第二十六話 みんなの会議
入徳館、旧校舎群に近い柔道場。
矢川蓮は、ホワイトボードに紙の写しを貼り付け、そのわきに『校則・第八十八条』とだけ書いた。
「先に言っておくと、俺が今日、大図書館で何を調べたかは、開示請求すれば誰でも読める。処理には一日かかる」
畳や床の上に散っていた部員たちが、顔を上げた。
「明日の今頃には、京極が俺たちを警戒していると考えていい。……つまり、作戦を決めるのは今、この場でだ」
「京極は、冷徹で計算高い男だ。しかし、吉海の情報網が弾き出したプロファイリングによれば、京極という男には、一つの致命的な弱点が存在する」
矢川の脳裏に、氷の女王・二階堂冬美への『狂信的な愛情』に囚われた、哀れな副会長の姿が浮かぶ。
「彼にとって、二階堂冬美の命令は絶対であり、彼女の美しい箱庭を汚す者は『一切の妥協なく排除すべきゴミ』だ。……その狂信という名の弱点は、必ず彼の経済的な合理性を麻痺させる」
矢川は静かに、だが確信に満ちた声で断言した。
「俺たちは、あの猟犬を煽るだけでいい」
そこから先の説明は、五分で終わった。
委員会が施設を壊せば、修繕費は運営予算から天引きされる。予算が尽きれば行政権限は凍結され、債権を肩代わりした組織に権限の執行を委託できる。四年前の判例は生きている。京極を暴れさせれば、入徳館の警察権力は借金のカタになる。
説明を聞き終えた佐竹は、呆れたようにタブレットを指で弾いた。
「……筋は通っている。だが矢川、お前、致命的なことを見落としてるぞ」
「なんだ」
「金だよ!」
佐竹は、生活保安委員会の推定予算グラフをモニターに大写しにした。
「入徳館の警察権力だぞ? 奴らが債務超過になったとして、その借金を肩代わりするには最低でも五百万TOKいる。……対して、俺たちが中間考査のボーナスで顧客から吸い上げた総資産は、せいぜい八十万TOKだ。一桁足りねえんだよ」
道場の空気が、一気に重くなった。
「ご、五百万TOK……!?」
高嶺が頭を抱えて呻く。
「無理だろそんな額! アンダーの連中に『委員会を買収するから金出してくれ』って頼んでも、あいつらもそこまでの貯金はねえよ!」
「……やっぱり、あれやるしかないんじゃない?」
吉海玲奈が、甘い香りを漂わせながら長い脚を組み替えた。
「私が集めた上位層の致命的なゴシップを、匿名オークションで売り捌くの。五百万稼ぐには時間がかかるけど、手っ取り早い資金源にはなるわ」
「却下だ」
矢川は即座に首を振った。
「恐喝とスキャンダルの売買は、ファンドの信用を損なう。タチの悪い金策に一度でも手を汚せば、二度と信用は戻らない」
「タチは十分悪いだろ」
ボソリと高嶺がつぶやいた。
「それなら、進藤の隠し口座をパクるのはどうだ?」
工藤大介が身を乗り出す。
「進藤の野郎、予算を横領してマネロンしてたんだろ? その口座のパスワードを佐竹がハッキングして、俺たちの口座に送金しちまえば――」
「それも無理だね」
佐竹が忌々しそうに舌打ちをする。
「京極の野郎が、もう進藤の執務室を制圧して、口座のアクセス権も生徒会本部のプロテクト下に置きやがった。今あの口座に手を出せば、俺たちの痕跡が完全に残って、即お縄だ」
柔道部の面々は沈黙した。
アンダーからの追加徴収は信用に関わる。裏稼業も、エリートの裏金強奪も塞がれている。圧倒的な資金不足という壁が、彼らの前に高くそびえ立っていた。
「……なあ、矢川」
主将の蔵前が、腕組みをしたままぽつりと口を開いた。
「俺たち、自分たちの金で払おうとするから足りないんじゃないか?」
「どういうことでしょう、主将」
