第三十三話 個人の債務
翌日、放課後。
入徳館高校・第二独立棟三階。投資研究部。
扉を開けた瞬間、二階堂冬美は足を止めた。
壁一面を埋め尽くす巨大モニター。
赤と緑の数字が、秒単位で明滅している。
校内部活動株。委員会債。TOK建て貸付。先物。信用取引。
何に使うのか分からない複雑怪奇な金融商品まで、リアルタイムで値段が動いていた。
教室というより、証券会社だった。
「相変わらず学校とは思えないわね」
冬美が呟く。
その後ろから夏希が顔を出した。
「うわぁ。空気悪そう」
「第一声がそれ?」
「だって全員、金のことしか考えてなさそうだし」
「夏希のところより健全よ」
「酷くない?」
「事実でしょ」
二人が入っても、ほとんどの部員は顔を上げなかった。
モニターに映る数字。
注文。
約定。
それだけを見ている。
ただ一人。
部屋の最奥に座る男子生徒だけが、冬美へ視線を向けた。
三年、投資研究部長・金究直哉。
細い銀縁眼鏡。
ワイシャツの袖を肘まで捲り、首元も緩めている。
冬美を見ても立ち上がらなかった。
「これはこれは」
薄く笑う。
「生徒会長自らお越しとは」
「金を借りに来たわ」
「帰ってください」
「まだ何も言ってないでしょうが!」
「二階堂会長が自分からここへ来る時点で、碌な話じゃありません」
夏希が吹き出した。
「話早いねぇ」
「夏希は黙ってて」
「はいはい」
冬美は金究の机まで進む。
両手をついた。
「七百万TOK」
近くにいた何人かの部員の指が止まった。
金究の表情は変わらない。
「……七百万」
「四十八時間以内」
「無理です」
「即答するな!」
「即答できる数字なので」
「私を誰だと思ってるの?」
「二階堂冬美」
「生徒会長よ」
「存じています」
「だったら七〇〇万くらい――」
「だから怖いんですよ」
冬美の眉間に皺が寄った。金究が端末を数回操作する。冬美の資産情報が表示された。
「二階堂冬美。推定純資産、三百二十六万TOK」
「現預金、百八十二万。保有証券――」
「読み上げなくていい!」
「では結論だけ」
金究が画面を閉じる。
「七百万TOKは融資できません」
「理由は?」
「返済原資が弱い」
「生徒会長報酬がある」
「卒業まで保証されていません」
「私が失脚するとでも?」
「する予定が?」
「しないわよ!」
「なら、そこは評価材料に入れます」
「最初から入れなさいよ」
金究は冬美を見た。
「それと」
「何」
「資金用途を」
「私用」
「七百万TOKを?」
「そう」
「具体的には?」
「言う必要ある?」
「貸す側には重要な評価対象になります」
「……」
「会長」
「何よ」
「最近、海外物件を調べてます?」
冬美の表情が固まった。
夏希が顔を見る。金究も見る。
「……調べてないわよ」
「そうですか」
「何よ、その顔」
「何も」
「絶対疑ってるでしょ」
「投資研究部は常に疑います」
「嫌な組織ね!」
夏希が口元を押さえている。
「冬美、顔に出過ぎじゃない?」
「ちょっと黙ってよ!」
「面白いなー」
「帰れ!」
冬美は大きく息を吐いた。もう一度、金究を見る。
「……じゃあ、いくらなら貸せる?」
「条件次第です」
「私の資産を担保にする」
「足りません」
「生徒会役員報酬」
「将来債権として評価します。それでも七百万には届かない」
「保証人」
「誰です?」
冬美が横を見る。
夏希も冬美を見る。
「私が保証人になれるわけないじゃない」
「まだ何も言ってない!」
「ルールの外で生きてるんだから」
「……」
冬美は黙った。机上の数字を見る。
三百万。
必要なのは一千万。あと七百万。
担保では足りない。保証人も使えない。借りられない。
だったら。
冬美の視線が、壁一面のモニターへ移る。校内部活動株。委員会債。
そこには、まだ存在していない未来の利益に、今の値段が付いていた。
「……金究」
「はい」
「質問を変えるわ」
「どうぞ」
「私の信用」
金究の視線が上がった。
「はい?」
「二階堂冬美という名前」
冬美は、自分を指差した。
「いくら?」
数秒。
沈黙。
金究の口元が、わずかに上がった。
「……面白いですね」
「何が」
「ようやく取引らしい話になった」
冬美の目が細くなる。
「値段をつけられる?」
