第二十話 激戦の中間考査
監査委員会の名で、F棟の居住区画全体に、黄色い封鎖テープが張り巡らされた。『学習環境保全区域・関係者以外立入禁止』。その物々しい文字が、皮肉にも、この最下層の寮を、校内で最も安全な聖域に変えていた。
その一階の、普段は使われていない共用ホールが、『情報ファンド』の臨時学習室になった。
初日の夜。
ホールに集められた三十人ほどのF棟の生徒たちの顔は、一様に暗かった。丸腰で処刑台に上げられるのを待つ、囚人の目だ。
「……えっと、みんな。今日から、一週間」
その前に立った水木莉音の声は、最初、情けないほど震えていた。かつて学年トップテンに名を連ねた特待生の面影は、今の彼女にはない。ただ、緊張で顔を強張らせ、襟元を、指先で何度も撫でている、一人の女生徒がいるだけだった。
「私も、正直、こんな役、向いてないって思う。教えるのなんて、得意じゃないし。……でも」
水木は、深く息を吸った。
「私、去年まで、成績で上にいて。そのあと、一回、どん底まで落ちたの。……だから、たぶん、分かるんだ。みんなが、問題用紙を開いた瞬間に感じる、あの『無理だ』って気持ちが」
俯いていた生徒たちの何人かが、顔を上げた。
「潰すのは、その気持ちだけ。……勉強は、そのあとでいい」
矢川が設計した七日間の指導は、常識とはかけ離れていた。
新しい知識を教える時間は、ほとんどなかった。代わりに、水木が生徒たちに叩き込んだのは、たった一つの『やり方』だ。
初めて見る問題を前にしたら、まず解こうとするな。設問を、部品に分解しろ。「この数字は何を指しているか」「見たことのある形は、どこかに隠れていないか」。分からない全体に怯えるのではなく、分かる部品を一つだけ探す。
「いい? 『解けない』と『どこから手をつけるか分からない』は、全然、違うことなの」
水木は、ホワイトボードに、ぐちゃぐちゃに見える応用問題を書いた。
「これ、一見、超難しそうでしょ。でも、ここだけ見て。この式の、この部分。……これ、先週やった基本問題と、同じ形じゃない?」
「……あ」
一人の生徒が、声を漏らした。
「ほんとだ。……ここ、この前の、あれと一緒だ」
「そう! それでいいの」
水木の顔が、ぱっと輝いた。
「全部を一気に解こうとしなくていい。分かるとこ一個、見つける。それだけで、もう半分、勝ってるんだから」
小さな『解けた』が、その夜、ホールのあちこちで、ぽつぽつと灯り始めた。
ただ、一人。
ホールの隅で、一年生の男子が、シャープペンを握ったまま、じっと机の一点を睨んでいたことに、その夜、気づいた者はいなかった。
指導の合間、矢川は道場で、自分自身の答案データを黙々と処理していた。
高嶺が、その手元を覗き込んで、呆れたように口の端を上げる。
「……お前、わざと落とすのか」
「当然だ」
矢川は、手を止めずに答えた。画面には、自身の予想得点と、そこから逆算した「意図的に外す問題」のリストが並んでいる。
「今回、上位九〇名にはボーナスが入る。喉から手が出るほど欲しい報酬だ。……だが、俺がそれを取れば、どうなる」
「厄介な連中に、自分の存在を教えることになる」高嶺が続けた。「わざわざ、一番警戒すべき相手に、手の内を晒す必要はないってことか」
「そうだ。上位に入って多量のTOKを獲得するより、無害な凡人に見えることの方が価値がある。……中の下に沈んでいる方が、目立たず安全だ」
「高嶺。お前も、上位には食い込むな。目立つのは、蔵前先輩の腕っぷしだけで十分だ」
「はいはい。……つくづく、可愛げのない男だな、お前は」
高嶺は苦笑した。
三日目の深夜。
封鎖テープの外に、上位層の生徒たちが、拡声器を手に集まっていた。F棟の連中を眠らせず、当日のコンディションを削るための、恒例の嫌がらせだ。
「おい、始めるぞ。目障りな底辺どもに、子守唄を」
「そこまでにしとけや」
テープの内側から、のっそりと巨体が現れた。蔵前だ。その隣には、工藤も立っている。
「なんだよ、文句あんのか。俺たちはただ、音楽を聴いてるだけだぜ」
「ご自由に。ただ、そこ、監査委員会の保全区域な」
工藤が、あくびまじりに、壁の黄色いテープを指さした。
上位層の生徒たちの顔が、引きつった。
暴力でも、脅しでもない。ただ、ルールという檻が、いつのまにか彼らの周りに組まれていた。彼らは舌打ちを残し、すごすごと引き下がるしかなかった。
その一部始終を、遠くの窓から眺めていた矢川は、小さく息を吐いた。香田の権限は、正しく機能している。状況は、意図通りに動いていた。
水木は、変わっていった。
最初は震えていた声が、日を追うごとに、芯を持っていく。生徒の一人が問題を解けた時、彼女は自分のことのように喜んだ。誰かが行き詰まった時、頭ごなしに教えるのではなく、その子が「あ、分かった」と言うまで、隣で辛抱強く待った。
役に立たなくても、いい。
あの日、七瀬にそう言われて、泣いた。あの言葉に、救われた。
だけど、と水木は思う。今、この子たちが一問解けるたびに、胸の奥が温かくなるこの気持ちは、きっと、それとは別のものだ。
役に立たなきゃ価値がない、という呪いとは、違う。誰かの「分かった」が、ただ、嬉しい。役に立つためじゃなく、ここにいたいから、この子たちの隣にいる。……その違いが、日を追うごとに、少しずつ、彼女自身の中で、形になっていった。
