第二十二話 黒衣の宰相
入徳館の頂点、五重の塔、最上階。生徒会室の分厚い防音扉が、音もなく開いた。
入室してきたのは、長身の男子生徒だった。
寸分の乱れもなく着こなされた制服。銀縁の眼鏡。彫像のような容貌。
京極宗馬。元は図書委員会に所属していた。しかし、二階堂冬美を支えるため、自ら生徒会選挙へ立候補し、副生徒会長の座を勝ち取った男である。
生徒会の規律と校則の運用を一手に握り、図書委員会の司法権と、監視網を束ねる男。
その静かな佇まいと確かな実力から、生徒たちは彼を『黒衣の宰相』と呼んで恐れていた。
京極宗馬は、静かな足取りで室内へ入る。その一歩一歩には、獲物へ距離を詰める肉食獣のような緊張感があった。
巨大なガラス窓の前では、生徒会長・二階堂冬美が夜景を眺めている。
振り返ることなく、冷たい声だけが飛んだ。
「……ノックもなしに入るなんて。ずいぶんと行儀が悪くなったわね、京極」
「失礼しました。会長が提示した『特別ルール』について、一つ確認したくなりまして」
京極は数歩手前で立ち止まる。
蛇のように細められた瞳が、冬美の背中を静かに射抜いた。
「中間考査下位九十名の『TOK全額没収』。進藤たちは、アンダーと矢川蓮を潰すための策だと思っているようですが……」
一拍。
「私には、そうは見えません」
窓ガラスに映る冬美の横顔が、ほんのわずかに強張る。
(……ヤバい)
(このタイミングで来る!?)
(まさか、大量送金に紛れ込ませた『逃亡資金』に気づいた!?)
制服の下を冷や汗が伝う。
だが、二階堂冬美は入徳館の女王だ。
この箱庭に頂点に立ち続けてきた彼女には、一切の動揺を悟らせない演技力がある。
ゆっくりと振り返り、氷のような微笑を浮かべた。
「……では、お前には何が見えているの?」
試すような女王の眼差し。その視線を受けた瞬間、京極の端正な顔立ちに、ゾクッとするような歪んだ歓喜が走った。
「矢川の排除など、所詮は建前。あなたの真の狙いは……裏のスポンサーすら巻き込んだ、入徳館の『完全な破壊と再構築』ですね?」
「…………」
(は?)
冬美は、完璧なポーカーフェイスの裏側で、盛大にフリーズした。
「大量TOKを再分配すれば、入徳館の経済は混乱する。余りにも酷いパニックになれば、黒幕もシステムに介入せざるを得なくなる。そこで介入してきた黒幕と直接対決して打ち倒し、学校の独立を果たす」
京極は、まるで神の啓示を読み解く預言者のように、熱っぽく語り続けた。
「あなたは、この下らないルールそのものを書き換え、真の意味で入徳館の『神』になろうとしている。……違いますか?」
(何言ってんのコイツ。私、留学先でバカンスを楽しみたいだけなんだけど)
冬美は内心で頭を抱えた。京極の優秀すぎる頭脳は、彼女の『逃亡のための目眩し作り』を、とてつもなく壮大で崇高なクーデター計画だと勝手に深読みしてしまったのだ。
だが、これは好都合だった。
冬美はあえて否定も肯定せず、静かに歩み寄ると、京極の肩に白魚のような指先をそっと添えた。
「……お前は本当に、私の思考の深いところまで届くのね」
甘く、同時に背筋が凍るほど冷たい声色。
京極の肩が、わずかに震えた。冬美が自分だけを特別扱いし、その深淵を覗かせてくれたという歪めらた事実に、彼の狂信的な忠誠心が激しく満たされていくのがわかった。
「私はこれから、特別執務室で『最終フェーズ』の準備に入るわ」(留学先の物件探しと荷造りをするわ)
「誰も私に近づけないで。矢川蓮の足掻きも、進藤の浅知恵も、観測者の視線も……すべて、お前が私の盾となって防ぎなさい」(私が逃げ切れるように、お前が全部の面倒を引き受けて◯ぬまで働け)
冬美は、至近距離で見上げるように京極の瞳を覗き込んだ。
「私の描く完璧な世界には、お前の力が必要よ。……できるわね?」
その言葉は、京極にとって最高の麻薬だった。
彼は深く、恭しく頭を下げ、その場に片膝をついた。まるで、女王に忠誠を誓う騎士のように。
「御意のままに。あなたの玉座は、この私が命に代えても守り抜いてみせましょう」
京極が退室し、防音扉が重々しい音を立てて閉まった。
電子ロックが施錠されたことを確認した瞬間。
「ビビったぁぁ!!」
冬美は純白のレザーソファに顔からダイブし、クッションをボコボコと殴りつけた。
「なーにが『入徳館の神』よ! 怖い怖い怖い! 京極のヤツ、頭良すぎて逆におかしくなってんじゃないの!? あんなの相手にいつまでも女王様なんてやってられないっつーの!!」
冬美は制服のスカートを乱暴に翻して寝転がり、タブレットを引き寄せた。
画面に映るのは、入徳館の複雑な経済チャートではない。
『〇〇島・プライベートビーチ付き! 最高級コンドミニアム(家具付き)』のパンフレット画像だった。
「待ってろよバカンス……! 絶対にこの地獄から抜け出して、イケてる青春を取り戻すんだから!!」
少女の切実な叫びは、分厚い防音扉に阻まれ、誰の耳にも届くことはなかった。




