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第三十四話 臨時の役員会議

 ガラスに囲まれた生徒会特別執務室には、空調の微かな羽音だけがひんやりと満ちていた。


 二階堂冬美のデスクに置かれたマスター端末。その無機質な光を放つ画面には、特区のシステム上で最も厳格にロックされた【校則第百五条・特別留学申請プロセス】の進行状況が表示されている。


 条件1:個人口座における一千万TOKの保有。『クリア』  

 条件2:生徒会本部役員の全会一致による電子署名(承認)。『現在1/4』

 冬美自身の署名は、とうに終わっている。  


 システムを欺くのではない。用意された正式な制度を、正式な手続きで利用してこの特区を抜け出す。そのためには残る三名の役員――副会長、書記、会計の「同意」という名の鍵が必要だった。


「……時間がないわ。手っ取り早く終わらせるわよ」


 冬美の静かな声が、執務室の巨大な円卓に落ちた。  


 彼女の冷徹な視線はまず、円卓の向かいで顔面を蒼白にしている二人の役員を射抜く。


「生徒会会計、九条くん。そして書記の西園寺さん」


「か、会長……。いくらなんでも、この時期に突然の海外留学だなんて」


「それに、一千万TOKなんて大金、昨日まで持っていなかったはずです。一体どこから……」


「あなた達には関係ないわ」


 氷のような一瞥に、二人の言葉が凍りつく。


「まあ、教えてもいいか。私個人の債券を七百万TOK分発行して、投資研究部に引き受けさせた」 「なっ……」


「だから条件は満たしてる。文句ある?」


「い、いえ……」


「なら、残る問題はあなたたちの承認だけよ」


 九条と西園寺が、すがるように顔を見合わせた。


「……もし、拒否したら?」  震える声で、九条が恐る恐る問う。


「別に?」  


 冬美の唇が、薄く弧を描いた。


「校則には全会一致としか書いてないもの。反対する権利はあるわ」


「……」


「ただし」


 冬美は、二人の前にそれぞれ一枚の電子証書を滑らせた。硬質なテーブルを擦る微かな摩擦音が、静まり返った室内にひどく不吉に響く。


 九条の視線が画面に落ちた瞬間、その肩がビクンと跳ねた。


 そこにあったのは、特待生向け特別予算の複数の中継口座と、毎月数万TOKずつ消えている資金の履歴。  


 隣では、西園寺の呼吸が止まっていた。


 上位層生徒の懲罰記録の不自然な修正と、その直前に記録された複数回のTOK送金履歴。  


 証書の青白い光が、完全に血の気を失った二人の顔を冷酷に照らし出している。


「九条くん。特待生向けの特別予算から、随分器用に利鞘を抜いてるわね」


「か、会長……っ」


「西園寺さんも。懲罰記録をいくつか書き換えてる」


 冬美の声には、怒りも呆れもなかった。ただ事実を読み上げるだけの平坦な響きが、かえって彼らの退路を完璧に塞いでいた。


「安心して」  


 絶望に染まる二人を見て、冬美は優雅に微笑む。


「この件と留学申請は、全くの別件よ」


「……っ」


「私はただ、生徒会内部に溜まってる案件を整理しようと思ってるだけ」


 ごくりと、九条が乾いた喉を鳴らした。 「しょ、処分は……?」


「どうしようかしら」  


 冬美はゆっくりと頬杖をつく。獲物を甚ぶり楽しむような、絶対者の余裕だった。


「私としては、二人とも今までよく働いてくれたし。融通をきかせてあげてもいいと思ってるけど」


 西園寺が、縋るような目で冬美を見る。


「……それは、この採決と関係がありますか?」  


 冬美は一瞬だけ目を丸くし、そして、ふふっと笑った。


「まさか。投票は自由よ? 好きにしなさい」


 息苦しいほどの沈黙が流れる。

 やがて、ガタガタと痙攣するように震える手で、九条が端末へ触れた。  


 電子署名の承認。【本部役員承認 2/4】  弾かれたように、西園寺も電子署名を叩き込む。 【本部役員承認 3/4】


「ありがとう」  


冬美は満足そうに目を細めた。


「賢明な判断ね」  


 二人はうつむいたまま、何も答えられない。典型的な、そして最も確実な「弱みと恩赦」による政治工作。冬美は一度も、承認を条件に不正を見逃すとは言っていない。


 すべては彼らの「自由意志」だ。少なくとも、記録上は。


「さて」  


冬美は、残る一人へと視線を移した。


「残るはあなたね。……京極」


 冬美は、円卓の末席でうつむいている京極に、極めて冷ややかな、しかしひどく甘い視線を向けた。


 副会長、京極宗馬。矢川の策略によって多額の負債を抱え、自身の組織たる生活保安委員会を失った「敗者」。今はただ虚ろな目で、包帯を巻かれた腕を抱えるようにして座っている。


