第六話 夜と霧
昼休みの図書室は、静寂に沈んでいた。喧噪の廊下とは別世界のような、奥まった一角。矢川蓮は、そこで『孫子』を開いていた。
ふと視線を上げると、向かいの席に、いつの間にか七瀬柚葉が腰を下ろしていた。栗色の柔らかな髪、琥珀色の澄んだ瞳。手には、例によって数冊の本を抱えている。
「こんにちは、矢川くん」
「……何か用か」
「ううん。ただ、話したくなっただけ」
柚葉は、積んだ本の背をそっと指先で撫でた。
「矢川くんのこと、みんな『怖い』って言うけど……私は、違うと思う」
「何が違う」
「工藤くんみたいな、困っている人たちをほっとけないところとか。道場で鮫島くんたちを追い払ったときも、必要以上には傷つけずに、リストだけ奪って終わらせた」
柚葉は顔を上げ、まっすぐに矢川を見た。
「あなたは、誰かが致命傷を負うのを、いつも避けようとしてる。……人を『ただの駒』だと思っている人は、そんなに慎重に、人を扱わないよ」
矢川の、ページをめくる指が止まった。
(……行動の記録から、逆算したのか。いや、違う)
この少女は、推論していない。ただ、見えているものをそのまま口にしている。分析でも駆け引きでもない、その手触りのなさが、かえって不気味だった。
だが、矢川は捕食者だ。やられたなら、やり返す。
「面白い観察だ、七瀬」
矢川は薄く笑い、本を閉じた。
「だが、一つ教えてやろう。お前は他人の感情には驚くほど敏感だ。人の痛みを、正確に嗅ぎ当てる。……その能力が、なぜか自分自身にだけは、まるで働いていない。お前は、自分が何を感じているかには、恐ろしく無自覚だな」
今度は、柚葉の指がわずかに止まった。琥珀色の瞳が、一瞬だけ揺れる。
初めて、彼女の側に隙が生まれた。
「……そうかもしれないね」
だが、柚葉はそれを否定も回避もせず、ただ受け止めた。反撃を受け止められると、拳の行き場がなくなる。矢川の攻め手が、静かに宙に浮いた。
「矢川くんは、感情を『使う』のはとても上手。でも、自分の感情には向き合わない。私は、他人の感情ばかり見て、自分のを置き去りにする。……似た者同士なのかもね」
柚葉はふわりと笑い、抱えていた本の一冊を、机の上へ滑らせた。
フランクル『夜と霧』。
「これ、貸してあげる。読んだら、また話そう」
矢川はその背表紙をしばらく見つめ、何も言わずに手を伸ばした。
夜。寮の居室。
読書灯だけが仄暗い部屋を照らす中、矢川は借りた『夜と霧』を読み進めていた。
ベッドで寝転がっていた高嶺悠真が、その表紙に目を留めて、身を起こす。
「へえ。矢川がそんな本読むなんて、珍しいな」
「七瀬に押し付けられた。……極限状況で生き残ったのは、屈強な者ではなく、生きる『意味』を——外で待つ家族に会う、といった希望を持てた者だった、という主張だ」
「……ふうん」
高嶺の声から、いつもの飄々とした軽さが、すっと抜けた。その目が、本を通り越して、どこか遠くを見る。
「……うちの姉貴が、似たようなこと言ってたな」
「お前の姉が」
「ああ」
高嶺は天井を見上げたまま、珍しく静かに続けた。
「姉貴はよく言ってた。人を潰して勝つ奴より、人を生かして借りを作れる奴の方が強いって」
高嶺は小さく笑った。
「善人だったよ。頭のいい、質の悪い善人だ」
そこで一度、言葉を切る。過去形の響きが、部屋に薄く尾を引いた。高嶺は、それ以上は語らなかった。
「ま、俺にはそんな器用な真似はできねえけど。……でも、矢川。お前にもし、どうしても『生きねばならない理由』ってやつが出来たなら。案外、そっちの道もアリなんじゃねえの」
矢川は答えなかった。ただ、伏せた『夜と霧』の表紙に、視線を落としたままでいた。
高嶺の姉の生存戦略と、フランクルの言う「意味」の力。それらが、彼の築いてきた冷徹な論理の壁を、音もなく内側から侵していく感覚があった。
非合理な引っかかりだ。
そう切り捨てて、矢川は明かりを消した。
翌日の放課後。
薄いカーテン越しに、茜色の光が書架の間へ長い影を落としていた。矢川が本を返しに図書室へ入ると、昨日と同じ席に、七瀬柚葉が本を読んで座っていた。
矢川は向かいに腰を下ろし、『夜と霧』を机に置く。
「読んだ」
「どうだった?」
「率直に言えば、生存の合理性とは別の指標を示していた。……だが、この本には大きな盲点がある」
「盲点?」
「サバイバルバイアスだ」
柚葉の表情に、微かな変化が走る。だがそれは驚きではなく、『やっぱり』とでも言いたげな、穏やかな色だった。
「……生き延びた人だけの証言だから、『意味を持つことが大切だった』っていう結論になってる、ってこと?」
「その通りだ。死んだ者は、何も語れない。意味を持とうが持つまいが、死ぬときは死ぬ。生存者の声だけを集めて意味の効用を説くのは、統計的な錯誤にすぎない」
完璧な反論だった。ようやく、対話が矢川の土俵に乗った。
だが、柚葉は静かに目を閉じ、そして開いた。
「……確かに、そうかもしれない。でもね、矢川くん」
その声は、柔らかく、それでいて鋭かった。
「生き延びた人たちが『意味があったから耐えられた』と言うなら、それは少なくとも、その人たちにとっては本当だった、ってことだよね。だとしたら、意味には——『あったからこそ生きられた』という、生存戦略としての価値が、確かにあることになる。……あなたの言う、合理の言葉で言っても」
矢川は、しばらく柚葉を見つめた。
「……論理的には、一理あるな」
そして、短く息を吐いた。
「だが、俺にとって『意味』は最優先事項じゃない」
「うん。それでいいと思う」
柚葉は、本を抱え直した。
「でも、いつか——矢川くん自身が、『意味』を持たざるを得ないときが来たら。その時は、どうする?」
矢川の指が、一瞬だけ『夜と霧』の表紙を掴み、すぐに離れた。
「……その時は、その時だ」
いつもなら、論破して終わる話だ。相手が論理を欠いているなら、それを指摘して切り捨てればいい。
それなのに、矢川はこの問いに、明確な答えを返せずにいる自分に気づいていた。
『意味』とは、本当にただの幻想なのか。
これまでなら、考える価値もないと一秒で切り捨てられた問いだった。それが今は、切り捨てようとするたびに、静かに手元へ戻ってくる。
矢川は本の表紙を軽く指で叩き、立ち上がった。
「今日は、この辺にしておく」
「うん。またね、矢川くん」
図書室を出る矢川の背に、柚葉の声が追いかけてはこなかった。ただ、その視線だけが、しばらく彼を捉えていた。
残された席で、柚葉は返却された『夜と霧』を、そっと開く。
矢川蓮という人間が、いつか『意味』を持つとき。きっとそれは、彼が変わるときだ。
そんな予感を胸に、彼女は静かにページをめくった。




