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第四話 依存性の回復

 B組の情報ブローカーを市場から追放し、報復にきた用心棒たちをねじ伏せてから一週間後。

 柔道場兼多目的ラウンジは、奇妙な平穏に包まれていた。吉海玲奈がソファで高級菓子を広げ、高嶺悠真がスマホで裏掲示板の動向をチェックしている。

 矢川蓮の視線はPCのモニターから離れない。その目は、すでに数手先の「危機」を見据えていた。

「……情報ファンドの事業のほとんどは裏稼業だし、武力による防衛は、あくまで裏のルールだ。近いうちに必ず、ハイエナたちが、この部活動の不当性を嗅ぎつけてやってくる」

 矢川は、A5のノートに新たな数式を書き込みながら言った。

「えーっ、せっかくのくつろぎスペースなのに! 追い出されちゃうの?」

 玲奈がクッキーを齧る手を止めて不満げに言う。

「追い出されはしない。奴らを完封する『盾』を用意する。……つまり、ここが、学校の求める『成績向上や社会貢献』(TOK獲得)に直結するという、揺るぎない実績エビデンスだ」

 矢川はモニターを切り替えた。

「学校の底辺で負債を抱え、不良債務者と化した生徒を『投資対象』として見繕い、ここで再起動リブートさせる。……高嶺、候補者はいるか」

 高嶺がニヤリと笑い、タブレットをスワイプして一人の男子生徒の顔写真を映し出した。

「一年C組、工藤大介くどう だいすけ。元々はシニアリーグで名の知れたピッチャーだったが、入学直後に肩を壊して野球部を退部。その後は自暴自棄になって、ギャンブルでTOKを溶かし続けてる。今の残高はほぼゼロ、退学寸前だ」

「典型的な『報酬系の麻痺』だな」

 矢川は瞬時に分析した。

「大きな目標を失った脳は、コルチゾール(ストレスホルモン)に浸りきっている。手っ取り早くドーパミンを得るために、期待値の低いギャンブルに依存している状態だ。……ちょうどいい。彼を最初の『クライアント』にする」

 話を聞いていた七瀬柚葉が、少し不安そうに琥珀色の瞳を揺らした。

「矢川くん。その工藤くんを、どうやって治すの?」

「論理で脳を書き換える。ギャンブルの無意味さを確率論で証明し、代わりに単純な反射神経ゲームで安全な刺激を与え、段階的に学習意欲へ誘導する」

 矢川の答えは、完璧なまでに合理的だった。

「……それだけで、本当に彼の心は元に治るのかな」

 七瀬の呟きは、誰に届くわけでもなく道場の空気に溶けた。

 翌日。高嶺の巧みな誘導(という名の挑発)により、工藤大介が柔道場にやってきた。

 ボロボロに制服を着崩し、目の下には濃い隈ができている。鋭い目つきは、傷ついた野良犬のようだった。

「……何だよ。お前らみたいな余裕ぶった優等生が、俺に説教してTOKでも稼ぐつもりか?」

 工藤が敵意をむき出しにする。

「説教など非効率だ。そんなことしなくてもお前の脳のバグを修正してやる」

 矢川は淡々と、工藤がハマっているチンチロリンの『絶対敗北の確率モデル』をモニターに表示した。

「工藤。お前は勝つために賭けているのではない。負けて刺激を得るために賭けている。お前の意志が弱いからではなく、脳の回路が焼き切れているからだ」

「……うるせえ! 俺の何が分かるってんだよ!」

 工藤が激昂し、ローテーブルを蹴り飛ばそうとした。

 だが、その足を蔵前が無言でガシッと掴み、軽々と押し戻す。

「暴れるなら相手になるぞ。……だが、矢川の言う通り、お前は逃げ腰だ。それじゃどんな勝負にも勝てない」

 蔵前の重い言葉に、工藤は顔を歪め、力なく項垂れた。

「……どうせ俺は終わりだよ。俺から野球をとったら、ここじゃただのゴミだ」

 矢川は無表情のまま、次のステップ(代替プログラム)へ移行しようとした。

 しかし、その矢川の前に、七瀬柚葉がすっと進み出た。

「矢川くん、ちょっと待って」

 彼女は、持っていた一冊の古びた文庫本を工藤の前にそっと差し出した。

 坂口安吾の『堕落論』だった。

「……なんだこれ」

「工藤くん。矢川くんの言うことは正しいと思う。でもね、私は、君がギャンブルに逃げてるんじゃなくて……『自分を罰している』ように見えるの」

 矢川の眉が微かに動いた。

(自分を、罰している……?)

「君はずっと野球を頑張ってきた。でも、怪我でそれができなくなった。真面目な君は、野球ができない自分を許せなかったんじゃないかな。だから、わざと悪いことをして、自分をどん底まで痛めつけて、『俺はダメな奴だ』って安心しようとしてる」

 工藤の肩が、ビクッと震えた。

 七瀬の琥珀色の瞳が、工藤の隠していた一番柔らかい傷跡を、優しく、けれど正確に撫でていた。

「一度、どん底まで落ちていいんだよ。正しく落ちて、正しく絶望した人だけが、本当の自分の足で立てるって、この本に書いてあったの」

 七瀬は微笑んだ。

「矢川くんのやり方は、君の『頭』を治すため。私のこの本は、君の『心』を休ませるため。……お願い。もう自分を痛めつけるのはやめて」

 柔らかい沈黙。

 工藤の目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。彼は顔を覆い、子供のように声を上げて泣き始めた。

 矢川は、その光景を静かに見つめていた。

(……俺の考えでは、工藤の『罪悪感』までは数値化できなかった。七瀬の共感能力は、論理が届かないエラーコードを修正する『最強のパッチ』だ)

 一週間後。

 工藤はギャンブルから完全に足を洗い、放課後は柔道場で蔵前とともに汗を流すようになっていた。身体を動かすことで健全なドーパミンを取り戻し、ラウンジで七瀬の淹れた茶を飲みながら落ち着いて勉強に取り組んだ結果、彼の小テストの成績は劇的に向上。TOK残高は見事なV字回復を見せた。

「いやー、七瀬のカウンセリング、マジで凄いわ。工藤の奴、すっかり憑き物が落ちた顔してるぜ」

 高嶺が感心しきりに言う。

「ホントホント! ナナちゃん、『保健室の先生』みたい!」

 玲奈が七瀬に抱きつく。

「そんな、私なんてただ本を貸しただけで……。工藤くんが自分で立ち直ったんだよ」

 七瀬は照れくさそうに笑う。

 矢川はA5のノートに新たな項目を書き加え、さらにそのデータを学校の公式ログに『柔道部での活動成果』として紐づけて保存した。

 新規事業:メンタル・キャピタル・マネジメント主任コンサルタント、七瀬柚葉。実績データ、対象者のTOK獲得率、平均15%向上。

「七瀬。お前の『直感』は、この部に不可欠な要素として証明された。これからも、この場所の治安維持メンタルケアを頼む」

「もう、矢川くんはすぐそういう固い言い方するんだから」

 七瀬はふわりと笑い、仲間との談笑に戻った。

 矢川は静かにPCを閉じ、道場の引き戸に視線を向けた。

 これで準備は整った。学校の監視網から身を隠すだけでなく、逆に学校のルールを盾にして自らを守るための、最強の『装甲』が完成したのだ。

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