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Bの2傷。

 ルキウスはベラトリスの細い体を押し倒したまま、すぐには動けませんでした。

 深く裂かれた脇腹から、遅れて熱が広がっていきます。呼吸をするたび、そこへ焼けた熱線でも押し込まれるような痛みが走りました。

 ですが、それ以上に彼の意識を引いていたのは、腕の中の女でした。


 ベラトリスは、まるで落下の衝撃など存在していなかったかのように、静かに彼を見上げていました。

 乱れた髪も、浅い呼吸も、怯えた気配すらありません。

 首元に押し当てられた刃の向こう、その瞳には、むしろ薄い退屈さすら浮かんでいます。


「…俺の勝ちだ、ベラトリス…!降参しろッ!!」


 ルキウスの怒声。

 額には玉のような汗が滲んでいます。


 ベラトリスは身じろぎ一つせず、少しの間、黙っていました。

 その間、ルキウスの視線は常に周囲を警戒していました。


 操られていたプレイヤーたちに動きはありません。

 都市の中央からは、石畳を叩く硬い靴音が響いてきています。一人や二人ではありません。異常事態を察知した仲間たちが、確実にこの場所へと近づいていました。


「…勝ち、でございますか」


 ようやく開かれたベラトリスの唇から漏れたのは、鈴を転がすような、場違いに穏やかな声でした。

 彼女は刃の冷たさを愉しむかのように、わずかに顎を持ち上げます。


「ねえ、ルキウス。お放しになっていただけませんこと?それから、もう一度わたくしといたしませんこと?」


 ルキウスは怪訝そうに顔をしかめ、刃を握る手に一層の力を込めました。

 滴り落ちる泥混じりの汗が、ベラトリスの白い鎖骨を汚していきます。


「つくづく愚かな女め、貴様にはこの俺が、一度捕えた猛獣を、みすみす野へ放つように見えるのか?」


 吐き捨てるような拒絶は、かすかに震えていました。

 しかし、ベラトリスは瞬きひとつせず、ルキウスの瞳の奥をじっと覗き込みました。至近距離で見つめ合うその瞳は、うかつに踏み込んだ者を容赦なく飲み込む、底の見えない暗い深海のようです。


「あら、そんなに邪険になさらなくても。…ねえ、ルキウス。もう一度だけ、わたくしと踊ってくださいな。今度は剣ではなく、もっと別の形で」


 甘い囁きを伴った指先が、ルキウスの傷口をかすめるようにゆっくりと空をなぞりました。

 誘惑というよりは、まるで得物の命を数えるような、冷徹で優雅な所作。

 ルキウスの傷のひとつが、知らぬ間に完治します。

 底冷えするような不気味な瞬間をルキウスの怒声が切り裂きました。


「笑わせるな!たかだか俺の身一つ、貴様と引き換えるには危険が過ぎる。踊り足りないと言うのなら、あの世で死神とでも踊るがいい」


 ベラトリスは、なおも仰向けのままルキウスを見上げています。

 その唇がかすかに弧を描きました。


「命を奪うだけの退屈な神などに、わたくしを委ねて…あなたはそれで本望なのでございましょうか?」


 視線の先、ルキウスの瞳は氷のように澄んでいます。


「無駄だ、ベラトリス。この俺をたぶらかそうなどと、せめて人として生まれ変わってから試みることだ」


「…まぁ、狭量でございますわね。浅瀬で戯れただけで…海ではない。そう断言なさるのでございましょうか?もっと深く、もっと近く、せめて顔をつけてから判断なさるべきではなくて?」


「遠慮しておこう。貴様が汚らわしい毒沼であることを、危険を冒してまで証明するつもりはない」


「毒沼は愛せませんか?」


「くどい!」


「…そう」


 ベラトリスの指先が刃の上を滑ります。


「ならおやりなさい」

 

 こぼれた刃が、白い指先を容易く裂いていきました。


 ルキウスは咄嗟に刃を傾けます。

 そうしなくてもよかったはずでした。  

 けれど、策略とも本心とも分からぬ何かが、彼の決断をわずかに鈍らせていたのです。

 

 するとその時です。

 ルキウスの瞳が、物理的に揺れました。

 街全体を揺るがす衝撃。


―――ゴォオオオオオン…!!


