第三十五話 最後の希望
翌日、午後七時五十五分。
二階堂冬美は、最低限の荷物だけを詰めたレザートランクを片手に、静まり返った中央タワーのエントランスホールを歩いていた。
大理石の床を転がるキャスターの規則正しい音が、高い天井に心地よく響く。
手元のマスター端末には、緑色の柔らかな光とともに【外部移動権限:有効】の文字が輝いていた。
入徳館正門・外部接続ゲート。
分厚い隔壁と無数のセンサーで構築されたその巨大な扉は、この狂った箱庭から外の世界へ繋がる光だ。
(……これで、本当にすべて終わり)
冬美は、薄暗く分厚いガラスに映る自身の姿を一瞥した。
乱れ一つない完璧な制服姿。そして、勝利を確信した傲慢で美しい笑み。
(……長かった戦いもこれで終わり。観測者たちの監視も、鬱陶しい権力闘争もすべておさらばよ。待ってなさい南の島、高級スパ、極上のマッサージ!)
冬美が完全なる勝利とバカンスを確信し、甘い笑みを深めた。
時刻の切り替わりと同時に、冬美はゲートの認証パネルに自身の端末をかざした。
ピピッ、と。
小気味良い電子音が鳴り、重厚なロックが解除される――はずだった。
ブブーッ!!
耳をつんざくような警告音とともに、パネルの光が緑から毒々しい『赤』へと反転した。
「……は?」
冬美の完璧な笑みが、ピタリと凍りつく。
画面に表示されたのは【アクセス拒否(権限凍結)】の無機質な文字列。
「どういうことよ。システムのエラー……?」
苛立ちとともに再度端末をかざそうとした、その時だった。
「お見送りに来たというのに、どうやら留学は中止のようですね」
静かな足音が、薄暗いエントランスホールに響き渡った。
冬美が勢いよく振り返ると、そこには工藤や高嶺といった柔道部実働部隊を率いた矢川が立っていた。
その手には、図書委員会のエンブレムが明滅する通信端末が握られている。
「矢川……ッ! 何の真似よ。私の手続きは、全会一致で完璧に――」
『ええ。手続きそのものは、確かに全会一致でした』
矢川の端末から響いたのは、図書委員長・御子柴の抑揚のない声だった。
『しかし、その承認プロセスにおいて、看過できない重大な違反が発覚しました。よって図書委員会の権限に基づき、二階堂冬美の資産および外部移動権限を一時凍結します』
「権限の凍結……? 冗談じゃないわ! 私が何のルールを破ったって言うの!」
『生徒会会計・九条による特待生予算の横領。および書記・西園寺による懲罰記録の改竄』
その言葉に、冬美の心臓がドクンと冷たく跳ねた。
『あなたは生徒会長でありながら彼らの不正を黙認し、あろうことか、それを弱みとして自身の留学承認を強要した疑いがあります。加えて、副会長・京極宗馬が抱えた莫大な負債と、それに伴う生活保安委員会の機能不全』
「……っ!」
『これら生徒会本部役員による数々の背任行為と組織的腐敗について、図書委員会は特別監査を開始しました。監査と処分が完了するまで、組織のトップであるあなたの特区外への移動を禁じます』
通信が、一方的に切断された。
静寂が戻ったホールで、冬美はギリッと奥歯を噛み鳴らした。
――やられた。
前回の採決で、自分が九条と西園寺を脅すために使った「弱み」。それすらも、図書委員会には筒抜けだったのだ。
いや、違う。京極を罠に嵌めて借金漬けにしたのは矢川だ。
彼らはどこかの段階で結託したのだ。
冬美が彼らの不正を「自分の逃亡のための踏み台」にすることすら計算に入れた上で、この出口の直前で、逃げ道をシステムごと塞ぐための罠を張っていたのだ。
「……最初から、これが狙いだったというわけね」
冬美は憎悪の籠もった視線で、矢川を睨みつけた。
矢川は、まるで忠実な臣下を気取るように恭しく一礼し、そして、冬美の顔を覗き込み、不敵な笑みを浮かべて囁いた。
「部下の横領に、記録の改竄。おまけに副会長は多額の借金で首が回らない。いやはや、あなたの組織は火の車ですね」
「黙りなさい、矢川……!」
「逃げられるわけがないでしょう? あなたの部下が、これだけの不始末をしでかしたんですから」
矢川は、赤く明滅するゲートの光に照らされながら邪悪に嗤った。
冬美の手から、レザートランクが力なく滑り落ちる。
硬い床に叩きつけられた重い音が、彼女の完全なる敗北を告げる号砲のようにホールへ響き渡った。
「追い討ちをかけるようで気が引けますが、あなたが投資研究部に引き受けさせた『七百万TOK分の個人債券』についてご報告があります」
「……!」
「あなたに特別監査が入ったという事実。この素晴らしい『悪材料』を投資研究部が知った瞬間、彼らは市場であなたの債券を投げ売りしました。ええ、もう紙くず同然の大暴落ですよ」
「その底値になった大量のフユミトークン。我々がすべて『格安』で買い取ってあげました。……つまり今のあなたは、我々に対して多額もの負債を抱えた『債務者』だ」
「なっ……」
「生徒会長の権限も、外部へ逃げる権利も、そして反撃する資金すら一TOKもない。……逃げられるわけがないでしょう? あなたの部下が、これだけの不始末をしでかしたんですから」
「責任を取るのがトップの仕事でしょう? さあ、存分に仕事をしていただきましょうか、会長」
冬美の手から、端末が力なく滑り落ちる。
冷たいコンクリートに叩きつけられた硬い音が、彼女の完全なる敗北を告げていた。
矢川蓮率いる『情報ファンド』の面々は、完全に戦意を喪失し、莫大な借金を背負って「無力化」された生徒会長を一瞥すると、もはや用はないとばかりに背を向けた。
「……行くぞ。仕事(事後処理)が山積みだ」
矢川の平坦な声とともに、柔道部の実働部隊が屋上から立ち去っていく。誰も、敗者に同情の言葉をかけることはなかった。勝負は完全に決したのだ。