「信用に?」
「ええ」
「当然です」
冬美も笑った。
「だったら売る」
夏希が首を傾げる。
「何を?」
「私」
「臓器売買?」
「違う!」
金究が小さく笑う。
「厳密には、未来の二階堂冬美ですね」
「小難しい言い方しないで!」
「つまり?」
夏希が聞く。
冬美は少し考えた。
「卒業した時に」
金究を見る。
「私が返すと約束する」
「元本と利息を」
「そう」
「その約束に、今の値段をつける。つまり個人債券の発行」
「そういうこと」
夏希が瞬きをした。
「……借金じゃん」
沈黙。
金究が頷く。
「非常に雑に言えば」
「雑すぎるわよ!」
「でも合ってるんでしょ?」
「本質的にはね!」
「呼び方格好よくした借金じゃん」
「本当に腹立つわね!」
金究が端末を開いた。
「一人から七百万TOKを借りるのと、七百万TOK分の債券を発行するのでは意味が違います」
「何が?」
夏希が聞く。
「例えば、一口一万TOKなら七百口」
「うん」
「投資研究部が一度すべて引き受ける」
「七百万を冬美に払う?」
「はい」
「代わりに?」
「冬美会長から、将来元本と利息を受け取る権利をこちらが持つ」
「で、それを他の生徒に売る?」
「そういうことです」
夏希が頷いた。
「ああ。冬美の借金をバラ売りするんだ」
「その説明やめなさい!」
「分かりやすいですよ」
「金究まで肯定するな!」
だが、冬美の表情は、すでに変わっていた。
さっきまでの苛立ちが薄れている。頭の中で計画が組み上がっていく。
「発行総額、七百万TOK」
「可能です」
「TOK建て」
「当然」
「卒業時償還」
「妥当でしょう」
「卒業時にはTOKを円で清算できる」
「購入者側から見れば好材料です」
「途中売買は?」
「市場を作ります」
「利率は?」
「そこは査定ですね」
冬美が腕を組む。
「低くしなさい」
「無理です」
「なんでよ」
「用途非開示」
「……」
「高額発行」
「……」
「政治的地位への信用依存」
「それは長所でしょ」
「失脚した瞬間、短所になります」
「失脚しないわよ!」
「市場は本人の自信に値段を付けません」
冬美が舌打ちした。
「嫌な言い方」
「金融なので」
金究が入力を始めた。
巨大モニターの一角に、新規証券の仮登録画面が開く。
【発行者:二階堂冬美】
【発行総額:7,000,000 TOK】
【償還期限:卒業時】
そして。
証券名称。
【二階堂冬美個人債】
「……固いなぁ」
夏希が言った。
冬美が振り返る。
「何が」
「名前」
「金融商品なんだから普通でしょ」
「じゃあさ」
夏希が笑った。
「フユミトークンにすれば?」
「絶対嫌」
即答だった。
「いいじゃん。分かりやすいし」
金究が画面を見つめる。
「……悪くないですね」
冬美がゆっくり首を動かした。
「今、何て?」
「商品名としては認知しやすい」
「乗るな」
「『二階堂冬美個人債』より覚えやすい」
「乗るなって言ってるでしょ!」
「では正式名称は『二階堂冬美個人債』」
金究が入力する。
「通称――フユミトークン」
「なんで残すのよ!!」
部屋のあちこちから、僅かに笑い声が漏れた。
冬美が睨む。
一斉に画面へ戻った。
「……この部、覚えてなさいよ」
「発行者による投資研究部への報復発言として記録しておきます?」
「やめなさい!」
夏希が腹を抱えている。
「もう決まりじゃん。フユミトークン」
「決まってない!」
「FT」
「略すな!」
「ティッカーコードに使えますね」
冬美が、般若のような形相で金究を睨みつけた。
金究はそれに促されるように、一度、咳払いした。
「では、本題に戻ります」
画面が切り替わる。
数十項目に及ぶ契約条項。
「投資研究部が七百万TOKを全額引き受ける場合、条件があります」
「何」
「重大事実開示条項」
冬美の表情が曇る。
「重大事実?」
「債券価格に大きな影響を及ぼす情報です」
「例えば?」
「破産」
「長期停学」
「重大な資産毀損」
「生徒会長の地位喪失」
「辞めただけで?」
「辞めただけなら即座に問題とはしません。ただし、信用力が大幅に変動した場合は別です」
冬美は画面を読む。
「その他、返済能力または信用力に重大な影響を及ぼす事情……」
「はい」
「随分広いわね」
「七百万TOKですから」
