽炎となって立ち昇っていました。
勇者は、その光景を瞬きひとつせず見据えます。
にらみ合う勇者とヴァーミリオの怪人。
辺りは、不気味な静寂に飲み込まれつつありました。
居合わせた誰もが、その尋常ならざる異物の気配に、街の一部としての擬態を強いられていたのです。
誰ひとり、声すら上げられませんでした。
―――
下手に動けば、それだけで何かが崩れてしまう。
傾いた塔の影が、往来をじわじわと呑み込みつつありました。
その凍り付いた往来に、白銀の亀裂が走ります。
「―――勇者様!!」
肉体に刻まれたルーンの激痛など意にも介さず、彼女は細剣を抜き放ちます。
数えきれないほど耳にした抜刀音。勇者の頬を、一筋の汗が伝いました。
ほんのわずか。けれどそれは、ジャンヌが初めて見る種類の動揺でした。
彼は気づいていました。
誰が来たのかを。
そして、その者を止めなければならないことも。
けれど、目の前の怪人から一瞬でも視線を外せば、その隙だけで誰かが確実に死ぬ。
今この場において、勇者には後ろを振り返ることすら許されていなかったのです。
「……!」
ジャンヌは息を呑み、次の瞬間、反射的に叫んでいました。
「ロロ!来るなッ!!こいつは―――!」
しかし、その忠告が最後まで届くことはありませんでした。
街道の先、疾風のように踏み込んできたロロは、ジャンヌの声など最初から聞こえていなかったかのように、すでに必殺の間合いへと踏み込んでいたのです。
白銀の刃が、正午の太陽を切り裂きました。
速い、などと言う言葉では到底足りません。
それは斬撃というより、空間そのものが一度だけ鋭く明滅したかのような一閃でした。
「……っ!!」
怪人のスーツが、胸元からみぞおちにかけて大きく裂けます。
さらにそのまま、ロロの剣は深々と怪人の体を貫いてきました。
会心の一撃。
そのはずでした。
しかし、怪人は笑ったのです。
裂かれた胸に剣を受けたまま。ロロの腕がまだ押し込む力を失っていない、その至近の距離で。
整えられた口髭の下、唇の端だけを異様なほどゆっくりと持ち上げました。
「―――!」
「勇ましい」
ロロの目が、わずかに揺れます。
その一瞬で、十分でした。
怪人の腕が、影のような速度でロロの体に這い寄りました。
伸びた片腕がロロの肩を抱き、逃がさぬように、恋人に触れるかのような自然さでその身体を引き寄せます。
「ロロッ!!」
叫びと同時に、ジャンヌの身体が前に出かけました。
しかし、それを止めたのは勇者です。
彼の横顔には、あまりにも純粋な恐怖、そして絶望が浮かんでいました。
視線の先、怪人の指先が、ロロの首筋を静かに撫でています。
ジャンヌは全てを悟りました。
ロロは既に、怪人によって生かされている状態だったのです。
怪人はロロの耳元で何かを囁くように顔を寄せると、その白い首筋へためらいなく牙を沈めました。
柔肌を貫く生々しい音は、奇妙なほど小さく響きました。
ロロの体が強張ります。
跳ねるように見開かれた瞳。抜け落ちる息。指先から、剣を握る力がみるみる失われていきました。
それでも、彼女は剣を離しません。
―――まだ生きている。
その無いにも等しい小さな希望が、勇者をその場に縫い止めていました。
怪人が牙を抜くと同時に、ロロの身体からすべての骨が抜き取られたかのように力が抜けました。
あれほど鋭利だった剣士の気配は霧散し、ただの物のように、怪人の腕の中でだらりと垂れさがります。
「ふむ……。若さゆえの、いささか刺すような味わいだった」
怪人は無造作に腕を解きました。
彼女の体は、その場で力なく項垂れたまま自立します。
「ロロ…ッ!」
駆け寄ろうとしたジャンヌを勇者が再び制しました。
怪人が、ゆっくりとジャンヌの正面へと向き直りました。
ロロが刻んだはずの、胸元の深い切り傷。
そこから溢れていた血が、逆流するように傷口へと吸い込まれていきます。裂けた肉が蠢き、編み込まれるように密着し、瞬く間に元の姿へと戻っていきました。
怪人は、正午の光を浴びながら両手を広げました。
まるで久しぶりに再会した友人を迎えるかのように。あるいは、これから始まる晩餐を祝福するかのように。
「さて。次は君だ」
紳士的なブラウンの瞳に浮かぶ血のように赤い海、そこに純白の花嫁の姿が不自然なほど鮮明に映り込みました。
「…」
ジャンヌが立ち上がろうとするよりも早く、勇者が立ちはだかります。
整えられた口髭をかすかに持ち上げながら、カツンと硬い靴音が一つ。
一歩、また一歩。
さらに一歩、その瞬間、勇者は一気に間合いを詰めました。
「…!」
―――ギィイイインッ!!
