第十九話 法の楔
入徳館では、定期考査の一週間前から、寮の門限がなくなり、売店が二十四時間営業になる。年に数度ある。この管理された箱庭に、いびつな活気が満ちる期間だ。
そんな、いつもより少し忙しない夜。
深層ネットワークを経由した暗号化通信が、柔道場の電子黒板に繋がった。映し出されたのは、オフィスで胃薬を噛み砕く、監査・予算委員会・香田慧の、不機嫌な顔だった。
『……こんな夜に何の用だ、矢川蓮。俺は今、会長が実施した全財産没収ルールのせいで、口座の監視システムを組み直すのに、胃に穴が空きそうな忙しさなんだぞ』
「口座の監視、ですか」
『没収を逃れるために、資産を他人名義に逃がす馬鹿が続出する。全生徒の口座に、不正移転の検知を仕込み直してるんだ。……で、要件は』
「取引の提案です。……新しい富裕層の脱税リストと引き換えに、二つ、監査権限を行使していただきたい」
『……聞くだけ聞いてやる』
「一つ。F棟の居住区画を、明日から一週間、監査委員会の【査察証拠保全区域】に指定してください」
香田の目が、細くなった。
「現在、上位層の生徒たちが、ボーナス目当てにF棟の生徒の睡眠や勉強を妨害しています。深夜の騒音、寮内での嫌がらせ。……ですが、もしそこが監査委員会の立ち入り制限エリアになれば」
『……騒ぎを起こした奴が、公務執行妨害と証拠隠滅の対象になる。どんな馬鹿でも、マルサのシマには手を出せない、か』
香田は、そこまで言って、しかし低く唸った。
『だが、断る』
「理由を伺っても?」
『分かって言ってるだろうが』
香田は、忌々しげに眉間を揉んだ。
『会長が特級権限で決めたテスト期間中だ。そんな時に、監査の一職員が勝手な動きをするんだぞ。……冬美会長に睨まれたら、俺の首が飛ぶ。森下との時間どころか、この学校から存在ごと消える』
道場に、緊張が走った。高嶺が、思わず身を乗り出しかける。
だが矢川は、動じなかった。この男が「断る」と言ったのは、拒絶ではない。『他の提案をしろ』、という要求だ。
「では、あなたの職務の話をしましょう」
矢川は、静かに言った。
「今、起きている騒動。……上位層の妨害が続けば、F棟の生徒は追い詰められ、まともに勉強する気はなくなる。資産を隠すか、あるいは自暴自棄になって全額を使い潰します。どちらも、あなたの仕事に大きく影響する」
『……ッ』
「そして、下位九〇名が本当に全財産を失えば、どうなりますか。彼らは購買で消費できなくなる。……先日、あなた自身が数字で確認したはずだ。今、校内経済の総量を押し上げているのは、F棟の消費だと」
香田の、キーボードを叩く手が、止まった。
「彼らの財産が上位層に移れば、TOKは動かず、貯め込まれるだけだ。消費は死に、需給は狂い、あなたの査察部は、また、辻褄合わせの徹夜に追われる。……インフラを枯らすのは、俺たちではない。この理不尽な中間考査の方です」
長い沈黙があった。
モニターの向こうで、香田は天井を仰ぎ、それから、深々と息を吐いた。
『……学習環境の保全だ』
「……?」
『F棟の封鎖の名目だよ。不自然に捜査をでっちあげなくてもいい。公正な考査の実施を担保するための、学習環境の監査だ。……この名目なら、生徒会も文句は言えねえ。公正な試験は、あの生徒会長自身が掲げた建前だからな』
香田は、忌々しげに、しかしどこか楽しげに口の端を歪めた。
「封鎖していただけるなら、どんな名目でも結構です」
『で? もう一つは何だ』
「これが本命です。……教育システムを管理しているサーバーの、直近一ヶ月の【予算申請ログ】を開示してください」
「予算申請ログ?」佐竹が、横から怪訝な声を上げた。「おい、出題AIのアルゴリズムじゃねえのか」
「本体にはロックがかかっている。だが、予算の変動から出題される問題を割り出せるかも知れない」