「違反したら?」
「期限の利益喪失」
冬美が眉を寄せた。
「日本語で」
「卒業まで待ちません」
金究は平然と言った。
「その場で全部返してもらいます」
「……」
夏希が冬美を見る。
冬美は契約書から目を離さない。
一行。また一行。指でスクロールしていく。
三分。五分。十分。
夏希が飽きて、近くの株価モニターを眺め始めても。
冬美は黙って読み続けた。
「第十七条」
「はい」
「期限前償還の条件が広すぎない?」
「発行者保護を入れています。投資研究部単独の判断では行使できません」
「第三者審査?」
「必要です」
「ならいいわ」
さらに読む。
「第十九条」
「はい」
「市場流通後、保有者を私が指定できない?」
「当然です」
「誰でも買えるってこと?」
「買えます」
「京極も?」
「買えます」
冬美の顔が引きつった。
夏希が噴き出した。
「あいつ、全部買うんじゃない?」
「……購入上限を付けなさい」
「理由は?」
「市場の健全性!」
「今考えました?」
「いいから!」
金究は少しだけ考えた。
「一個人への集中保有を避けること自体には合理性があります」
「でしょ?」
「ただし」
金究が冬美を見る。
「京極副会長対策が主目的ですよね」
「市場の健全性よ!」
「承知しました」
「絶対分かってないでしょ!」
金究は淡々と条項を追記した。
「一個人の取得上限を設定します」
「強めに」
「はい」
夏希が笑っている。
「冬美、愛が痛いねぇ」
そして、冬美は最後のページまで読み切った。
息を吐く。
「……いいわ」
電子署名欄に指を置く。
【二階堂冬美】
認証。本人確認。契約成立。
金究が画面を確認した。
「それでは」
「ええ」
「投資研究部が、二階堂冬美個人債七百万TOK分を全額引き受けます」
「フユミトークンね」
「夏希は黙って」
「通称としては」
「金究も黙って!」
冬美の怒鳴り声を無視し、金究は端末を操作した。
部内決裁。資産確認。二段階認証。承認。
最後に。
【7,000,000 TOK】
という数字が表示された。
「送ります」
クリック。数秒後に冬美の特注タブレットが震えた。
画面を開き、スクロールしていく。
【入金 7,000,000 TOK】
その下。
【口座残高 10,214,830 TOK】
冬美の指が止まった。
夏希が肩越しに覗き込む。
「……超えたね」
「ええ」
一千万TOK。
冬美は、しばらくその数字を見ていた。
昨日まで存在しなかった七百万TOK。
冬美が卒業時に返す。
金究が、その約束には価値があると判断した。
それだけだった。
「……馬鹿みたい」
冬美が呟く。
「何が?」
夏希が聞く。
「私が『返す』って言っただけで、七百万TOKよ」
金究が椅子へ座り直した。
「信用がありますから」
「信用ねぇ」
「ええ」
「そんなもの、目に見えないじゃない」
「TOKだって同じですよ」
冬美が金究を見る。
「皆が価値があると思えば、値段が付く」
「……」
「金融なんて、だいたいそんなものです」
冬美は少しだけ笑った。
「紙の月ね」
「その紙の月に、七百万TOKの値段が付いた」
「嫌な言い方」
「ありがとうございます」
「嫌な男」
「存じています」
冬美はタブレットを閉じた。
立ち上がる。
「帰るわよ、夏希」
「もう?」
「用は済んだ」
「次は?」
冬美は扉へ向かう。
白い制服の裾が揺れた。
「臨時役員会議」
「すぐやるの?」
「当然でしょ」
一千万TOK。第一条件は満たした。
あとは、生徒会役員全員の承認。
冬美が扉へ手をかける。
そこで。
「二階堂会長」
金究が呼んだ。冬美が振り返る。
「何?」
「おめでとうございます」
「……何が」
「フユミトークン、発行成立です」
「その名前で呼ぶな!!」
扉が勢いよく閉まった。
廊下全体に夏希の笑い声が響いた。
金究は一人、眼鏡を押し上げた。
モニターには。
【二階堂冬美個人債】
【発行総額:7,000,000 TOK】
そして。
その下に並ぶ。
【重大事実開示義務】
【期限の利益喪失条項】
金究は、その二行をしばらく見つめていた。
そして、何事もなかったように画面を閉じた。
一千万TOK。条件は満たした。
少なくとも二階堂冬美は、そう思っていた。