耳をつんざくような剣戟音に、勇者の目が見開かれました。
自らの剣を止めた、あまりにも見慣れた剣筋。
怪人の傍ら、ロロの身体は糸の切れた人形のようにだらりと垂れ下がっていました。
力の抜けた肩。今にも膝から崩れ落ちそうなその姿から、ただ片腕だけが不自然な角度で突き出されていたのです。
ぶら下がるように脱力した姿勢のまま。
にもかかわらず、その手に握られた細剣の先端だけが、寸分の狂いもなく勇者の斬撃を止めていました。
『…星のこえ』
神速のコード発動。
次の瞬間、勇者の葬送剣が粉々に砕け散りました。
「…!!」
破片が勇者の頬を裂き、舞い散る銀色の粉塵。
その光景が網膜に焼き付くよりも早く、ロロの姿が掻き消えました。
「ッ!」
「…」
勇者の視界が、横腹から突き上げられた衝撃で激しく歪みます。
超高速の回り込みから放たれた一閃が、彼のわき腹を串刺しにしていたのです。
二度、三度。内臓を抉るように手首を捻ったあと、ロロは刃を引き抜きました。
苦悶の表情を浮かべながら、勇者が膝を付きます。
怪人は止まりません。
背後で繰り広げられる惨劇など、舞台の余興にすらならないとでも言うように、両手を広げ、悠然と歩を進めます。
ジャンヌの視線の先。倒れた勇者がこちらに手を伸ばしていました。
その直上、垂直に近い角度で、細い刃が突き立てられようとしていました。
―――
息を呑む瞬間。それを引き裂いたのは誰かの悲鳴などではありません。
『ツインキャスト……嵐よ喰らえ』
後方から唱えられるコードスキル。
即座に、スカイワールドを満たすエレメントが主の命に従います。
ごく小規模に、壊滅的な被害をもたらす災害。それは瞬く間に、すべてを掻き切る刃へと変じます。
荒れ狂う嵐は、怪人を八つ裂きに、ロロの刃を強引に弾き飛ばしました。
放物線を描くように往来へと飛び込んできたのは妖艶な美女。
ベラトリスが指先を跳ね上げます。
『真空刃』
見えない真空の刃の一閃。
―――ギィイインッ!!!!
