第八話 盟友の契り
入徳館高校のネットワークは、難攻不落の要塞だ。全生徒の行動履歴も、購買データも、生活のすべてがブロックチェーン(TOK)に刻まれ、生徒会と監査委員会の「目」に常時監視されている。
だが、どんな完璧なプログラムにも、設計した人間の『癖』は必ず残る。
第二期旧校舎三階、長年使われていない「第三PC室」。埃まみれのその部屋で、佐竹紀洋は数台のモニターの青白い光を浴びながら、狂ったような速度でキーボードを叩いていた。
目の下には濃い隈。床にはエナジードリンクの空き缶が転がっている。机の端では、左腕から外されたスマートウォッチが小型モーターに巻きつけられ、「平常時の心拍数」という偽の生体データを、システムへ送り続けていた。
「……よし、生徒会直轄サーバーの監視ログを〇・二秒だけ誤魔化した。これで俺のTOK不正マイニングは、誰にも……」
「その偽装、明日の朝の検査で、監査委員会のアルゴリズムに検知されるぞ」
「うわあああっ!?」
背後から浴びせられた氷のような声に、佐竹は椅子ごとひっくり返りそうになった。
振り返ると、黒の学ランを隙なく着こなした矢川蓮が、無表情で見下ろしていた。
「お、お前、誰だ……!? どうやってここに! 廊下のカメラは、全部ループ映像に差し替えたはずだ……!」
「俺は矢川蓮。柔道部の者だ。映像の偽装は完璧だった。だが、お前はカメラの『首振りモーターの音』までは計算に入れていなかった」
「……は?」
「掌握されたカメラだけ、駆動音の周期がわずかにズレていた。それを廊下伝いに辿った」
「モーター音を、辿って……? 耳で……?」佐竹は慄いた。「人間じゃねえだろ、それ……」
デジタル空間では凄腕を気取る佐竹も、肉体を持つ現実では、ただのひ弱なオタクにすぎない。
「頼む、見逃してくれ! 監査委員会に突き出されたら、俺は退学だ……!」
「俺は生徒会でも委員会でもない。むしろ、奴らの『目』を潰したい側だ」
矢川は倒れたパイプ椅子を起こし、静かに腰を下ろした。
「単刀直入に言う。俺の作る『セーフハウス』のシステム・アーキテクトになれ。最初の仕事はこうだ。ゲートの関税システムを迂回する、ドローンによる外界からの密輸ルートを確立しろ」
「……はっ」佐竹は鼻で笑った。「馬鹿を言うな。この学校を、舐めてるのか」
だが、その笑いは、途中で強張った。
「生徒会長、二階堂冬美。あの女が構築した監視システム(パノプティコン)に、死角なんてものは存在しない。対空センサーもある。……あの女はな、システムの綻びができる前に潰すんだ。俺の偽装だって、今日まで保ったのが奇跡みたいなもんだ。あいつに目をつけられたら、その時点で終わりなんだよ」
佐竹の声には、明確な怯えがあった。技術者だからこそ、二階堂冬美という存在の底知れなさを、誰よりも理解している。
「作れる」
矢川は即答した。
「お前は、システムに『正面から』挑もうとするから怯える。構造を知り尽くしているなら、それを利用して身を隠せるはずだ。……たとえば、密輸ドローンの制御通信を、最も警戒が厳しく、誰も疑わない『生徒会役員の特権アカウント』の裏に寄生させる、とかな」
佐竹の目が見開かれた。が、次の瞬間、彼は険しい顔で首を振った。
「……いや、駄目だ。それはやり方としては正しいが、詰めが甘い」
初めて、佐竹が矢川を見上げて反論する。
「特権アカウントは、二階堂が誰より自分の目で見張ってる聖域だ。そこに寄生した瞬間、あの女は異物の『気配』を嗅ぎ当てる。……寄生じゃ駄目だ。隠すんじゃなく、『紛れさせる』んだよ。密輸の通信を、特権アカウントが毎秒吐き出してる大量の定常ログ、そこに擬態させる。ノイズの中に、ノイズとして溶かす。そこまでやって、ようやくあの女の目を騙せる」
