第三十九話 記憶のない契約
七月の雨が、柔道場の屋根を低く叩いていた。
夕食までの時間を、柔道部の面々は畳の上で思い思いに過ごしてた。佐竹はタブレットで先週の収支を締め、玲奈は寝転がってスマホを眺め、工藤は蔵前に寝技の稽古をつけられて呻いている。
矢川蓮は、壁際に取り付けられた懸垂機で懸垂をしていた。
道場の戸が叩かれたのは、その時だった。
三回。
「……誰だよ、今いいとこなのに」
タブレットで映画を観ていた高嶺が腰を上げる。
「図書委員会だ」
矢川は懸垂をしながら言った。
「なんで分かる」
「戸を叩く間隔が図書委員会特有のものだからだ」
高嶺が呆れた顔で戸を引く。
雨の中に、二人の男子生徒が立っていた。
一人は、バインダーを胸に抱えた図書委員の榎本。
もう一人は、その背中に隠れるようにして立つ、青白い顔の男子生徒だった。
「……榎本先輩」
矢川が懸垂機から降りて、来客を認めた。
「委員長からの、依頼だ」
榎本の声に、苦いものが混じっていた。
「……入れ、小野寺」
促されて、男子生徒が土間に入ってくる。学ランの襟には校章と1年の学年章。濡れた前髪の下で、目が落ち着きなく動いていた。
「一年B組の、小野寺です。第三寮の」
矢川と高嶺と同じ寮だった。顔に見覚えはある。食堂でいつも一人で、早めに食べ終えて出ていく生徒だ。
「三日前の夜」
榎本がバインダーを開いた。
「小野寺は、中庭のベンチに座った状態で発見された。意識もある。だが、呼びかけてもほとんど反応しなかった。……ただ、ぼんやりと座っていたそうだ」
「次の日の朝には、元に戻ってました」
小野寺が、かすれた声で言った。
「でも、前の夜のことが、何も思い出せないんです。夕飯を食べて、部屋に戻ろうとしたところまでしか」
「そして、その思い出せない時間の間に」
榎本は、一台のタブレットをローテーブルの上に置いた。
画面に表示されているのは契約書だった。
「小野寺は、自分の全財産——三十二万TOKを、他人に譲り渡す契約にサインしている」
道場が静まった。
署名欄には、小野寺誠の名前。その横に、本人の拇印。
受取人の欄には、名前がなかった。匿名口座の番号だけが、表示されていた。
「そんなことするわけない」
小野寺の声が震えた。
「死に物狂いで貯めたんです。誰にもあげるわけない。でも、字も、指紋も、全部俺のなんです」
「署名も拇印も本物。校則上、この契約は有効だ」
榎本が淡々と続ける。
「取り消すには、サインした時の小野寺が『まともな判断ができる状態ではなかった』と証明するしかない。期限は契約から七日。……残りは、四日」
「証明できなかったら?」
玲奈が訊いた。
「財産はゼロ。寮費が払えなくなる」
榎本は、そこで少し間を置いた。
「……このままいけば、編入の対象になる」
その単語が場に出た瞬間、高嶺の肩がわずかに強張ったのを、矢川は視界の端で拾った。
「つまり」
佐竹が視線をあげる。
「こいつは、何かされてボーッとしてる間に、全財産をかっぱがれた。期限以内にそれを証明しないと、編入。……ということか」
「そういうことだ」
「で、誰がやったのかも、どうやったのかも分からない」
「分からない」
榎本は顔をしかめた。
「保健室での診断は『疲労による一時的な放心状態』。異常なし。それ以上は調べようがないと言われた」
「だったら、委員会の仕事でしょ?」
玲奈が手を挙げる。
「今は図書委員会が警察なんだから、そっちで捜査すればいいじゃん」
「委員長は、そうお考えにならない」
榎本は、暗記した文言を読み上げるように言った。
「『司法は、自ら裁く事件を自ら捜査してはならない。捜査する者が裁けば、裁きは捜査の結論を追認するだけになる』……だそうだ」
矢川の口元が、ほんのわずかに動いた。
「三権分立の、続きですね」
「君が持ち込んだ理屈だ」
榎本が睨む。
「だから、捜査は生活保安委員会と外部に委託する。……それで、ここに来た」
「報酬は」
佐竹が訊く。
「TOKは出ない。図書委員会には、外部へ報酬を払う予算がない」
「タダ働き!?」
玲奈が天を仰いだ。
「その代わり」
榎本は、バインダーの最後の頁を開いた。
「事件が解決した場合、大図書館地下書庫の閲覧権限を、期間限定で付与する」
地下書庫。
危険な知識や思想や、機密指定された記録が眠る場所。
開示請求をしても、『正当な理由と認められないので却下』の一行で門前払いされる文書が、すべてそこにある。
矢川の隣で、高嶺が息を吸う音がした。
矢川は、高嶺を見なかった。
見なくても、分かった。いつもの高嶺なら、ここで「割に合わねえ」と言う。その一言がない。
「……釣り針が、大きすぎるな」
「なんの話だ」
「いえ」
矢川は立ち上がり、畳の上の契約書を拾い上げた。
その下に、もう一枚、紙が重なっていた。保健室の診断書。
「疲労による一時的な放心状態」の一行の下に、付箋が一枚貼られている。
保健委員の書式ではない。几帳面な、細い字だった。
『瞳孔が開いたまま、光への反応が遅い。汗をかいていない。眠っているのとも違う。意識はあるのに、返事だけが遅れている。疲労ではこうはならない。何かの薬を疑うべき。第一発見者 一年A組 児玉碧』
付箋の上から、赤ペンで一本、線が引かれていた。
『診断と矛盾。不採用』
矢川は、その付箋をしばらく見ていた。
意識はあるのに、返事だけが遅れている。
「榎本先輩」
「なんだ」
「この第一発見者は、どこにいますか」
雨が、少し強くなった。