高周波の唸りを上げながら弾き飛ばされるロロの身体。彼女はそのままの勢いで、後方へと投げ出されてしまいました。
どさりと音を立て、ロロの身体は石畳の上に転がりました。
その間にベラトリスが勇者の傍らへと舞い降ります。
翻る髪も、乱れる衣も、今の彼女には何の意味もありません。
妖艶な美貌に浮かんでいたのは、前線を支える術者だけが持つ、冷え切った緊張でした。
「……動かないでくださいまし勇者様。アステリオンは危のうございます…下手に動かせば、肉体の連鎖崩壊が早まってしまいますわ」
低く言い捨てると、ベラトリスは膝を折り、勇者の体に両手をかざしました。
昼間の太陽をも見劣りさせるような、『温かな光』。
治療の最中、勇者は恐る恐る指先をベラトリスへと伸ばします。
胸元の傷に触れる直前で、それは遠慮がちに止まりました。
「ああ、この傷でございますか?御心配には及びません。躾の成っていない『犬』に引っかかれただけでございますわ」
「…」
誰もが固唾を飲んで見守る中、温かな光は徐々に小さくなっていきました。
次いで、ベラトリスは勇者の瞳を覗き込みます。
そうして彼女は、混濁した記憶の中から、重要な断片を一瞬のうちに拾い上げていきました。
勇者は何も答えません。
ただ荒い呼吸の奥で、彼女の瞳の海をただただ漂うばかりでした。
「……なるほど」
立ち上がった彼女の指先が、かすかに弧を描きます。
『ディープ・ディテクション…』
空気そのものへ溶けるように放たれたコードが、周囲一帯へ薄く広がっていきます。
石畳。瓦礫。風の流れ。揺れるエレメント。誰かの輪郭、その息遣いに至るまで。
この場に残るありとあらゆる情報を、彼女の感覚が一挙に洗い上げました。
「……まったくもって、気色の悪いコードでございます」
吐き捨てながら、ベラトリスの瞳は石畳に転がるロロを射貫きます。
「…異常なし。けれど、だからこそ異常…」
誰一人、指先一つ動かせませんでした。
数多の視線の中央で、ベラトリスは静かに歩を進めます。
感情を一切挟まず、ただ事実だけを積み上げて結論へ至るその姿は、真理を解き明かす演繹者そのものでした。
「…この現象は、コードスキルによるものではございません。肉体の主導権だけを奪われた半端な支配ではなく、戦闘能力を保ったまま、完全に敵として再構成されている…たとえ一時的に押さえ込めたとしても、彼女ほどの使い手を生かしたまま維持する手段など、この世界にはございません……よって」
本来ならば、あえて語る必要もない言葉は、これから残される者と、ここで去る者、その双方に等しく向けられた、彼女なりの手向けでした。
石畳の上に投げ出されたロロは、なおも糸の切れた人形のように力なく伏しています。
けれど、その指先だけは、いつ再び不自然な動作で跳ね上がってもおかしくない危うさを秘めたままでした。
「ロロの旅は、ここでお終いでございます」
ベラトリスの指先が持ち上がります。
それだけで十分でした。
術者としての格が違う者が本気で指を向けたとき、この場にいる誰もが理解してしまうのです。
次に放たれるものが、警告でも牽制でもなく、明確な終わりそのものであることを。
『ヴォイドマジック……』
聴衆は息すらできませんでした。
いいえ、もはや、しようとさえ思えなかったのです。
泣き叫ぶことも。
止めを乞うことも。
ただ見開いた瞳のまま、この美しくも残酷な処断を見届けるほかありませんでした。
ベラトリスの唇が、わずかに開きます。
『―――禁じられた刃』
コードが世界へ接続される、その寸前でした。
ロロの前方、何もなかった空間へ、唐突に一人の男がねじ込まれるように現れたのです。
「……!」
ベラトリスがそのままの形でぴたりと停止しました。
神話等級の鎧を砕かれ、崩壊する肉体の痛みに顔を歪める男。
勇者はロロを庇うように両足を踏みしめ、その身で彼女の前へと割って入っていました。
右手には、小さな銀細工の人形が握られています。
指の中に収まるほど小さなそれは、古い祈祷具めいた意匠をまとった、騎士の姿をした像でした。
兜を戴き、剣を捧げ持ち、主君の前に膝をつくその姿は、まるで盾となる忠誠そのものをかたちにしたようでもあります。
