第二十四話 大図書館の番人
旧校舎群と五重の塔の中間に位置する、巨大な独立棟『大図書館』。
一歩足を踏み入れると、空気の質が変わる。
古い紙と革装丁、そして糊の匂い。それ以外の匂いが、何ひとつない。
塵も、風も、外気も、この建物に入る前にすべて濾し取られている。
どこかで機械が動いている気配だけが、床を通して足の裏に伝わってきた。
天井まで届く本棚が迷路のように入り組むこの場所は、膨大な蔵書に加え、入徳館のすべての法律と判例が眠る『絶対中立の聖域』だ。
矢川蓮は、閲覧用端末の前に腰を下ろし、静かにキーを叩いていた。
『校則・第百十二条/改定履歴』
『委員会解散に伴う資産移行/判例・過去五年分』
「おい、そこの一年生」
不意に、背後から神経質な声が掛かった。
振り返ると、腕に『図書委員会』の腕章をつけた二年生の男子生徒が、不快そうに眉をひそめて立っている。手には分厚いバインダー。
「矢川蓮だな。……最近、裏稼業に手を染め、アンダーの連中を使って成り上がったそうだが、ここは大図書館だぞ。君のような俗物が、高度なアクセス権限を要する行政ログを漁るなど、身の程を知りたまえ」
図書委員の榎本は、顎をしゃくって端末を指した。
「図書委員会のマニュアルによれば、機密性の高い行政ログの閲覧は特待生以上に限られている。今すぐ離れろ。さもなくば、不正アクセスの疑いで生活保安委員を呼ぶ」
矢川は端末から手を離さなかった。ただ、視線だけを榎本に向ける。
「……図書委員会の、マニュアル」
「そうだ。我々は入徳館の『法』を管理する番人だ。下層の人間がルールを悪用しないよう、情報を制限する義務がある」
「立派な心がけですね」
矢川はゆっくりと立ち上がった。
「では榎本先輩。【入徳館行政情報公開法】は、当然そらんじられますね」
「……なんだと?」
「『生徒会本部が過去に執行したすべての行政記録は、学校の共有財産であり、いかなる生徒の閲覧要求に対しても、正当な理由なくこれを拒否してはならない』」
淀みない声が、静まり返った書架の間に落ちた。
榎本の喉が、一度上下する。
だが、この男は思ったより愚かではなかった。バインダーを胸の前で構え直し、乾いた唇を舐める。
「……『正当な理由なく』、だ」
「はい」
「つまり、正当な理由があれば拒否できる。機密性の保全は正当な理由だ。委員会が長年かけて分類した機密指定を、一年生の分際で……」
榎本の言葉を遮るように矢川が、口を開く。
「では、お聞きします。そのマニュアルの規則は、校則の第何条に基づいて制定されたものですか」
「え……?」
「機密指定の当否を聞いているのではありません。その指定を行った規則の、根拠の話です」
「……それは、委員会内の、自主的な運用規則であって……」
「生徒会本部の承認を経ていない、単なるローカルルール。……法の階層構造をご存知ないようだ。上位法である校則を、下位の内規で制限することはできない」
榎本の顔から、血の気が引いていく。
「あなたは今、法の番人を自称しながら、校則違反の状態で俺の閲覧権を侵害した。監査委員会に職権濫用として提訴した場合、認定されれば委員資格の六ヶ月停止。免職にはなりませんが、おそらく依願退職になって図書委員の活動はできなくなりますね」
矢川は、榎本の震えるバインダーを一瞥した。
「先輩の進路にも響くと思われますが。……それでも保安委員を呼びますか」
「くっ……!」
榎本がギリッと歯を食いしばった、その時。
「……そのあたりにしておいてくれないか、矢川くん。うちの優秀だが頭の固い蔵書係が、泣きそうになっている」
本棚の奥から、静かで、しかし不思議な重圧を持った声が響いた。
現れたのは、分厚い古書を小脇に抱えた、色素の薄い瞳の男子生徒。
図書委員長・御子柴真だった。
「委員長……! こいつの、こいつの言い分は詭弁です!」
「詭弁だな」
あっさりと、御子柴は頷いた。
榎本が、間の抜けた顔をする。矢川の眉が、ほんのわずかに動いた。
「君の主張は正しいとは限らない、矢川くん。情報公開法は、正当な理由があれば拒否できると書いてある。榎本の持ち出した機密指定がその『正当な理由』に当たるかどうか。……本来、この場で争われるべきだったのは、そこだ」
御子柴は古書を抱え直し、色素の薄い瞳を矢川に据えた。
「君はそこを避けて、規則の出自に論点をずらした。正しかったから勝ったんじゃない。榎本より弁が立っただけだ」
書架の間に、しばしの沈黙が流れた。
「では、委員長」榎本がすがるように言う。「彼をつまみ出してよろしいで……」
「榎本。彼にアクセス権限を付与しなさい。三十分でいい」
「なっ……! しかし、マニュアルには……!」
「あのマニュアルはね、榎本」
御子柴は、感情のない声で言った。
「君たちを守るために置いてあるんじゃない。条文を読まない人間を弾くために置いてある。……ちゃんと条文を読む人間には、どうせ意味がないからね」
榎本が、口を開けたまま固まった。
「入徳館の法は、すべてにおいて平等でなければならない」
御子柴はそう言って、矢川に向き直る。
「だから権限は与える。ただし」
声が、静かに書架の間を滑った。
「大図書館は、閲覧の履歴も記録する。誰が、いつ、何を調べたか。……そしてその記録もまた行政記録だ。規則に従って、いかなる生徒の請求に対しても、正当な理由なく開示を拒否できない」
矢川の視線が、御子柴を値踏みするように動く。
「君が今日ここで、委員会の解散と資産移行の判例を漁った事実は、明日には誰の手にも渡りうる。……法の平等とは、そういうものだよ」
御子柴は背を向けると、思い出したように足を止めた。
「ああ、そうだ。司書の職業病でね、ひとつ気になるんだが」
「……なんでしょう」
「うちの書庫は、入学時の身上調書も製本して保管している。すべての生徒のものをね」
振り返らないまま、御子柴は続けた。
「君の頁だけ、少し妙でね。欠落がある。……製本ミスだと思うかい?」
矢川は答えなかった。
「答えなくていい。我々は関与しない」
御子柴は微かに微笑んだ。
「我々はただ、記録するだけだ。……欠けているという事実も含めてね」
足音が、書架の間に響いていった。
矢川は椅子に座り直し、端末に指を戻す。
画面の隅で、アクセスログが更新される。
閲覧者:『矢川蓮』
その名前が静かに刻まれた。




