第十八話 開戦の狼煙
その日の放課後、入徳館高校の全生徒一〇八〇人のスマートウォッチが、一斉に不吉な警告音を鳴らした。
同時に、学園中のあらゆるデジタルサイネージ、教室のモニターに、指定制服に身を包んだ生徒会長・二階堂冬美の姿が映し出された。
『全生徒に通達します。一週間後に迫った【中間考査】について、生徒会本部より特別ルールの追加を発表します』
モニターの中の冬美は、感情の読めない透き通った瞳で宣告した。
『第一に。今回の中間考査における学年最下位の三〇名、計九〇名の生徒に対し、システムへの非適合のペナルティとして、口座内の【全TOKの強制没収】を執行します。そして、没収されたTOKは、優秀な成績を収めた上位九〇名の生徒へ、特別ボーナスとして、手数料を引いた後、全額再分配されます』
その瞬間、入徳館中の空気が凍りついた。
全財産の没収。それは入徳館において、即座にアンダー層への転落を意味する、経済的死刑宣告だ。そして、それを上位層のボーナスにするということは、事実上の「合法的な略奪」の推奨である。
『第二に。現在、校内で過去問や出題傾向の不当な売買が横行している事態を、重く見ます。よって、今回の中間考査より、出題アルゴリズムを過去三年間のものから完全に改め、【完全新作】のテストに差し替えます。……入徳館が求めるのは、過去のデータにすがる寄生虫ではなく、未知の課題を自力で突破できる優秀な生徒です。健闘を祈ります』
通信が切れた直後。
数秒の静寂を破り、入徳館全体が、爆発したような悲鳴と怒号、そして醜悪な歓喜の声に包まれた。
「全TOK没収!? ふざけんな、俺たちが便所掃除や小テストで必死に貯めた金だぞ!!」
「待てよ……ってことは、底辺の連中を徹底的に蹴落として俺たちが上位に入れば、あいつらの貯め込んだ金が、そっくりそのまま手に入るってことか……!」
恐怖と欲望が、瞬く間に生徒たちの理性を焼き切っていく。
とりわけ、最下層であるF棟のパニックは凄まじかった。彼らが最近になってようやく温かい食事と人間らしい生活を取り戻せたのは、矢川たち『情報ファンド』が提供する「アナログノート」があったからだ。
それが無効化され、丸腰で戦場に放り出された上に、ボーナスに目が眩んだ上位層のエリートたちが、彼らのささやかな財産を奪おうと、目を光らせ始めている。
「終わりだ……また、あの地獄に戻るんだ……!」
「せっかく口座がプラスになったのに! 奪われるくらいなら、今のうちに全部使っちまった方がマシだ!」
絶望と自暴自棄に泣き崩れる生徒たち。一部の生徒が生徒会室へ抗議に向かおうとするが、タワーへ続くゲートは、すでに重厚なシャッターで封鎖されていた。
同じ頃、柔道場。
「……えげつねえことしやがる、あの女王様」
佐竹が、キーボードを叩きながら悪態をついた。
「見ろよ。深層システムで、出題AIのアルゴリズムが完全に書き換えられてる。……俺たちが稼いだ過去のデータも、傾向分析も、全部、ただの紙屑だ」
「そんな……! じゃあ、アンダーのお客さんたちはどうなるの!?」
七瀬柚葉が、青ざめた顔で訴える。
「どうにもならねえよ。元々、基礎学力で劣る連中だ。過去問のドーピングなしで真っ向勝負させられたら、間違いなく下位九〇名の枠は、うちの顧客で独占される」
高嶺悠真が、机に積まれた自分のキャンパスノートの束を、乱暴に押しやった。
「しかも、上位九〇名に財産が分配されるルールのせいで、エリート連中が目の色を変えて妨害を始めてる。うちの顧客を眠らせないように騒音を鳴らしたり、嫌がらせでメンタルを削りに来てやがる」
蔵前と工藤も、理不尽なルールの前に、重い沈黙に沈んだ。
下位九〇名の、全財産没収。