矢川は、ホワイトボードの中央に、大きく書き殴った。
『学習指導要領』。
「生徒会長は『完全新作のアルゴリズム』と言った。だが、AIにゼロからの創造性は存在しない。必ず、元となるデータセットと、出力のルールが存在する。……そして入徳館は、まがりなりにも公式な教育課程を持つ高等学校だ。テスト問題は、文部科学省の定める学習指導要領を逸脱できない」
「……待てよ」
高嶺が、眉を寄せた。
「ここは治外法権に近い特区だろ。校内じゃ通貨まで独自に発行してる連中が、なんで外の法律なんかに縛られるんだ」
「卒業資格があるからだ」
矢川は、即答した。
「入徳館の価値はTOKでも、最新設備でもない。国に認められた高等学校としての卒業資格と、それに付随する進学・就職実績だ」
矢川は、ホワイトボードに四角を描いた。
「入徳館は、認可を受ける際、卒業判定に用いる考査を、登録済みの教育課程と到達目標に対応させることを義務づけられている。発展的な問題を出すことはできる。だが、成績評価の中核を、登録範囲から大きく逸脱させることはできない」
「つまり、完全新作でも……」
「箱の形を変えることはできる。だが、箱の外には出られない」
佐竹が顎に手を当てた。
「出題AIが使える知識領域は、最初から限定されてるってことか」
「そうだ。問題は、その限定された範囲の中で、どの分野に重点を置いたかだ」
矢川はモニターへ視線を戻した。
「香田先輩。教育関連の支出概要は、校内予算の透明性規定に基づく公開対象のはずです。ただ、検索性を意図的に下げられている」
『データそのものは渡せねえぞ』
「構いません。監査上、照合可能な範囲で質問に答えていただければ十分です」
『……分かった。項目を言え』
矢川が問う。
「直近一か月で、新規購入された教材・分析用データセット。その分野、購入時期、使用サーバーを確認してください」
香田がキーボードを叩き始める。
数十秒後、彼の眉が寄った。
『購入履歴が三件ある。行動経済学の基礎モデル、確率統計の応用データ、それと近代ディストピア文学の電子テキスト群だ』
「使用先は」
『待て……』
さらにキーを叩く音が続く。
『行動経済学と確率統計は、購入翌日から教育評価サーバーへ繰り返し読み込まれている。近代ディストピア文学も同じだ。昨日から、出題生成ノードへのアクセス回数が急増してる』
佐竹が椅子から立ち上がった。
「それなら偶然じゃねえ。試験用の学習処理だ」
「まだ断定はできない」
矢川は即座に釘を刺した。
「授業教材や別の評価プログラムに使われる可能性はある。だが、購入時期、読み込み先、アクセス頻度を考えれば、有力な候補だ」
「追加で調べりゃ絞れる」
佐竹は自分の端末へ向き直った。
「学年別ノードの負荷と、教員端末からの検証アクセスを追う。どの教科の出題処理に使われてるかくらいなら、外側から推測できる」
「頼む」
矢川はホワイトボードへ三つの分野を書き出した。
「今回の考査は、通常の教科別問題ではなく、複数の資料を用いた統合型になる可能性が高い」
「統合型?」
水木莉音が問い返す。
「例えば、ディストピア文学の文章を読ませ、その登場人物の選択を行動経済学の観点から分析させる。社会集団の行動を、確率統計で計算させる。表面上は新作でも、必要な技能は既存の教育課程に含まれる」
高嶺が、積み上げられたノートへ目を向けた。
「文章読解、資料分析、確率、関数、意思決定……。単元をまたいで混ぜてくるってわけか」
「その可能性が高い」
矢川は水木へ向き直る。
「水木先輩。佐竹が使用領域を特定したら、登録済みの到達目標と重なる部分だけを抽出してください」
「はい」
「ただし、教材を一種類にはしないでください」
水木は一度言葉を切り、仲間たちの顔を見渡した。