だが、全員が、順調だったわけではない。
五日目の夜。あの一年生は、この日もまた、シャープペンを握ったまま、石のように固まっていた。
名を、真田という。
彼は、この一週間、誰よりも長く机に向かった。だが、いざ初見の問題を前にすると、そのたびに、手が止まる。分解しろ、と教わった手順を、頭では分かっている。それでも、動けない。
「……真田くん?」
水木が、そっと隣に座った。
「無理、っす」
真田は、俯いたまま、掠れた声で言った。
「先輩は、いいっすよ。元、頭良かったんだから。……でも、俺は、違う。小学校の頃から、勉強なんて、できたことなくて。親にも、先生にも、ずっと呆れられてきて。……どうせ、俺なんかが、今さら、何やったって」
その言葉に、水木は、すぐには返せなかった。
どうせ、俺なんか。それは、水木が潰そうとしている『逃げ癖』の、いちばん根の深い場所にある、本当の言葉だった。手続きでは、届かない。七日では、掘り起こせないかもしれない、学習性無力感。
「……うん。今日は、もう休も」
水木は、それ以上、無理に励まさなかった。ただ、真田の背中に、そっと手を置いた。
その様子を、少し離れた場所から、矢川が見ていた。
全体の底上げは、順調だ。大半の顧客は、下位九〇名を脱出できる水準に達しつつある。データ上は、勝てる。だが、真田のような生徒は、必ず一定数出る。理論武装させても、最後の一歩『自分を信じる』という部分だけは、こちらから叩き込めない。
(……水木先輩の声なら、あいつに、届くんだろうか)
水木の顔が、脳裏をかすめる。
矢川は、その益体もない思考を静かに打ち切り、当日の座席配置とタイムスケジュールの最終調整へと、意識を戻した。
自分にできることを、全力でやる。届かない場所は、届く人間に託す。それが、このチームの戦い方だった。
七日目の夜が、明ける。
ホールに集まった生徒たちの顔から、初日の、処刑を待つ囚人の目ではなくなった。完璧な自信ではない。だが、少なくとも、丸腰ではなくなった者の、覚悟の目がそこにあった。
「……みんな」
水木が、最後に、彼らの前に立った。その指は、もう、襟元を撫でてはいなかった。
「初めて見る問題が出ても、大丈夫。怖くなったら、思い出して。全部解こうとしなくていい。分かるとこ、一個だけ。……それだけで、私たちの勝ちだから」
生徒たちが、力強く頷く。その中で、真田だけが、まだ少し、俯いていた。
運命の、中間考査・当日。
真っ白な試験会場。区切られた個室ブースの一つで、桐谷駆は、支給されたタブレットに向かっていた。
『試験開始』の電子音と共に、数学の第一問が表示される。
【第1問:ある閉鎖環境における経済行動のシミュレーションモデルにおいて……】
数式よりも長い、行動経済学の専門用語が羅列された、複雑怪奇な問題文。他のブースからは、過去問のパターンしか知らない一般生徒たちの「なんだこれ!?」という、微かな悲鳴が漏れ聞こえてくる。
だが、桐谷の口元には、自然と笑みがこぼれていた。
(……水木先輩の言った通りだ。行動経済学の"ガワ"を剥がせば、中身は、ただの二次関数の最大値・最小値問題)
学習指導要領という、絶対の箱。その境界を読み切られたAIの出題は、対策を積んだF棟の生徒にとって、装飾を剥がせば見慣れた基本問題の集まりに過ぎなかった。桐谷は、迷いなくペンを走らせる。
だが。
同じ会場の、別のブースで。真田は、第一問の画面を開いたまま、一文字も、書き出せずにいた。
行動経済学。確率統計。長い問題文。
真田の目の前で、それらの文字が、意味を失って、ぐにゃりと歪んでいく。
(……やっぱり、無理だ)
七日間、誰よりも長く机に向かった。やり方も、頭では覚えている。設問を分解しろ。分かる部品を探せ。だが、その手順を実行する前に、いつもの声が、頭の中で響く。
どうせ、お前なんかが。
小学校の通知表。呆れた親の顔。「お前は本当に出来が悪い」と言った教師の声。馬鹿にしてきた同級生の言葉。積み重なった十数年の「どうせ」が、たった一問の前で、真田の手足を、鉛のように縛りつける。
こめかみを、冷たい汗が伝った。呼吸が、浅くなる。ブースの中の時間だけが、無情に溶けていく。
(……ああ、また、だ。俺は、また、ここで)
降りようとした、その時。
ふと、水木の声が、蘇った。
『怖くなったら、思い出して。全部解こうとしなくていい。分かるとこ、一個だけ』
そして、その隣にいた、自分と同じF棟の仲間たちの顔が。休憩時間に、下手くそな冗談で笑わせてくれた、名前も知らない仲間の顔が。
真田は、震える指で、シャープペンを握り直した。
(……一個。一個だけ、だ)
問題文の、長い装飾を、意識から締め出す。行動経済学も、シミュレーションも、全部、無視する。ただ、その奥に埋もれた、たった一つの数式だけを、探す。
あった。
(……これ。この形。……見たこと、ある)
水木が、何十回も反復させた、二次関数の、基本の形。それが、長ったらしい問題文の、いちばん底に、確かに沈んでいた。
真田の手が、動いた。
たった一問。それも、答えに確信はもてない。それでも、生まれて初めて、真田は、初見の問題から逃げなかった。白紙のままではない答案が、そこにあった。