矢川は、しばらく佐竹を見つめた。
「……なるほど。その最後の実装は、俺にはできない」
それは、矢川がこの学校ではじめて認めた、『敗北』だった。
「最後の一手を打てるのは、お前だけだ。……だから、お前が要る」
佐竹の喉が、ごくりと鳴った。傲慢な男だと思っていた。だがこの男は、自分にできないことを、あっさりと「できない」と認めた。
それでも、佐竹はまだ頷かなかった。誰も信じず一人で生きてきた男のプライドが、最後の抵抗を試みる。
「……いい話に聞こえる。だがな、なんで俺が、お前とつるむ必要がある? 俺は一人で十分やってこれた。これからも」
「お前一人では、いずれ直接攻撃で詰む」
矢川は、静かに遮った。
「現に、お前は今、詰みかけている」
その言葉を、証明するかのようだった。
ドカドカ、と乱暴な足音が廊下に響いた。
『おい! この部屋、電力消費量がおかしいぞ! 開けろ、生活保安委員会だ!』
佐竹の顔から、血の気が引いた。
「ほら、見ろ……! 終わりだ、もう退学だ……!」
「落ち着け」
矢川は表情一つ変えず、立ち上がった。一度、ゆっくりと呼吸を整える。胸の奥の昂ぶりが、すっと平熱へ引いていく。
(交渉のカードは、とうに揃っている)
矢川は自らドアを開け、踏み込んできた三人の執行官の前に立ちはだかった。
「なんだ、お前は。どけ!」
「保安委員の先輩方」
矢川はスマートフォンを取り出し、一つのフォルダを開いてみせた。
「情報ファンドは、委員会メンバーの弱みを、日常的に収集・保管しています。……先輩方、お三方ぶんも、当然ある。特に、そちらの方。昨日、一年B組の生徒からTOKを恐喝していましたね。裏付けも取ってあります」
「なっ……!?」
執行官たちの顔が、一斉に青ざめる。
「この部屋の電力異常を『配線の漏電』と報告して引き返すなら、このデータは俺のフォルダの中で、永遠に眠り続けます。……三秒、差し上げます。三、二」
「……チッ、覚えてろよ!」
執行官たちは捨て台詞を残し、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
静寂が戻った、第三PC室。
佐竹は、呆然と矢川の背中を見ていた。圧倒的な暴力を持つ保安委員会を、たった一枚の『情報』と、感情の一切ない交渉だけで、一蹴してしまったのだ。
「……ハッタリじゃない」
矢川が振り返る。
「奴らが退かなければ、本当に送信していた。指は、送信ボタンにかけていた」
佐竹は、しばらく黙り込んだ。そして、散らばった空き缶を、震える足で脇へ蹴りやった。
「……分かったよ」
彼は初めて、ハッカーらしい不敵な笑みを浮かべた。
「俺の腕と、あんたの組織。噛み合えば……あの二階堂冬美の喉元に、牙を突き立てられるかもしれねえ。乗った。特権アカウントへの擬態ルートと、ドローン密輸のバイパス、最高難易度のパズルだ。三日で仕上げてやる」
だが、キーボードへ向き直る前に、佐竹は片方の口角だけを吊り上げて付け加えた。
「言っとくがな、矢川。俺は、作るシステムには必ず自分用の勝手口を一つ、残す主義でね。あんたのセーフハウスにも、な」
脅しでも、忠告でもない。ただの、事実の通告だった。
矢川は、表情を変えなかった。
「知っている」
佐竹の指が、一瞬止まる。
「お前のようなクレバーな人間が、退路を用意しないはずがない。追い詰められて仕方なく従う人間より、よほど信用できる。……少なくとも、言い訳したり、人のせいにしたりはしないだろう」
その返答に、佐竹は毒気を抜かれたように、ふっと笑った。
この男は、こちらの底を、とっくに見透かした上で手を組もうというのだ。ならば、これは対等な関係だ。
こうして、システムを喰い破る天才は、合理の怪物と契約を交わした。




