手袋。
それから、さらにいくつかの朝と夜が過ぎていきました。
屋敷の中には少しずつ、四人分の生活のリズムが染み込んでいきます。
朝になれば、シャズとセイムはまだ薄暗いうちから坑道へと向かい、ピナとジゼルは屋敷に残って家の仕事をしました。
夜になれば、土と鉄の匂いを纏った男たちが戻り、温かな湯気の立つ食卓を囲みます。
そうした日々が、まるで同じページを何度も読み返すかのように繰り返される一方で、ジゼルの胸の奥には小さな棘のようなものが少しづつ刺さっていきました。
それは、セイムの手でした。
ある日の夕方、坑道から戻った彼が玄関先で濡れた上着を脱いだときでした。
無造作に留め具へ触れたその指先を見て、ジゼルは思わず息を呑みます。
指の節は赤くひび割れ、汚れた掌の皮膚には不自然なほどに丸い、切り取ったかのような真っ赤な傷痕。
「……セイムさん、それ」
ジゼルが思わず口を開くと、セイムは彼女の視線の先、自分の手を見下ろしました。
声を細め、堪らず彼女は尋ねます。
「痛くないんですか?」
「痛いです。でも、平気です」
返ってきたのは、あまりにも簡単な答えでした。
それだけ言って、彼は本当にそれ以上気にした様子もなく濡れた外套を壁際にかけて、廊下を進んでいきました。
ジゼルは何かを言い返そうとして、結局、喉から出かけた言葉をやるせなさと共に飲み込みました。
その夜、食卓の上でパンをちぎるセイムの指先をジゼルは無意識のうちに何度も目で追ってしまいました。
温かな煮込み料理の湯気の中にあっても、彼の手だけはどこかこの家のものではない。
そんな気がしたのです。
冷たく、乾いて、ずっとどこか別の場所で削られてきたみたいに……。
視線の先、セイムは指先の汚れが移ったパンを平然と口に運んでいました。
その無頓着さが、かえって彼という存在の空虚さを物語っているようで、ジゼルは胸が締め付けられるのを感じました。
―――
翌日、ピナと並んで繕い物をしていた時も、ジゼルの頭の中にはあの痛々しい手が残っていました。
日が差し込む窓辺。籠の中にまとめられた擦り切れた作業着。針と糸。ピナの蹄が、鼻歌に合わせて床を軽やかに打つ音がこの日も聞こえています。
けれど、ジゼルの指先はいつになく落ち着きません。
針を進めるたびに、思考があちこちへ散ってしまうのです。
―――どうすれば。何ができるのだろうか?
「…」
「どうしたの?シオちゃん」
「え…?」
すっかり聞きなれた愛称が、ジゼルを現実へと引き戻します。
小日向栞。その名から付けられたものでした。
顔を持ち上げると、ピナはくすりと鼻を鳴らします。
「ずいぶん大人びた顔をして…気になることでもあったの?」
ジゼルは慌てて布を抱えなおします。
「そ、そんなこと…なんでもないんです」
「そう?けど……縫い目がいつもより二つ分くらい遠いわね?」
「……」
言い返せませんでした。実際、布の端には不格好な目飛びが並んでいました。
責めるでもなく、ピナは静かに立ち上がります。
白い尾が穏やかに部屋の空気を薙ぐと、不思議とジゼルの心は軽くなりました。
やがて、屋敷のどこかへと遠のいた蹄の音が戻ります。
ピナが抱えていたのは大きな籠、その中には真新しい布や厚手の革の切れ端、柔らかな裏地に使えそうな古布が混ざっています。
「せっかく誰かのために作るんだものね。これで足りるかしら」
ジゼルの肩がピクリと跳ねました。
「だ、誰かのためだなんて」
「違うの?」
優しく問われて、ジゼルは視線を落とします。
その端、ピナはそっと籠を置きました。
少し黙ったあと、ジゼルは観念したように俯きながら小さく口を開きます。
「……セイムさんの手が、ひどいんです」
「ええ」
糸のように目を細めて、ピナは全部知っていたとでも言いたげにあっさり頷きました。
「見ているだけで、なんだか……その」
「痛そう?」
「はい」
ジゼルは少しだけむっとして言い足します。
「なのに、平気だなんて、言うんです」
ピナはしばらく黙っていました。
窓の外では、冬の気配が屋敷の周りにだけ不自然に横たわる緑を揺らしています。
「あなたは平気じゃないのにね」
やがて、彼女はそう言いました。
ジゼルがこくりと頷くと、ピナは膝を曲げ、つやつやとした毛並みに覆われた体を横たえます。
籠の中から布の切れ端を一枚持ち上げて、職人のような厳しい、けれど慈愛の籠った声で続けました。
「坑道用なら、柔らかいだけでは駄目。掌は厚く、指はちゃんと曲がるようにしてあげないと」
「……作れるでしょうか」
「どうかしら、シオちゃん次第ね」
どこか突き放すように、そう告げて差し出された布は見た目こそ地味ですが、思ったよりずっとしなやかでした。
手に沿うように垂れ下がった布の向こう側。
いっそう細められたピナの目には、穏やかさ以外のものはありません。
「最初は片手ぶんでもいいの。利き手から作りましょうか」
ジゼルは、その布を両手でそっと受け取ります。
それはまだ、単なる材料であるはずなのに、不思議と少し重く感じられました。
―――夜。
屋敷が静まり返ったあと、ジゼルはこっそりと部屋を抜け出しました。
一階へと続く階段を軽やかに駆け下りて、暖炉の前、並べた椅子の上でいびきをかいているシャズの足元を通り抜け、彼女は居間へと向かいます。
