第三十話 非対称戦の攻略法
矢川蓮の姿が、暗い校舎の向こうへ消え去った後。
図書委員長・御子柴の背後に控えていた榎本が、戸惑いを隠せない声で口を開いた。
「……委員長。本当によろしかったのですか?」
御子柴は答えない。
「我々図書委員会は、権力闘争には一切関与しない『絶対中立』の機関だったはずです。警察権力など握ってしまえば、二階堂会長と真っ向から対立することに……」
「我々から何か仕掛けるわけではないよ」
御子柴は、タブレット上に表示された電子証書(委任状)を眺めながら、静かに息を吐いた。
「ただ、警察権力を執行する時に生活保安委員は我々にお伺いを立てるシステムになった。それだけのことだ」
「しかし……」
「それよりも」
御子柴は言葉を遮った。
「恐ろしい一年生だ。……君は、マハトマ・ガンジーを知っているかい?」
「はい。インド独立運動の指導者ですね。『非暴力不服従』を掲げ、イギリスの植民地支配に対して平和的な抵抗を行った人物です」
「そう。一般には『非暴力の聖人』として語られることが多い」
御子柴は、傍らに積み上げられた歴史書の一冊を指でなぞった。
「もちろん、ガンジー本人にとって非暴力は倫理であり、思想だった。そこを否定するつもりはない。だがね、思想が政治の場へ持ち込まれた瞬間、それは『戦術』としても機能する」
「戦術……ですか?」
「そうだ」
御子柴は一冊の本を引き抜いた。
「当時の大英帝国とインドでは、保有する武力に圧倒的な差があった。まともに武装蜂起すれば、鎮圧される。だから、暴力で暴力に対抗しない」
ぱらり、とページがめくられる。
「殴られても、殴り返さない。理不尽な目に遭っても、武器を取らない。それでも命令には従わず、何度でも抵抗する」
御子柴の指が止まった。
「すると、困るのは誰だと思う?」
「……イギリス側?」
「その通り」
御子柴は薄く笑った。
「武装した反乱者なら、撃てばいい。だが、武器を持たない民衆を殴り、拘束し、流血させ続ければどうなる?」
榎本は黙った。
「その光景は新聞に載る。写真に撮られる。第三者の目に晒される。そうなれば問われるのは、統治する側の『正当性』だ」
「相手の暴力を……可視化させる」
「そうだ」
御子柴は本を閉じた。
「暴力に対して暴力で対抗しない。それは必ずしも無力を意味しない。圧倒的な強者を相手にしたとき、極めて有効な非対称戦になり得る」
御子柴は、矢川が立っていた場所に視線を向けた。
「矢川蓮のやったことは、構造だけを見ればこれに近い」
「……あの一年生が?」
「彼は京極と戦っていない」
御子柴は淡々と言った。
「包囲してもいない。脅してもいない。部下の懐柔すらしていない。ただ、京極にサーバーを破壊させただけ」
「……!」
「京極は自分の意思で暴力を振るった。そして、その一部始終を『監査委員会』という第三者に記録させた」
榎本の顔から、徐々に血の気が引いていく。
「結果、どうなった?」
「生活保安委員会は……規約違反によって処分された」
「正確には、生活保安委員会が処分『された』んじゃない」
御子柴が訂正する。
「入徳館のシステムが処分『させられた』んだ」
「……同じでは?」
「まるで違うよ」
御子柴は即答した。
「矢川が京極を告発したのなら、これは権力闘争だ。矢川が生活保安委員会を潰したのなら、これは政争だ。だが実際には、矢川は何もしていない」
御子柴は、タブレット上の電子証書を指先で軽く叩いた。
「京極が暴走し、監査委員会がそれを記録し、入徳館のシステムが生活保安委員会を処分させられた」
「……矢川の役割は?」
「置いただけだよ」
「え?」
「京極が必ず踏む場所に、地雷を置いた」
大図書館が静まり返った。
空調設備の低い駆動音だけが、巨大な書架の間を這っている。
「そして、さらに恐ろしいのはここからだ」
御子柴は電子証書を持ち上げた。
「普通なら、敵対組織を潰して手に入れた力を、自分のものにする。少なくとも、自分の影響下には置こうとするだろう」
「はい」
「だが、矢川はそれをしなかった」
御子柴は、電子証書を見つめる。
「京極から奪った警察権力を、一切の未練もなく我々『図書委員会』へ投げ渡した」
「……自分が、新しい権力者になることを避けるために?」
「それもある」
御子柴は小さく笑った。
「だが、おそらくそれだけじゃない」
「と、言いますと?」
「彼は最初から知っていたんだよ」
御子柴は自分の胸元を指差した。
「警察権力を最も安全に制御できるのが我々だとね」
図書委員会は、入徳館における『絶対中立』。
法律と判例を保管し、その解釈を行うことはあっても、自ら権力闘争へ介入することはなかった。
だからこそ。
その図書委員会が警察権力の執行権を握れば、誰も迂闊には使えない。
「自分では持たない。敵にも持たせない。そして、最も使いたがらない組織に持たせる」
御子柴は呆れたように息を吐いた。
「……本当に、性格が悪い」
榎本は何も言えなかった。
しばらくの沈黙の後。タブレットの画面が消える。
真っ黒になった液晶に、御子柴自身の顔が映った。
「あの一年生は――」
一瞬。御子柴の脳裏に、先ほどまでここに立っていた少年の姿が浮かんだ。
無表情。無感動。
勝利を誇ることもなく、巨大な権力を手に入れても執着すら見せない。
「京極が『京極らしく行動すればするほど、負ける状況』を最初から作っていたんだ」
「……」
「テロリズム、と呼ぶのも違うな」
御子柴は呟いた。
「テロリストなら、自分で爆弾を仕掛ける。だが矢川は何も壊していない。サーバーを破壊したのは京極だ。規約違反を認定したのは監査委員会。そして生活保安委員会を処分したのは、この学校のルールそのものだ」
御子柴は、暗い書架の向こうを見つめた。
「自分では、手を下さない。相手の感情と行動原理を読み切り、相手自身の手で破滅させる」
そして、薄く笑った。
「――『柔よく剛を制し、弱能く強を制す』とは、よく言ったものだよ」
榎本は、矢川が消えていった暗闇を見つめた。
そこにはもう、誰もいない。
だが。
先ほどまでそこに立っていた一年生が、急に得体の知れない何かに思えてきた。
「……二階堂会長は、どうするのでしょうか」
「さてね」
御子柴は電子証書を閉じ、机の上へ置いた。
「少なくとも――」
大図書館の遥か向こう。
窓越しに、入徳館の中央タワー『五重の塔』が見える。
その最上階。
純白の玉座に君臨する『氷の女王』の城を見上げ、御子柴は目を細めた。
「二階堂冬美の作った『入徳館』は、今日までの形ではいられないだろうね」
その声には、権力を得た喜びなど欠片もなかった。
あるのはただ。
未知の生物を前にした学者のような、純粋な興味だけだった。
「……面白くなってきたじゃないか。矢川蓮」