「文章だけで分かる子もいれば、図にした方が分かる子もいます。声に出して手順を確認した方が、落ち着いて解ける子もいる。全員に同じ教材を渡したら、また置いていかれる人が出ます」
矢川は数秒考えた。
「合理的です。文章型、図解型、音声型の三形式で作りましょう」
「……はい。それなら、もっと多くの子に届くと思います」
水木の声には、以前のような怯えがなかった。
「水木先輩」
「はい」
「指導責任者を引き受けるかどうかは、あなた自身で決めてください。断っても、柔道場にいる権利は変わりません」
水木は、驚いたように目を見開いた。
役に立たなければ居場所を失う。そんな恐怖に、彼女は長く縛られていた。
だが今、選ばなくても何も奪われないと言われた。
水木は胸元で手を握り、ゆっくりと頷いた。
「……それでも、やりたいです」
「なら、任せます」
矢川は高嶺へ向き直った。
「既存の過去問は、設問そのものには使えない。だが、どの能力が繰り返し評価されてきたかという骨格は残る。佐竹の分析結果と重ね、優先単元を決めてくれ」
「おう。今回ばかりは、俺のノートが本当に紙屑になるかどうか、確かめてやるよ」
高嶺は、ノートの束を引き寄せた。
「蔵前先輩、工藤。F棟の生活管理をお願いします。夜間の学習は時間を区切り、最低でも六時間は眠らせる。カフェインは午前中だけ。夕方以降は禁止してください」
「分かった」
「無茶な徹夜はさせねえ。身体が潰れたら、元も子もないからな」
工藤が力強く頷いた。
「七瀬は、強い不安やパニックが出た生徒の個別対応を。吉海はF棟内の連絡網を作り、学習から離脱した生徒を一人ずつ呼び戻してくれ」
「うん。無理やりじゃなくて、戻りたい子が戻れるようにするね」
「任せて! 暗い顔してる子、片っ端から名前覚えてくる!」
玲奈が胸を張る。
モニターの向こうで、香田が呆れたように鼻を鳴らした。
『……相変わらず、ルールと人間の隙間を見つけるのがうまい野郎だ』
「褒め言葉として受け取ります」
『褒めてねえ』
香田は腕章を巻き直しながら、低い声で続けた。
『F棟の学習環境を保全する。予算についても、公開情報の範囲で照合に協力する。違法じゃねえ。誰も規則は破ってない』
「だからこそ有効です」
『……そこがタチ悪いって言ってんだよ』
香田は、画面越しに矢川を睨んだ。
『前にも言ったな。お前は、いつか同じやり方を、もっと大きな相手に使う。喧嘩を売る相手だけは間違えるな』
「覚えておきます」
『覚えるだけじゃなく、理解しろ』
通信が切れた。
柔道場に静寂が戻る。
「作業は朝まで続ける」
矢川は全員を見渡した。
「ただし、二時間交代で仮眠を取れ。判断力を落とした人間が作った教材を配る方が危険だ」
ホワイトボードには、行動経済学、確率統計、近代ディストピア文学の三つの分野が並んでいる。
「勝算は、まだ確定していない。相手は、生徒会長が直接組み直した出題システムだ」
矢川は、その隣に書かれた「全TOK没収」の文字を指で叩いた。
「だが、俺たちが守るのは、誰かから与えられた財産じゃない。あの連中が、自分の力で稼ぎ直したTOKだ」
高嶺がノートを開き、佐竹が複数の解析画面を立ち上げる。水木は後輩たちの学習記録を机に広げ、教材の構成を書き始めた。
反撃の準備が、静かに動き出す。
その時。
佐竹が、キーボードを叩く手を止めた。
「……待て、矢川」
「どうした」
「購入データは、三つだけじゃねえ」
佐竹のモニターに、通常の予算ログには存在しない、暗号化された読み込み履歴が表示される。
出題生成ノードへ接続されている、四つ目のデータ群。
画面上に浮かび上がった名称を見て、道場から音が消えた。
《入徳館・全生徒心理プロファイル》
「今回の試験……」
佐竹の声が、低くなる。
「学力を測るだけじゃねえぞ」




