第三十七話 悪魔の中脳
翌日の放課後。
入徳館高校の全生徒一〇八〇人のスマートフォン、および学園中のデジタルサイネージに、臨時の全校放送を告げるチャイムが鳴り響いた。
画面に映し出されたのは、いつものように指定の制服を隙なく着こなし、完璧な微笑みを浮かべた生徒会長・二階堂冬美の姿だった。
『全生徒の皆さん、ごきげんよう。生徒会長の二階堂冬美です。本日は、皆さんに大切なお知らせがあります。私、二階堂冬美は、本日をもって生徒会長の職を辞し、引退することをご報告いたします』
学校中に、どよめきが走った。絶対君主の、あまりにも突然すぎる引退宣言。
『理由は、私自身の進路と、次世代への権限委譲のためです。この入徳館は、常にアップデートされ続けなければなりません。……私の後任として、これまで副会長として私を支え続けてくれた、京極宗馬くんを次期生徒会長に指名いたします』
冬美は優雅に一礼し、画面は切り替わった。
次にモニターに映ったのは、新しい生徒会長の腕章を身につけた、京極宗馬だった。銀縁の眼鏡の奥の瞳は焦点が定まっておらず、その顔色は蝋人形のように蒼白だった。
『……前会長の意志を継ぎ。この美しき入徳館の秩序を、私が……全力で、お守りします』
絞り出すような、ひどく硬い挨拶。だが、一般生徒たちにその裏の事情など知る由もない。
個人債券の発行や留学騒動などでケチはついたものの、一般生徒から見れば、これは『優秀な会長の円満な勇退』と『順当な副会長の繰り上げ就任』という、極めて平和的で正当な権力の移行でしかなかった。
「……見事な大根役者ぶりだな、あの新会長サンは」
柔道場のソファで、高嶺悠真が呆れたようにポテトチップスをかじった。
「なあ、矢川。どうせなら『今日から俺たち情報ファンドがトップだ』って宣言しちまった方が手っ取り早くないか? なんでわざわざ、あんな青白いツラした副会長をトップに据えるんだよ」
部屋の隅のパイプ椅子から、矢川蓮が静かに口を開いた。
「……素人考えだな。権力の空白は、必ず市場にパニックを引き起こす」
矢川はホワイトボードに書かれた『生徒会本部』という文字を丸で囲んだ。
「俺たちが突然『生徒会を倒した』と宣言すれば、アンダー層は暴徒化し、上位層は資産を守るために学校の経済をストップさせる。それでは、俺たちのファンドの価値まで暴落してしまう」
「だから、ガワ(表面上の組織)は残すってわけか」
佐竹が、コーラを煽りながらニヤリと笑った。
「トップの首をすげ替えて学校を混乱させるより、トップの『首輪』を俺たちが握ったまま、今まで通りシステムを回させた方が、安全で確実に儲かる。エグいぜ、矢川」
「それに……急激な変化は、この学校の裏にいる『観測者達』の介入を招く危険性が高い。表面上『通常の権力移行』の形を保っていれば、奴らの目を欺くことができる」
矢川の脳裏に、昨夜の光景がフラッシュバックする。
暗く冷え切った生徒会室。絶対的だった玉座の傍らで、すべてを失い、床に這いつくばって嗚咽する京極。矢川は、その頭上から氷のように冷たい声を落とした。
『冬美会長の美しい箱庭を、表面上だけでも残したいなら——あなたが玉座に座り、俺たちの操り人形として、この平和を演じ続けなさい』
京極にとって、それは死以上の屈辱だったはずだ。だが、冬美の残したシステムを形だけでも守るため、彼は自ら進んで矢川の鎖に繋がれる道を選んだのだ。
「……だがよ、あの新会長サン、失恋して半分ぶっ壊れてるんじゃないか?」
高嶺の指摘に、矢川は表情一つ変えずに淡々と答えた。
「構わない。奴の精神が崩壊するまでの間に、裏の資金ルートと立法の権限を掌握する。奴はそれまでの『使い捨ての防波堤』だ」
冷酷に言い放つ矢川を見て、七瀬柚葉がふわりと微笑んだ。
「矢川くんって、本当に素直じゃないよね」
「……何が言いたい」
「みんながパニックにならないように、あえて一番静かで、誰も傷つかない方法を選んでくれたんでしょ?」
「……俺は、市場の混乱を避けて、柔道部の資産価値を守っただけだ。情など介在していない」
矢川は少しだけ視線を逸らし、手元のスマートウォッチに目を落とした。
画面には、情報ファンドの口座残高と、実質的な支配下に置いた『生徒会本部』のトラフィックが、完璧な秩序をもって流れている。
入徳館高校は、血を流すことなく、誰にも気づかれないまま、完全に『柔道部』の手に落ちた。
しかし、その静寂の中で、矢川の脳内のアラートは、微かに、だが確実に鳴り続けていた。
(……そろそろだな)
矢川は視線を窓の外、巨大な中央タワーの最上階へと向けた。
表面上の平和を取り戻した入徳館。だがそれは、新たな戦いが幕を開けたことだけに過ぎなかった。
202x年某月某日某所。とある会議室。観測者達の会合。
部屋の空調音だけが一定だった。
「この検体は興味深い」
モニターには、矢川蓮の中脳領域を中心とした統合マップが表示されている。
扁桃体、腹側被蓋野、黒質。
本来なら恐怖・快楽・報酬予測が衝突し、行動を鈍らせるはずの領域だ。
「矛盾がないな」
感情刺激と行動選択が、競合していない。
通常、人間の中脳は『引き金』だ。
恐怖で逃げ、快楽で近づき、怒りで攻撃する。理性はその後に追いつく。
だが、矢川蓮のデータでは順序が逆だった。
刺激は検出される。恐怖も、快も、嫌悪も発生している。ただし、それらは即座に評価対象へと格下げされている。
「情動が意思決定に割り込まない」
観測者の一人が淡々と述べる。
「いや、割り込ませていない」
恐怖は抑え込まれているのではない。快楽も拒否されていない。すべてが『情報』として一度解体され、再構成されている。
逃げたいから逃げるのではない。逃げた方が合理的だから逃げる。
それは倫理でも本能でもなかった。純粋な最適化処理だ。
「中脳が…判断装置になっている」
本来、中脳は衝動の中枢だ。理性の制御を嫌い、短絡的な選択を促す。
だがこの個体では違う。中脳そのものが、前頭前野と同じ言語で思考している。
「…悪魔の中脳か」
誰かが、ほとんど無意識に呟いた。
その言葉が指しているのは、残虐性ではない。邪悪さでも、狂気でもない。
恐怖も欲望も、道徳さえも『目的達成の材料』にできる構造。
人間を人間たらしめる衝動を、判断の外側に置ける中枢。
それは悪意を持つ必要がない。共感を欠く必要もない。
ただ、必要がなければ、それらを一切、参照しない。
モニターの波形は安定していた。過剰も、欠落もない。
観測者達は理解している。この脳が危険なのは、暴走しないからだ。制御された中脳。
誰かが静かにキーを叩き、『悪魔の中脳』の次なる実験への移行が承認された。




