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第二十九話 権利の譲渡

 柔道場での破壊劇から数時間後。


 夜の大図書館は、いつものように古い紙の匂いと、床下を流れる冷却機構の低い振動音に包まれていた。


 外界の狂騒など、存在しなかったかのような静寂。


「……七十五分三十九秒の遅刻だよ、矢川くん」


 閲覧室の最奥。


 積み上げられた古書の山に囲まれた長机で、図書委員長・御子柴真は、本から目を離さずにぽつりと呟いた。


「君に譲渡した『第一世代サーバー群』の廃棄証明書。日付が変わる前に提出する約束だったはずだが」


「申し訳ありません。少々、『査定』に手間取りまして」


 暗がりから歩み出た矢川蓮は、制服についた埃を軽く払い、一台のタブレットを御子柴の机の上へ滑らせた。


「廃棄証明書の代わりに、こちらをお持ちしました」


 御子柴の色素の薄い瞳が、画面へ向けられる。


 そこに表示されていたのは、


【生活保安委員会・行政執行権限/債権者委任証書】


 先ほど情報ファンドが、京極の暴走によって発生した債権を根拠に差し押さえた、入徳館の警察権力。


 その権限移譲に関する正式な電子証書だった。


 御子柴の指が止まる。


 本の頁をめくっていた指が止まった。


「……何の冗談だい?」


 ようやく御子柴が顔を上げた。


「君たちがあれだけの危険を冒して手に入れた、校内最大級の実力装置だ。それを図書委員会へ無償で渡す?」


 一拍。


「企みがない、と言えば嘘になるね」


「企みというほどのものではありません」


 矢川は、大図書館の天井まで伸びる本棚を見上げた。


「ただのシステム修正です」


「修正?」


「ええ」


 矢川は視線を戻す。


「現在の入徳館では、生徒会本部が校則を制定し、その下にある生活保安委員会が、それを現場で執行する」


「そうだね」


「つまり二階堂冬美は、『立法』と『行政』の両方に極めて強い影響力を持っている」


 御子柴は黙っている。


「一方で、図書委員会は過去の判例と法体系を管理している。法解釈という意味では、実質的に『司法』に近い」


「実質的には、ね」


「ですが今までは、違法性を判断できても止められなかった」


 矢川は机の上のタブレットに表示された証書を指で軽く叩いた。


「警察権そのものをそちらに渡すつもりはありません」


 御子柴の眉が、ほんの僅かに動いた。


「……続けて」


「生活保安委員会は独立組織として残す」


「ただし」


 矢川は画面をスワイプした。


 新たな項目が表示される。


【強制執行条件:図書委員会による法的承認を要する】


「重大な拘束、財産差し押さえ、強制捜査。そうした行政権限の執行には、図書委員会の承認を必要とするようにする」


 御子柴の瞳が細くなる。


「……令状制か」


「そうです」


 矢川は頷いた。


「図書委員会の傘下に生活保安委員会を持たせるわけじゃない」


「生活保安委員会を動かすための『鍵』を、あなたに持たせる」


 大図書館に、静かな沈黙が流れる。


「なるほど」


 御子柴は椅子の背に身体を預けた。


「生徒会が法を作る」


「生活保安委員会が執行する」


「そして図書委員会が、その執行が法に適合しているかを判断する」


「ええ」


「三者が互いに完全独立というわけではないが、少なくとも今よりは権力が分散される」


「その方がマシです」


 矢川は即答した。


「人間の良心に期待するより、互いに首輪を付け合った方がいい」


 御子柴が微かに笑った。


「随分と人間を信用していないんだね」


「信用? していますよ、だから、仕組みで縛るんです」


 御子柴の笑みが消えた。


 矢川は続ける。


「二階堂冬美が善人か悪人かは関係ない」


「京極が忠臣か狂信者かも関係ない」


「あなたが公平な人間かどうかすら、関係ない」


 御子柴の指が、机の上で止まる。


「誰がその席に座っても、勝手なことができないようにする」


「それが制度です」


 しばしの沈黙。


 やがて御子柴は、タブレットへ視線を落とした。


「君は私に裁判官になれと言っている」


「すでになっていますよ」


「……そうかな」


「少なくとも、俺はそう思っている」


 矢川は淡々と言った。


「なら、責任も権限も持ってください」


 御子柴は小さく息を吐いた。


「随分と勝手な理屈だ」


「仕事っていうのは、だいたいそうでしょう」


「それを君が言うのか」


 初めて、御子柴が小さく笑った。


 だがすぐに、表情は元の冷たさへ戻る。


「もしこれを受け入れれば、我々は傍観者ではいられない」


「ええ」


「校則違反が確認され、正式な執行請求が来れば、アンダーの生徒だろうが、特待生だろうが、生徒会長だろうが」


 御子柴は、矢川を真っ直ぐに見据える。


「必要なら拘束する」


「そうあるべきです」


「君もだよ」


「もちろん」


 御子柴は数秒、矢川を見つめた。


 そして、何の感慨もないような手つきで、画面の【承認】に指を触れた。


【ACCEPTED】


 短い電子音が鳴る。


「……いいだろう」


 御子柴はタブレットを机の上へ戻した。


「この権限移譲、図書委員長として受諾する」


「今日この瞬間から、生活保安委員会の重大な強制執行には、我々の法的承認を必要とする」


「感謝します、御子柴委員長」


 矢川は軽く一礼し、踵を返した。


「ああ、それと矢川くん」


 背中に、御子柴の冷たい声が刺さる。


「一つだけ確認しておこう」


 矢川が足を止める。


「君は今日、自分を守るための盾を作ったんじゃない」


「自分を斬ることのできる剣を、一本増やしたんだ」


 矢川は振り返らない。


「分かっています」


「今後、君が学校のルールを一線でも踏み越えた瞬間」


 御子柴の声は静かだった。


「私が令状を出す」


「そして生活保安委員会が、君を拘束する」


「自分で編んだ縄に、自分が繋がれることになっても後悔しないことだ」


 数秒の沈黙が流れる。


「望むところです」


 矢川は片手を上げた。


「ルールを破るつもりはありません」


「使うだけです」


 そのまま出口へ向かう。


 御子柴は呼び止めなかった。


 ただ、机の上に表示された新しい権限規程を見つめていた。


 生徒会が自由に使えていた力に、初めて『鍵』が付いた。

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