「冬美、様。俺は、俺はあなたを守りたかったのに……ッ」


「ええ、知っているわ。あなたは誰よりも忠実に、私のために戦ってくれた」


 冬美は歩み寄り、慈愛に満ちた(ように見える)笑みを浮かべて、京極の頬にそっと手を添えた。


「でも、あなたの戦いはもう終わりよ。……私のために、最後に一つだけ役目を果たしてちょうだい。この留学申請に、副会長としての承認印を押すの」


「……っ! そ、れは……冬美様が、俺を置いて、外の世界に行ってしまうということですか……!?」


 京極は弾かれたように顔を上げ、包帯を巻かれた腕で冬美にすがりついた。血走った目が、すがるように冬美を見上げる。


「冬美様……俺は、あなたの剣であり盾だったはずです。あなたに害をなすゴミ共をすべて排除して、あなたが卒業するまで、この学校の頂点に立ち続けるための、ただ一つの礎になりたかった……ッ! それなのに、俺を置いていくと言うのですか!?」


「ええ。あなたのその忠誠には感謝しているわ、京極」


「ああっ……冬美、様……」


「でもね。あなたが感情に任せて『図書委員会(御子柴)』というシステムに警察権力を奪われたせいで、私の政権は崩れてしまったの。……分かる? 私がここに残れば、あの矢川の策略によって、私の完璧な人生が汚されてしまうわ」


「俺の……俺の失態が、あなたを……」


 京極は咽び泣き、大粒の涙をこぼしながら、自身の頬に添えられた冬美の手を両手で包み込むように握りしめた。


「俺は、あなたのためなら地獄にだって落ちる覚悟だった! なのに、あなたがいない学校で……俺は、これからどうやって息をしていけばいいんですか……ッ!」


「だからこそよ。私のために、最後に一つだけ役目を果たしてちょうだい」


 冬美は、極めて冷ややかな、しかし麻薬のように甘い声で囁いた。


「私を外の世界へ送り出すための、最後の鍵になりなさい。そうすれば、あなたのその想いも、私の完璧な人生の一部として永遠に残るわ」


 それは、用済みとなった忠犬に対するあまりにも残酷な「切り捨て」だった。


 だが、京極の狂信的な愛と自己犠牲の精神は、冬美の『人生の一部になれる』という言葉に致命的なまでに弱かった。自分を置いていくことすらも、彼女を完璧にするための崇高な儀式なのだと思い込まされたのだ。


「……俺の、この惨めな敗北すらも、あなたの踏み台になれるというなら……」


 京極は、絶望と恍惚の入り混じった異様な表情で、震える指を端末へと伸ばした。


「……分かりました。俺自身の手で、あなたをこの泥船から逃がしてみせる。俺の忠誠(あい)は、誰にも……矢川のゴミクズにも、絶対に奪わせない……ッ!!」


 京極は慟哭しながら、自身の副会長としての承認ボタンを力強く押し込んだ。


 ピロン、と。

 学校全体を管理するメインサーバーから、美しく、そして無機質なファンファーレが執務室に鳴り響く。


【校則第百五条・特別留学申請プロセス:すべての条件をクリアしました】


【これにより、二階堂冬美の入徳館からの合法的な『留学』を認可します】


「……これで文句はないわね、御子柴委員長」


 冬美は京極の両手からするりと無慈悲に手を引き抜き、天井の隅、図書委員会がすべてを監視しているであろうセキュリティカメラに向かって言い放った。


「私は生徒会本部役員の【全会一致の承認】を得て、完全に合法的な手続きでここを去るわ」


 彼女は、完全なる勝利を確信した傲慢な笑みを浮かべて立ち上がった。


【出発予定:翌日 20:00】  

【当該時刻より申請者に外部移動権限を付与します】



「これで終わりね」   

 

 冬美は勝利を確信した傲慢な笑みを浮かべ、バッと立ち上がった。


「冬美様」  


背後から、京極が呼んだ。


「何?」


「お気をつけて」


「……」  

冬美は振り返らなかった。


「言われなくても」

 

 重厚な扉が閉まり、コツコツという冷たい靴音が遠ざかっていく。


 執務室に一人残された京極は、しばらくの間、主を失った会長席を静かに見つめていた。


 その瞳に、先ほどまでの血走った絶望はない。


 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま、京極の口元には、ひどく歪んだ、どこか恍惚とした笑みが浮かんでいた。


 自分はついに、彼女を外へ逃がす「最後の鍵」になった。惨めな敗北者としてではなく、二階堂冬美の完璧な人生の一部として、永遠に刻み込まれたのだ。その事実が、狂信的な彼の心を満たしていた。


「……行ってらっしゃい」


 誰もいない空間へ向けられた甘い呟きは、まるで呪いのように重く響いた。


 翌日。二階堂冬美は、入徳館から消える。

 少なくともこの時点では、そうなるはずだった。

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