「……!」


 祭壇の石踏みが軋み、芝の上を浅い砂塵が走ります。

 視線が、ほんのわずかにそちらへ引かれます。

 教会都市の中心、天を衝く白い塔が、目に見えて傾いていました。


(―――ジャンヌ様……!)


 それは、騎士としてあまりに自然な反射でした。

 ほんの刹那。刃を押し付けたままの態勢は崩していません。けれど、意識だけが明確に別の場所へと跳ねたのです。


 ベラトリスは、それを見逃しませんでした。

 瞳の奥、どす黒い何かが蠢きます。


「……」

「なに―――」


 ルキウスが意識を引き戻した時には、もう遅かったのです。

 わき腹から零れ落ち、ふいに逆流すように、それは持ち上がりました。


 血液を思わせる赤い液体。


 それが今、意思を持った水蛇のようにうねり、傷口そのものを起点として激しく蠢き始めていたのです。


「ぐぅッ…!?」


 激痛が、わき腹から全身へと駆け上がります。

 傷が塞がるのではありません。むしろ逆でした。裂けた肉の内側から、得体の知れないものが引きずり出されるような、ぞっとする感触。

 赤黒い触腕は一息に数を増しました。一本が腕へ。一本が脚へ。


 さらに幾筋もの濁った水流が、ルキウスの胴へ、肩へ、喉元へと、傷の上を這いながら絡みついていきます。


「貴様ッ…!」


 屈辱と痛みに悶える姿を、ベラトリスはぴくりとも動かずに見上げていました。


 やがて、ルキウスの重心が、強引に後方へと持っていかれます。


「く……ッ!」


 踏ん張る間もありませんでした。

 赤黒い触手が一斉に収縮し、その体を祭壇の上へと叩きつけます。

 背中に走る衝撃。肺から空気が押し出され、喉の奥でつぶれた声が漏れました。


 続けざま、左右の腕が大きく引き伸ばされます。

 わき腹の裂傷を起点とした触腕が、まるで生きた楔のように白い石へ深々と食い込み、ルキウスの体をそのまま祭壇に縫い止めていきました。


 水音にも、肉の軋みにも似た嫌な音が、短く広場に響きます。


「が……ァ……!」


 ルキウスは歯を食いしばり、拘束を引き剥がそうと全身に力を込めます。

 筋肉が軋み、祭壇の石には亀裂が走りました。ですが、赤黒い触手はそれ以上の勢いでうねり、むしろ彼の動きに合わせて深く、重く食い込んでいきました。


 視界の端で、ベラトリスがゆっくりと身を起こします。


 押し倒され、芝生に転がった直後だというのに、彼女の所作はどこまでも優雅でした。

 乱れたドレスを払い、指先で前髪を整え、まるで舞踏会の最中に少しだけ脚をもつれさせた程度のこととして、その場へ立ち上がります。


 つい先ほどまで、永遠の愛が誓われるはずだったその場所は、いまや禍々しい儀式の祭壇へとなり果てていました。

 壇上から睨みつけるルキウスへ、彼女は淡く、妖しげな笑みを向けました。


「なぜ、おやりにならなかったのでございましょう」


 ルキウスは再び拘束を引きちぎろうとします。

 祭壇の端が砕け、赤黒い飛沫が飛び散りました。

 それでも、完全には剝がれません。

 ベラトリスは、満足げに目を細めます。


「……ああ」


 ゆっくりと、一歩一歩、祭壇の中央へと歩み寄ると、磔にされたルキウスの顔を覗き込みました。

 彼女は低く囁きます。

 

「わたくしを、愛してしまったのですね?」


 磔にされた体が、ほんの一瞬だけ硬直しました。

 拘束を引き剥がそうと軋んでいた筋肉が止まり、祭壇に食い込んだ触手だけが、ぬめるように脈打っていました。


「…」


 俯いたルキウス。

 やがて。

 彼の肩が小刻みに震え出し、顔に冷たい亀裂が走りました。


「……く」


 喉の奥で漏れたのは、再三吐き捨てられてきた罵詈雑言ではなく、極めて単純な感情の発露。乾いた笑いでした。


「ふっ……は、はは………!!」


 静まり返る広場に、ルキウスの冷笑が木霊します。

 ベラトリスは、眉一つ動かさずその様子を眺めていました。

 

