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第四十話 薬の痕跡

「ここにおるよ」


 声は、戸口の外からだった。


 全員が振り返る。


 柔道場の軒下に女子生徒が一人立っていた。制服の肩が濡れている。手にはノートが一冊。


「……ついて来るなと言ったはずだ」


 榎本がうんざりした声を出す。


「言われたね」


 女子生徒は、悪びれもせずに柔道場へ入ってきた。


「でも、調べる人がおるんなら、直接話した方が早い」


 短い髪。表情の少ない顔。

 目だけが一度、道場の中をぐるりと観た。


「一年A組、児玉碧」


 それだけ言って、彼女は小野寺の前にしゃがみ込んだ。


「顔色、まだ悪いね。ご飯、ちゃんと食べた?」


「……あんまり」


「水は?」


「少し」


「手、出して」


 小野寺がおずおずと手を差し出す。碧は手首に二本の指を当て、腕時計の秒針を見ながら黙った。


 十五秒。


「脈は普通に戻っとる。三日前は、この人、こんなじゃなかった」


 碧は立ち上がり、道場の全員に向き直った。


「中庭で見つけたとき、この人はベンチに座って、目を開けて、前を見とった。名前を呼んだら、こっちを向いた。でも、返事が来るまでに五秒かかった」


「五秒」


 矢川が繰り返した。


「普通、人は呼ばれたら一秒もかからずに反応する。寝ぼけとっても、もうちょっと早い。それに、目の黒いところ、瞳孔が、ずっと開いたままじゃった。明るい場所に移動しても、ほとんど縮まんかった」


「一服盛られたということか?」


 高嶺が訊いた。


「断定はできん」


 碧は首を振った。


「でも、疲れとるだけなら、ああはならん。寝とるのとも違う。……意識はあるのに、頭の中の何かだけが、止められとるみたいじゃった」


「何かって、何だよ」


 工藤が身を乗り出す。


 碧は、少し考えてから言った。


「怖いとか、嫌だとか、変だとか。そういうのを感じる部分」


 道場に沈黙が流れた。


「だから、目の前に契約書を出されて『ここに名前書いて』って言われたら、たぶん書く。普段なら『なんで?』って思うところで、思わんけぇ」


 矢川は、表情を変えなかった。


 恐怖を消す。ためらいを無くす。疑問を下げる。


 自分が自分にやっていることだった。違うのは、それを決めたのが本人ではないという一点だけ。


「……あんた」


 碧が、矢川を見ていた。


「今の話聞いて、全然顔色変わらんね」


「変えた方がよかったか」


「変えようと思わんでも、普通は変わるよ。人が知らん間に薬で操られとったかもしれん、って話じゃけぇ。気持ち悪いとか、怖いとか」


 碧の目が、矢川の顔から、首筋へ、帯の上で組まれた手へと、ゆっくり移動した。


 観察されている。


 矢川は、それが心を読もうとするものとは別の種類の視線だと分かった。


 身体で、何が起きているかを見ている。


「……」


 矢川は視線を外し、榎本の方を向いた。


「引き受けます」


「おい矢川」


 佐竹が顔をしかめる。


「時間ねえし、手がかりもねえよ」


「手がかりはある」


 矢川は、碧を見ずに言った。


「本当に薬なら、どこかで口に入れている。小野寺は夕飯の後、部屋に戻ろうとしたところまでしか覚えていない。その間のどこかだ」


 小野寺が、はっと顔を上げた。


「……自販機」


「自販機?」


「食堂を出たところの。俺、夕飯のあと、いつもそこで缶コーヒー買うんです。毎日、同じやつ」


「毎日」


「はい。消灯後も少し勉強するために、入学してから、ずっと」


 矢川と碧が、同時に小野寺を見た。


「……毎日同じ時間に、同じ場所で、同じものを口に入れる人間」


 矢川が、低く言った。


「狙う側からすれば、これ以上簡単な相手はいない」


「ちょっと」


 碧が割って入った。


「もし本当に薬なら、急がんといけん。物によっては、何日かで体から抜けてしまう。三日前の話じゃけぇ、まだ間に合うかもしれんし、もう遅いかもしれん」


「調べる方法は」


「ちゃんとした分析機器があれば調べられる。保健室にはない。理科棟の分析室ならあるけど、一般生徒が勝手に使えるもんじゃない」


「誰の管理だ」


 碧は、少しだけ口ごもった。


「……それを、明日の朝までに調べる」


 期限の中に、もう一つ期限ができた。


 真相に辿り着く前に、証拠そのものが消えるかもしれない。


「よし」


 蔵前が、膝を叩いて立ち上がった。


「難しいことは分かんねえが、こういうのは分かる。人手がいるんだろ」


「吉海」


 矢川が言った。


「第三寮の自販機の補充を、誰が、何時にやっているか当たってくれ」


「りょーかい。玲奈ちゃん仕事早いんだから、任せてよ」


「佐竹。匿名口座の番号から、辿れるところまで頼む」


「タダ働きで残業かよ……」


 ぼやきながらも、佐竹の指はもう動いていた。


「高嶺」


 矢川は、高嶺を見た。


「小野寺と一緒にいてくれ。今夜から。……同じことが、もう一度起きないとは限らない」


 高嶺は、少しだけ間を置いてから頷いた。


「……ああ」


 碧が、ビニール袋からノートを取り出した。表紙には何も書かれていない。開くと、三日前の日付と、細かい字の観察記録がびっしりと並んでいた。


 時刻。脈拍。瞳孔の大きさ。呼びかけへの反応時間。


 彼女はペンを取り、新しい頁に今夜の日付を書き込んだ。


 それから、ちらりと矢川を見た。


「……俺のことは書くな」


 矢川が言った。


「まだ何も書いとらんよ」


「書こうとしただろう」


 碧は、ペン先を紙から浮かせたまま、矢川の顔をじっと見た。


「なんで分かったん」


「道場に入ってから、俺の手を何度も見た」


 碧は、しばらく黙っていた。


 やがて、ノートを閉じた。


「……ええよ。今は書かん」


 今は、という言葉を、矢川は聞き逃さなかった。


 そのときだった。


「あの」


 小野寺が、小さな声で言った。


「今、思い出したんですけど」


 全員が振り向く。


「声が、した気がするんです。自販機の、すぐ横で」


 小野寺は、自分の記憶を確かめるように、ゆっくりと言葉を継いだ。


「『大丈夫。怖くないよ』って」


 雨音だけが、道場を満たしていた。

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