第三十八話 星に願いを、七夕の夜
七月初旬。
入徳館の中庭には、普段見ない物があった。
笹だ。
寮生自治会がどこからか運び込んだらしい大きな笹が、石畳の中央に立てられている。色とりどりの短冊が風に揺れ、校舎のガラスに反射していた。
「はいはい、みんなちゃんと参加してくださーい!」
玲奈の声が響く。
手には短冊と油性ペン。そしてなぜかハッピを纏い、完全にイベント係の装いだ。
「強制か?」
矢川が淡々と聞く。
「任意参加だけど、書かないとノリ悪いって思われるやつ!」
「それは強制だな」
隣で高嶺悠真が笑う。
「諦めろ。寮生活は集団行動だ」
七瀬柚葉は少し離れた場所で短冊を選んでいた。
色を悩むように指先で触れ、結局、淡い青を取る。
「短冊って、何書けばいいんだろうね」
「願い事だろ」
高嶺が返す。
「そうだろうけど」
柚葉は小さく笑った。
中庭は思っていたより賑やかだった。
文化部の生徒が即席の屋台を出し、寮監も遠巻きに様子を見ている。
外界から少し切り離された祭り。
「はい、レンレンも書く!」
玲奈が無理やり短冊を差し出す。
「必要性を感じない」
「感じろ! 感じて、考えろ!」
ペンを握らされる。
矢川は数秒だけ短冊を見つめた。
願い事。
合理性に乏しい行為だ。
ペン先が、短く動いた。矢川はそれを誰にも見せないまま、笹の低い枝の、葉の陰になる位置に結んだ。
「書けたか?」
高嶺が覗き込む。
「……適当だ」
「やっぱり世界の平和を願ったのか?」
矢川は何も答えない。
一方で、柚葉はまだ書いていなかった。
短冊を持ったまま、笹の影を見ている。
「書かないのか?」
矢川が聞く。
「うーん……」
柚葉は少し考えた。
「願い事って、未来に期待してる感じがしてさ。私、どっちかっていうと『今』を大事にしたいタイプなんだよね」
「……本質的だな」
「褒めてる?」
「評価している」
短い会話。
風が吹く。
短冊が擦れ合い、紙の音が小さく鳴った。
「ねえねえ!」
玲奈が走って戻ってくる。
「タカミーの短冊やばい!」
「見るなって言っただろ!」
高嶺が慌てて取り返そうとする。
「『みんな怪我しませんように』って書いてるのに、下に小さく『特に工藤』って書いてあった!」
周囲が笑う。
「あいつは、危なっかしいからな」
矢川が呟く。
「お前も似たようなもんだろ」
高嶺が言う。矢川は答えない。
ただ、短冊が風に揺れるのを見ていた。
夕暮れ。
提灯が灯り始め、中庭の色が変わっていく。屋台の方から、かき氷機の回る音が聞こえた。
「そういえばさ」
玲奈が短冊を揺らしながら言った。
「七夕って、なんで笹なの? 普通に考えて謎じゃない?」
「急に日常の謎に迫るな」
高嶺が苦笑する。
「天まで育って、織姫と彦星に見てもらうためだろ」
「近いが、少し違う」
矢川が静かに口を挟んだ。
「笹を立てるのは日本で、江戸の頃に広まった風習だ。冬でも枯れず、まっすぐ伸びる竹や笹は、神が降りてくる依り代だと考えられていた。短冊に字を書くのも、寺子屋の子供が手習いの上達を願ったのが始まりだと言われている」
「え、字が上手くなりますようにってこと?」
玲奈が目を丸くする。
「元を辿ればな。七夕の起源は中国の『乞巧奠』だ。巧みさを乞う祭り。女性が裁縫や機織りの上達を星に祈った」
「へえ……」
柚葉が興味深そうに聞く。
「じゃあ願い事っていうより、スキルアップ祈願なんだ。恋愛の話は後から付いたの?」
「いや」
矢川は笹を見上げたまま答えた。
「織女は、天で一番の機織りの名手だった。だから女たちは、その腕にあやかろうとした。……恋の話と技の祈りは、同じ起源だ」
「なにそれ、急にロマンあるじゃん」
玲奈が抗議とも感心ともつかない声を上げる。
「でも、なんか分かるな」
柚葉が少しだけ笑った。
「『巧くなりたい』っていう願いの方が、現実的だよね」
「ああ。何でも神頼みするよりはずっとマシだ」
高嶺が腕を組む。
「じゃあ俺たちも、願い事じゃなくて目標を書くか」
「それ、ちょっといいかも」
玲奈が頷いた。
「ねえ、矢川くん」
柚葉がふと聞く。
「中国のやつってさ、どうやってお願いしてたの?」
「針や糸を供えたり、星を見ながら詩を詠んだりしたらしい」
「詩、か」
柚葉が小さく呟いた。
その視線が、一瞬だけ、笹の低い枝の葉陰に落ちる。
それから彼女はようやくペンを動かした。さらさらと文字を書き、少し高い位置に結ぶ。
「何書いたの?」
玲奈が覗こうとする。
「秘密」
柚葉は笑った。
「えー、ケチ! じゃあこっちは……」
玲奈が笹の周りを回り込み、しゃがみ込んで、低い枝の短冊を一枚つまみ上げた。
「……ねえレンレン」
玲奈が振り返る。
「願い事で漢文って何? 急に古代中国なんだけど」
白い短冊に、端正な字が並んでいた。
星在天,友在側,吾心足矣。
「覗くな」
「いいじゃん!」
高嶺が笑う。
「で、どういう意味だよ」
矢川は答えない。
少し間があって、柚葉が小さく言った。
「たぶん……『星があって、友だちがそばにいれば、それでいい』って感じかな」
「え、なにそれ。普通に良いこと書いてるじゃん」
「誤訳だ」
「はいはい、照れてる照れてる」
玲奈がにやっと笑う。
風が吹き、短冊が一斉に揺れた。紙の擦れる音が重なる。
「こういうの、嫌いじゃないでしょ?」
柚葉が小さく聞く。
「……悪くない」
「それ、矢川くんの中では褒め言葉だよね」
柚葉は笑った。
提灯の光が紙に反射し、短冊の文字が断片的に見える。
柚葉の短冊の文字は、角度の関係で読めない。
読もうとはしなかった。
その代わり、柚葉の横顔を、矢川は一瞬だけ見た。
視線はすぐに逸れる。
中庭の外れ、旧校舎の渡り廊下の影で、誰かがカメラを構えていた。
シャッター音は鳴らない。
七夕。
願いを飾る日。
そして観測者にとっては、情動変化が最も統計化しやすい日でもあった。




