第三十六話 夢のあと、ある姉妹の話
ただ一人、取り残された二階堂冬美は、冷たいコンクリートの上で膝を抱え、咽び泣いていた。
「うぅっ……ひぐっ……私の、私のバカンスがぁ……っ。イケメンのマッサージが……っ!」
メイクは涙で崩れ、高価なキャリーケースが虚しく風に吹かれている。
もはや、逃亡資金はおろか、多額の負債を抱え、完全に詰んだのだ。
「……あーあ。見事にすっからかんだね、冬美」
不意に、建物の暗がりから、呆れたような、しかしどこか面白がるような声が降ってきた。
シュッ、とマッチを擦る小さな音が鳴り、甘く退廃的な紫煙の匂いが夜風に混じる。
「……夏希、お姉ちゃん……っ」
冬美が涙目で振り返ると、そこには防火扉に背中を預け、細い煙管を燻らせる姉・二階堂夏希の姿があった。
地下の魔女は、矢川たちが立ち去るのをやり過ごし、妹の無惨な敗北の結末を見届けてから姿を現したのだ。
「笑いに来たの……? 『だから言ったじゃないか』って……私をバカにしに来たんでしょ……っ!」
冬美は子供のように顔をくしゃくしゃにして、わあわあと泣き喚いた。
「私、もうおしまいだぁ! 有り金巻き上げられた上に、借金まで背負って! 『観測者達』にバレたら絶対にタダじゃ済まないし! 明日からアンダーで便所掃除確定よぉっ!!」
泣きじゃくる冬美の横に、夏希はふらりと歩み寄り……冷たいコンクリートの床に、躊躇いもなくドカッと腰を下ろした。
そして、煙管を持たない方の手で、冬美の乱れたプラチナブロンドの髪を、ガシガシと乱暴に撫で回した。
「ちょっと! 髪型崩れるッ!」
「もう十分崩れてるよ」
夏希はクスッと笑い、妹の肩を抱き寄せるようにして、自分の肩に冬美の頭を乗せさせた。
「……泣きな。誰も見てないんだからさ」
その、ひどくぶっきらぼうで、けれど確かな温もりを持った姉の声に、冬美の瞳から堰を切ったように涙が溢れ出した。
「うわぁぁぁぁんっ! 怖かったよぉっ! 毎日毎日、監視されて、完璧なフリして! なんで私ばっかりこんな目に遭わなきゃいけないのよぉっ!」
冬美は夏希の制服にしがみつき、今まで溜め込んでいた重圧と恐怖、そしてバカンスに行けなかった未練をすべて吐き出すように号泣した。
夏希は何も言わず、ただ妹の背中を一定のリズムでポンポンと叩き続けていた。
「……落ち着いた?」
十数分後。泣き疲れてヒックヒックとしゃくりあげる冬美に、夏希がハンカチを顔に投げつけた。
「……最悪。アイメイク全部落ちた」
冬美がハンカチで顔をごしごしと拭うと、夏希は紫煙を空に向かって細く吐き出した。
「でもさ、冬美。よく考えてみなよ。……あんた、これで『表の首輪』は外れたんじゃないの?」
「……え?」
冬美が、鼻をすりながら姉を見上げる。
「あんたは今まで、あの『観測者達』の実験の責任者として、完璧なシステムを維持する見返りに権力とTOKをもらっていた。でも、そのシステムは矢川蓮にぶっ壊され、あんたはただの『莫大な借金を抱えた落伍者』になった」
夏希は、口角をニヤリと吊り上げた。
「観測者達から見れば、あんたはもうただの負け犬だ。……つまり、少なくとも、これまでみたいな『完璧な為政者』を演じる重荷からは解放されたってことさ」
「……でも、矢川への借金があるわ。このままじゃ結局、アイツの債務奴隷か、システムの外に弾き出されるだけじゃない……っ」
冬美はぷっくりと頬を膨らませて抗議したが、その声からは先ほどの絶望は消え、普通の女子高生の不満げな響きに戻っていた。
夏希は、愉快そうに煙を吐き出す。
「そう。システムから弾き出される。……あんた、そこが『誰の縄張り』だか忘れたのかい?」
「あ……」
冬美は、ハッと目を見開いた。
そうだ。表の生徒会長としてのしがらみは消えた。残るは矢川への莫大な借金と、システムの外側への転落。
だが、そのルールの外側を完全支配しているのは、他でもない目の前にいる『裏の魔女』なのだ。
「皮肉なもんだね。あの合理主義者のバケモノ(矢川)は、あんたの表の権力をぶっ壊したせいで、私達姉妹を合流させちまった」
夏希は立ち上がり、パンパンとスカートの埃を払った。
「王冠を失って、ただの『二階堂冬美』に戻った気分はどうだい?」
冬美は、風に吹かれる夜の学園を見下ろした。
それまでの学校のすべてを支配し、完璧でいなければならないという息苦しい箱庭だった。だが今は、ただの無駄に広い夜の学校にしか見えない。
「……最悪よ。あんなたくさんの借金なんて、どうやって返せばいいのよ」
冬美は不貞腐れたように言ったが、憑き物が落ちたような顔には、微かな生気が戻っていた。
「ふふっ、仕方ないねえ。妹のために、お姉ちゃんが一肌脱いであげるよ」
夏希は、泣きはらした冬美に手を差し出した。
「うちの地下カジノで、ディーラーのバイトでもするかい? 元・生徒会長様がバニーガール姿でカードを配れば、客が喜んで全財産スッてくれるだろうさ。うちはTOK扱ってないけど、『情報』とか『権利』を表で換金することはできるから……借金くらい、二人で組めばあっという間に返せるよ」
「三店方式かよ! 誰がバニーガールなんか着るもんですか!!」
冬美は顔を真っ赤にして怒鳴りながらも、差し出された夏希のその手を、力強く握り返した。
「……でも、まあ。時給と、あの矢川への『復讐の協力』次第では、考えてあげなくもないわ」
「あっははは! さすが、私の妹だね!」
二人の笑い声が、夜の校舎に響き渡る。
入徳館の頂点に君臨した『表の絶対君主』と『裏の魔女』。二人の姉妹は、富(TOK)と権力をすべて失ったこの夜、初めて本当の意味で心を通わせたのだった。
「さて、帰ろうか冬美。あんたのその高そうなキャリーケース、私が持ってあげるからさ」
「うん、ありがと。お姉ちゃん」
並んで歩き出す二つの背中。
生徒会長・二階堂冬美の支配は、実質的に終焉を迎えた。