「いや、俺は経済の難しいことは分かんねえけどよ……。シャバの会社がデカいビル建てたり、よその会社を買収したりする時って、自分の貯金だけじゃなくて、銀行から借りたり、投資家から出してもらったりするだろ」
蔵前の言葉に、高嶺がハッと顔を上げた。
「スポンサーを集めるってことか!? 確かに、入徳館で金を持ってる連中に『警察権力を手に入れた暁には便宜を図る』って約束手形を切って、投資させる手はあるぞ!」
「だが、誰が俺たちみたいな弱小ベンチャー部活に五百万も出す?」
佐竹が水を差した。
「今、金を持ってるのは……一部のメガ部活か、あるいは……」
「他の委員会?」
議論が佳境に入ってきた時。ふっと湧き出るような声が聞こえた。
「……買うから、お金がいるんだよね」
それまで畳の隅で黙って聞いていた七瀬柚葉が、ホワイトボードを見つめたまま、ぽつりと言う。
道場が静かになる。
「……なんだと?」
矢川が言った。
「え? ううん、変なこと言ってごめん。ただ、債権を『買う』って話をずっとしてるから……買わなくてよくなる方法はないのかなって」
矢川は、しばらく動かなかった。
やがてホワイトボードに歩み寄り、『損害賠償』の四文字を丸で囲んだ。
「……そうだな、買う必要はない」
「あ?」
「債権は、買うものじゃない。『発生する』ものだ」
矢川は振り返った。
「京極が施設を壊す。修繕費を請求する権利は、誰のものになるか」
「そりゃ、壊された物の持ち主だろ」佐竹が答える。「学校か、その設備を持ってる委員会か……」
言いかけて、佐竹の手がタブレットの上で止まった。
「……待て。持ち主が俺たちだったら」
「その通り」
矢川は静かに続けた。
「俺たちが所有する何かを、京極に壊させる。その瞬間、俺たちは債権者になる。買収の必要はない。一TOKも払わずに、生活保安委員会の債権の持ち主になれる」
「いや待て待て待て」
佐竹が両手を上げた。
「理屈は分かる。だが五百万TOK分の資産なんて、俺たちが持ってるわけねえだろ。結局、五百万で何かを買ってこなきゃならねえ。振り出しだ」
「実際に五百万の価値がある必要はない」
矢川の声が、一段低くなった。
「監査委員会が損害額を算定する基準は、実質的な価値ではない。……帳簿上の数字だ」
道場が、しんと静まり返った。
「……おい」
佐竹の顔が曇る。というより、笑いが込み上げてくるのを堪えているような顔だった。
「帳簿に載ってて、実物はゴミ。……そんな都合のいいもんが、この学校にあるってのか」
「ある」
矢川は即答した。
「入徳館は、五年前にインフラを一新している。だが、廃棄には正式な手続きと承認が要る。……手続きが面倒で放置された設備は、帳簿の上ではまだ現役だ」
「……ブツはタダで手に入る」
蔵前が、ぽかんと口を開けた。
「それを壊されるほど、俺たちが儲かるってことか」
「そういうことです」
工藤が思わず立ち上がり、玲奈が口笛を吹いた。
道場の熱が、一気に跳ね上がる。
その中で、高嶺が立ち上がった。
「待てよ、矢川」
声が、少し硬かった。
「どっちにしても、京極に暴れさせるってことだよな」
「そうだ」
「その現場に、誰かいたらどうすんだ」
熱が、すっと引いた。
「いないようにする」
「なんで言い切れる」
「場所はここにする。それなら、人払いは簡単だ」
高嶺は矢川の顔をしばらく見ていたが、やがて、ただ息を吐いて畳に座り直した。
「……分かった。安全第一に暴れてもらおう」
ホワイトボードの前で、矢川は書き足した。
『廃棄未処理設備・所在確認』
『搬入経路』
『京極を誘導する方法』
「三つとも、明日の朝までに準備しよう」
柔道場の窓の外、旧校舎群の方角で、乾いた破壊音が響いた。京極は、もう動き始めている。




