↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/42

第三十九話 記憶のない契約

 七月の雨が、柔道場の屋根を低く叩いていた。


 夕食までの時間を、柔道部の面々は畳の上で思い思いに過ごしてた。佐竹はタブレットで先週の収支を締め、玲奈は寝転がってスマホを眺め、工藤は蔵前に寝技の稽古をつけられて呻いている。


 矢川蓮は、壁際に取り付けられた懸垂機で懸垂をしていた。


 道場の戸が叩かれたのは、その時だった。


 三回。


「……誰だよ、今いいとこなのに」


 タブレットで映画を観ていた高嶺が腰を上げる。


「図書委員会だ」


 矢川は懸垂をしながら言った。


「なんで分かる」


「戸を叩く間隔が図書委員会特有のものだからだ」


 高嶺が呆れた顔で戸を引く。


 雨の中に、二人の男子生徒が立っていた。


 一人は、バインダーを胸に抱えた図書委員の榎本。


 もう一人は、その背中に隠れるようにして立つ、青白い顔の男子生徒だった。


「……榎本先輩」


 矢川が懸垂機から降りて、来客を認めた。


「委員長からの、依頼だ」


 榎本の声に、苦いものが混じっていた。


「……入れ、小野寺」


 促されて、男子生徒が土間に入ってくる。学ランの襟には校章と1年の学年章。濡れた前髪の下で、目が落ち着きなく動いていた。


「一年B組の、小野寺です。第三寮の」


 矢川と高嶺と同じ寮だった。顔に見覚えはある。食堂でいつも一人で、早めに食べ終えて出ていく生徒だ。


「三日前の夜」


 榎本がバインダーを開いた。


「小野寺は、中庭のベンチに座った状態で発見された。意識もある。だが、呼びかけてもほとんど反応しなかった。……ただ、ぼんやりと座っていたそうだ」


「次の日の朝には、元に戻ってました」


 小野寺が、かすれた声で言った。


「でも、前の夜のことが、何も思い出せないんです。夕飯を食べて、部屋に戻ろうとしたところまでしか」


「そして、その思い出せない時間の間に」


 榎本は、一台のタブレットをローテーブルの上に置いた。


 画面に表示されているのは契約書だった。


「小野寺は、自分の全財産——三十二万TOKを、他人に譲り渡す契約にサインしている」


 道場が静まった。


 署名欄には、小野寺誠の名前。その横に、本人の拇印。


 受取人の欄には、名前がなかった。匿名口座の番号だけが、表示されていた。


「そんなことするわけない」


 小野寺の声が震えた。


「死に物狂いで貯めたんです。誰にもあげるわけない。でも、字も、指紋も、全部俺のなんです」


「署名も拇印も本物。校則上、この契約は有効だ」


 榎本が淡々と続ける。


「取り消すには、サインした時の小野寺が『まともな判断ができる状態ではなかった』と証明するしかない。期限は契約から七日。……残りは、四日」


「証明できなかったら?」


 玲奈が訊いた。


「財産はゼロ。寮費が払えなくなる」


 榎本は、そこで少し間を置いた。


「……このままいけば、編入の対象になる」


 その単語が場に出た瞬間、高嶺の肩がわずかに強張ったのを、矢川は視界の端で拾った。


「つまり」


 佐竹が視線をあげる。


「こいつは、何かされてボーッとしてる間に、全財産をかっぱがれた。期限以内にそれを証明しないと、編入。……ということか」


「そういうことだ」


「で、誰がやったのかも、どうやったのかも分からない」


「分からない」


 榎本は顔をしかめた。


「保健室での診断は『疲労による一時的な放心状態』。異常なし。それ以上は調べようがないと言われた」


「だったら、委員会の仕事でしょ?」


 玲奈が手を挙げる。


「今は図書委員会が警察なんだから、そっちで捜査すればいいじゃん」


「委員長は、そうお考えにならない」


 榎本は、暗記した文言を読み上げるように言った。


「『司法は、自ら裁く事件を自ら捜査してはならない。捜査する者が裁けば、裁きは捜査の結論を追認するだけになる』……だそうだ」


 矢川の口元が、ほんのわずかに動いた。


「三権分立の、続きですね」


「君が持ち込んだ理屈だ」


 榎本が睨む。


「だから、捜査は生活保安委員会と外部に委託する。……それで、ここに来た」


「報酬は」


 佐竹が訊く。


「TOKは出ない。図書委員会には、外部へ報酬を払う予算がない」


「タダ働き!?」


 玲奈が天を仰いだ。


「その代わり」


 榎本は、バインダーの最後の頁を開いた。


「事件が解決した場合、大図書館地下書庫の閲覧権限を、期間限定で付与する」


 地下書庫。


 危険な知識や思想や、機密指定された記録が眠る場所。

 開示請求をしても、『正当な理由と認められないので却下』の一行で門前払いされる文書が、すべてそこにある。


 矢川の隣で、高嶺が息を吸う音がした。


 矢川は、高嶺を見なかった。


 見なくても、分かった。いつもの高嶺なら、ここで「割に合わねえ」と言う。その一言がない。


「……釣り針が、大きすぎるな」


「なんの話だ」


「いえ」


 矢川は立ち上がり、畳の上の契約書を拾い上げた。


 その下に、もう一枚、紙が重なっていた。保健室の診断書。


「疲労による一時的な放心状態」の一行の下に、付箋が一枚貼られている。


 保健委員の書式ではない。几帳面な、細い字だった。


『瞳孔が開いたまま、光への反応が遅い。汗をかいていない。眠っているのとも違う。意識はあるのに、返事だけが遅れている。疲労ではこうはならない。何かの薬を疑うべき。第一発見者 一年A組 児玉碧』


 付箋の上から、赤ペンで一本、線が引かれていた。


『診断と矛盾。不採用』


 矢川は、その付箋をしばらく見ていた。


 意識はあるのに、返事だけが遅れている。


「榎本先輩」


「なんだ」


「この第一発見者は、どこにいますか」


 雨が、少し強くなった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。