 吊りあがった口角から、獣じみた白い歯が覗きます。

 その瞳には、先ほどまでとは違う種類の熱が宿っていました。


「愛……。愛だと?貴様の口から語られる愛など、小便器から聞こえてくる交響曲のようなもの…そんなものに耳を傾けること自体が滑稽極まる……よしてくれベラトリス。これ以上、俺を苦しめないでくれ…俺の負けだ。潔く、ここで散るとしよう」


 ルキウスは、全身を蝕む激痛すらも愉しむように肩を震わせます。

 祭壇に縫い止められたまま、それでもなお、彼は笑っていました。


 ふいに、ベラトリスの周囲の空気が渦を巻きました。

 ルキウスは、自らの最後を悟ります。脳裏に浮かぶのは試練と苦悩、安寧と栄華を共にしてきた仲間たちの姿―――。


(…俺にしては健闘したと言えるだろう。…レオン、マクシミリアン。…後は頼んだぞ)


 下を向き、笑いの余韻に浸るルキウスへ、ベラトリスはそっと唇を押し当てました。


――――――ブツリ…。


「ッ!?」


 渦巻く空気に身を預け、彼女の体はふわりと後方へと流れていきました。

 自然とたどり着いたその先で、彼女はどこまでも優雅に佇んでいました。

 その佇まいには、淡い晴れやかささえ滲んでいます。


 ルキウスは、意表を突かれたように眉をひそめました。

 噛み潰された唇には、鮮烈な痛みだけが残ります。


「…お前」


 視線の先、ベラトリスは口の隅に変わらぬ微笑を湛えていました。

 

「さようなら、ルキウス」


 身を翻した彼女の白い指先が、ルキウスの頬を掠めていきます。

 その一瞬で、唇の痛みは跡形もなく消え去りました。

 代わりに残されたのは、ぬるく、柔らかな女の熱でした。 


「……」


 煌びやかなドレスに身を包んだ体が空中へと舞い上がります。

 街の中央、傾いた塔へと飛び去る後ろ姿を、ルキウスは呆然と眺めていました。



―――やがて。


『ルキウーーース!』


 温かな陽光だけが差し込む静まり返った広場に、朗々とした声が鳴り渡りました。

 借り物の剣を片手に、外し損ねたすね当てはひしゃげたまま。

 全身傷だらけになりながらも、それでも足取りだけは少しも鈍らせず、彼は一直線に祭壇へと駆け寄ってきます。


「ルキウス!」


 レオンでした。


 祭壇の上に磔にされたまま、ルキウスは視線だけをそちらへ向けました。

 レオンは戦慄しました。

 そこには、かつての自信や、全てを見透かすような冷笑もありません。

 ただ、その横顔には、怒りとも困惑ともつかない、奇妙な空白が浮かんでいました。


「ッ!…ルキウス!!」

 

 表情をいっそう険しくしたレオンが、壇上に転がり込みました。

 中央で磔にされた友の横顔を覗き込みながら、彼は声を張り上げました。


「おい!無事かルキウス!どうしたというのだ…!おい!」


「…レオンか、ジャンヌ様は、無事に脱出できただろうか?」


 遅れて返された声は酷く掠れていました。

 けれどそれは、彼の良く知る冷徹な響きを伴ってもいました。

 レオンはやれやれとでも言いたげに肩をすくめ、短く鼻を鳴らします。


「さあな。しかし、さすが上級聖務特使様…一筋縄ではいかぬな。俺はともかく、貴様をもってしても、身も心も鋼であったか」 


 レオンはそう言って、戦いの煤に汚れた顔で闊達に笑いました。

 相変わらずの、能天気とも取れる友の言葉。

 ルキウスは、痛みさえ消し去られた自身の唇に冷笑をひらめかせます。


「……そうでもないさ」


 それは、いつもの冷徹な計算の上に成り立つ笑みではなく、どこか気まずく、どこか虚ろな微笑でした。


「……?」


 レオンは、その見たこともない友の表情に、不思議そうに眉をひそめました。


 陽だまりに照らされた祭壇の上で、ルキウスはしばし黙り込みます。

 赤黒い拘束に磔にされたまま、その視線だけが、もう誰もいない空へとかすかに揺れました。

 

 広場には、戦いの終わりにしてはあまりにも不釣り合いな、穏やかな光だけが満ちていました。


 その向こう側。都市の中央、タワーオブモニュメントは――確かに、その傾斜を深めていました。

 

 

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