昼の間は食器の触れ合う音や、ピナの蹄の音で満ちていたその場所も、今はまるで知らない別の部屋のようにひっそりとしていました。
灰を被った残り火の赤が床の上でかすかに明滅し、窓の外では、冬の夜気に揺れる枝葉が影を落としています。
ジゼルは誰も起こさないように慎重に椅子を引き、ランプを机の端へ寄せました。
薄い灯りの円の中で、針先だけが、時折淡く反射します。
最初は、ただ必要だから作るのだと思っていました。誰だってあんな手を見たら、少しは何かしたくなる。これはそういうことで、特別な意味なんてない。そう自分に何度も言い聞かせていました。
けれど実際に針を進め始めると、ジゼルの頭の中には、セイムの手のことばかりが浮かびました。
親指の付け根には、少し広めに布を当てたほうがいいかもしれない。
指先は動かしやすくしないと、道具が握りづらいだろうか。
あの、皮膚が剥けていた部分は、縫い目が当たると余計に痛むのではないか。
考えれば考えるほど、その度に手の動きが鈍化します。
ジゼルはむっとして、針を持ち直しました。
「……別に」
誰もいないのに、自然と独り言がこぼれます。
「他にもいろいろ、知ってるんです…セイムさんの、ことなんて…」
わざわざ口に出すと、頬が少しだけ熱くなりました。
針先が下穴を通り、糸がきゅっと音を立てて締まります。
一針、一針、まるで道を舗装するかのように、薄明りの中で小さな縫い目は静かに積み重なっていきました。
途中で一度、指先を刺しました。
「いたっ……」
小さく漏れた声を、慌てて抑え込みます。
指先を灯りに当て、ジゼルは眉をひそめました。
「…」
指先に辛うじて見えたのは、淡い紅の点。たったそれだけでした。
ジゼルは唇を引き結び、布で指先を押さえます。
それから何事もなかったかのように、また針を進めていきました。
しばらくして、扉の向こうで控え目な蹄の音が止まります。
あまりにも集中しすぎていたせいでしょうか、あるいは、慣れない夜更かしのせいでしょうか、それは定かではありません。ジゼルの反応は明確に遅れてしまいます。
「まだ起きていたのね」
顔を上げると、戸口のところにピナが立っていました。
夜着の上から肩に布をかけ、眠たげな目でジゼルを見ています。
「……あ、ご、ごめんなさいピナさん。起こしてしまいましたか?」
ジゼルが慌てて声を潜めると、ピナはにっこりと慈愛に満ちた微笑みを浮かべました。そして、人差し指をふっくらとした唇に押し立てます。
(しぃー…)
「……っ」
ジゼルは、自分の鼓動がピナにまで聞こえているのではないかと不安になり、かあっと頬を赤く染めて俯きました。
隠そうとしていたものが全て悟られてしまっている。とりとめもなくそう感じたのです。
ピナは蹄の音を立てないように、驚くほど静かな足取りで板張りの床を滑るように進み、ジゼルの隣までやってきました。
「この時間は、いつも少しだけ小腹が空いちゃうの。…シャズには内緒よ?」
悪戯っぽく片目を細めて囁くピナに、ジゼルは一瞬動きを止め、それからゆっくりと、深く頷きました。
完ぺきに見えていたピナにも、小さな後ろめたさがある。
その事実が、ジゼルの強張っていた肩の力をふっと抜いてくれました。
ピナは台所の最も高い位置にある棚から、慣れた様子で茶葉の缶と小皿に並んだ焼き菓子―――日中の残りか、あるいは彼女の隠し持っていた特別なもの―――を取り出しました。
「せっかくだから、またお願いしちゃおうかしら?」
ピナの問いかけに、ジゼルは静かに頷きました。
縫いかけの手袋を膝に置き、ゆっくりと差し出されたポットに両手を添えます。
彼女の意識の集中と共に、エレメントが微かに活性化します。
ぷくぷくと、小さな音を立てて水が熱を帯び、やがてポットの注ぎ口からは柔らかな湯気が立ち上がりました。
「ふふふ、ありがとう。シオちゃん♪」
高度な技術を有するはずのエレメント操作。しかし、今のジゼルにとっては、言葉を紡ぎ出すよりも容易い行いでした。
視線を落としたまま、控え目に頷きます。
それ以上の答えを求める素振りもなく、ピナはその場で膝を曲げました。
湧き上がったお湯を、ゆったりとした動作で二人分のカップへと注ぎます。
琥珀色のお茶が立ち昇らせる香りが、深夜の冷えた空気を温めていきました。
「はい。シオちゃん、どうぞ」
「…ありがとう、ございます」
頬を染めたまま、手元のカップを見つめて黙り込むジゼル。
そんな彼女の動揺を心から楽しむように、ピナは惜しげもなく、皿の上の焼き菓子を口に運びました。
ふわりとバターが薫り、もぐもぐと咀嚼する喉の奥から、鼻を抜けるような甘い歓喜の吐息が漏れました。
「んんー……おいしぃ…」
うっとりと片手を頬に添え、ピナは低い音色で囁きます。
「こんなにおいしいフィナンシェ……いったいどこで教わったのかしら?」
ピナの瞳が、湯気の向こう側からジゼルをじっと見据えます。
その眼差しは、ジゼルの過去を暴こうとする鋭さではなく、いつか彼女が心を開く日を待ち望む、深い寛容さに満ちていました。
視線を落としたままジゼルは肩をすぼませます。
「……」
まだ、答える準備ができていない。
自分がどこから来て、そしてなにがあったのか。
けれど、いつかこの優しい蹄の音を響かせる女性になら、話してもいいかもしれない。
ジゼルは、ちくりと痛む指先をカップに押し当てながら、静かにそう思ったのでした。