「…『銀の聖騎士人形』」
ベラトリスが囁くように、その道具の名を口にしました。
守るべき対象を視界に捉えた瞬間、その者と自らの位置を強制的に結び、主を庇う最短の一点へと肉体を割り込ませるためだけに創られた守りの秘具。
それは回避のための道具ではありません。
生還のための奇跡でもありません。
ただ、間に合わないはずの一瞬へ、無理やり間に合うためだけに存在する、忠誠の使い捨てでした。
役目を終えた人形が、勇者の掌の中でさらさらと崩れていきます。
銀の砂となったその残骸は、風に散る聖灰のように淡くきらめき、次の瞬間には跡形もなく消えてしまいました。
見つめ合う二人。
勇者は何も語らず、ベラトリスもまた、すぐには言葉を繋ぎません。
その沈黙は、互いの判断を測るためのものでも、迷いを確かめるためのものでもありませんでした。
ただ一瞬。
あまりにも多くを承知した者同士が、もはや言葉など不要だと知ってしまったがゆえの、短すぎる静寂。
勇者の瞳の海に、ベラトリスが映ります。
その背後。
裂かれたはずの闇を押し分けるようにして、怪人が静かに牙を剥いていました。
「…四十秒」
誰に聞かせるでもなく、ベラトリスが低く呟きます。
次の瞬間、その身体が翻りました。
優雅ですらある動作でした。にもかかわらず、そこには一片の躊躇いもありません。
『真空刃』
白い指先が弧を描き、見えない刃が走ります。
怪人の首が、音もなく宙を舞いました。
整えられた口髭を浮かべたままの頭部が石畳の上を滑り、遅れて胴が赤黒い飛沫を噴き上げます。
けれどベラトリスは止まりません。
先ほどと同じです。これで終わる相手ではないと、彼女はすでに理解していました。
裂けた首の断面、吹きこぼれる闇、崩れかけた輪郭。
そこへ追撃を重ね、再生まで四十秒―――仮説の真偽を解き明かすべく、精密に火力を調節します。
その時でした。
視界の端に、銀の一閃が映り込みます。
「…!」
勇者の体が、びくりと跳ねました。
倒れていたはずのロロが、その背後へと忍び寄っていたのです。
細剣の白い切っ先が、勇者の腹を深々と貫いていました。
「…」
ベラトリスの追撃がそこで止まります。
代わりに放たれたのは、先ほど怪人を八つ裂きにした時と寸分たがわぬ火力などではありません。
『ブロウ』
それは攻撃とすら呼べない、軽い衝撃でした。
ロロの身体がふわりと浮き、剣を握ったまま後方へと投げ出されます。
石畳の上を二、三度転がった後、彼女はまた糸の切れた人形のように崩れ落ちました。
その間に、ベラトリスは一切の淀みなく勇者の前へ滑り込みます。
瞳を合わせ、両手を腹部へと添えました。
まるで舞踏の合間の所作のような、あまりにも流れるように美しい動きでした。
淡い光が、彼女の指先から勇者の傷口へと流れ込んでいきます。
裂かれた肉。
崩れかけた肉体の均衡。
それらを繋ぎ止めるためだけに、ベラトリスの意識は全てその一点へ注がれていました。
勇者は苦悶を押し殺しています。
ベラトリスの背後、虚空に浮かぶ牙が、彼女の首筋へと迫っていました。
それでもなお、彼はベラトリスの視線から逃れることができません。
時間が、酷く引き伸ばされたように感じられます。
永遠とも思える、その一瞬。
広場を埋める無数の視線も、息を呑んだ群衆の気配も、崩れた塔の軋みも、すべてが遠のいていました。
ただ、その静止の中を。
怪人の牙だけが、無慈悲な確かさで進んでくるのです。
首をはねられたはずの胴が、闇に濡れた切断面を蠢かせながら歩み寄ります。
転がった頭部は口元だけを愉快そうに歪め、赤く濡れた瞳でこちらを見上げていました。
やがて、その輪郭は溶けるように崩れ、次の瞬間にはベラトリスの背後で再び人の形を結びます。
整えられた口髭。
灰色のスーツ。
そして、その下で静かに剥かれる白い牙。
治療に集中するベラトリスの首筋へ向けて。
「さあ、勇者様。もうしばらくは戦えますわ」
「…!」
その牙が届いた瞬間、また一つの旅が終わりました。
勇者の網膜に焼き付いたのは、ベラトリスの姿。
彼女は最後のその時まで、彩られた唇の端に変わらぬ微笑を湛えていました。