それは、アンダー層からコンサル料という形で配当を受け取る『情報ファンド』にとって、顧客の全滅と、事業の破綻を意味していた。
「クソッ! どうする、矢川! このままじゃ俺たち、詰みだぞ!」
全員の視線が、部屋の隅のパイプ椅子に集まる。
だが。
矢川蓮は、答えなかった。
矢川は、タブレットに表示された自らの事業モデル図を、ただ静かに見つめていた。
高嶺が足で集めた、過去三年分の傾向データ。それを基に構築された、コンサルティングの体系。顧客の成績向上と、そこから得る配当。この事業のすべては、『過去の蓄積は未来に通用する』という、たった一つの前提の上に建っていた。
その前提が、たった今、上から一撃で消し飛ばされた。
資産でも、人員でも、技術でもない。積み上げてきた土台そのものを、抜かれたのだ。
(……読み違えた)
矢川は、自分の指先が、わずかに冷えていくのを感じた。
冬美が動くとすれば、資産凍結か、部の解体か、あるいは制度的な圧力だろうと予測していた。だがあの女は、そのどれでもなく、こちらの事業の根幹を断ちに来た。想定の外側だった。
「……矢川?」
高嶺が、訝しげに声をかける。この男が、これほど長く黙り込むのを、彼は初めて見た。
「……過去問は、使えない」
矢川は、絞り出すように呟いた。
「一週間で、基礎学力そのものを引き上げるのも、不可能だ。……前提が、根こそぎ違う」
道場が、しん、と静まり返った。
矢川蓮が「不可能だ」と口にした。その事実だけで、佐竹の顔から血の気が引き、七瀬が息を呑む。最後の砦が、崩れた音がした。
その時だった。
「……あの」
道場の隅で、遠慮がちに手を挙げた者がいた。水木莉音だった。
赤トークが消えて以来、彼女は道場に居着き、F棟の後輩たちに数学を教えている。
「ごめんなさい、素人考えなんですけど……」
彼女は、いつもの癖で、襟元を指で撫でながら言った。
「私、最近、あの子たちに教えてて、思ったことがあって。……あの子たち、頭が悪いわけじゃ、全然ないんです」
「けど、実際にテストじゃ点が取れてねえだろ」佐竹が言う。
「はい。でも、それは……問題を解く力がないんじゃなくて、『どこから手をつけていいか分からない』だけなんです」
水木は、たどたどしく、けれど確かな実感を込めて続けた。
「解き方を教えると、みんなちゃんと解けるんです。でも、初めて見る形の問題を出すと、読んだ瞬間に固まっちゃう。『あ、これ習ってないやつだ』って、諦めるんですよ。……解けないんじゃなくて、『解こうとする前に降りちゃう』んです」
その瞬間。
矢川の指が、ぴたりと止まった。
「……もう一度、言ってください」
「え、あ、はい。……その、初見の問題で、固まっちゃうって……」
「『解けないのではなく、解こうとする前に降りる』……」
矢川は、弾かれたように立ち上がり、ホワイトボードの前へ歩み寄った。そして、二つの絶望的な条件を書き出す。『全財産没収』。『完全新作のアルゴリズム』。
「俺は、式の立て方を間違えていた」
振り返った彼の目に、さっきまでの冷えた色はもうない。
「俺たちがやるべきなのは、顧客の学力を『上げる』ことじゃない。……下位九〇名から、『出す』ことだけだ」
「……は?」高嶺が眉をひそめる。「同じことだろ。点を取らなきゃ、順位は上がらねえ」
「違う。順位は、絶対値ではなく、相対値だ」
矢川は、ホワイトボードに縦線を一本引いた。
「今回のテストは、全員が『完全新作』を受ける。つまり、上位層の連中も、初見の問題に立ち向かうことになる。この試験では、全員の点が下がる。全体が沈むんだ」
「……あ」佐竹が、目を見開いた。
「そうだ。この状況で重要なのは、満点を取ることじゃない。取れる問題を、取りこぼさないことだ。……水木先輩の言う通り、うちの顧客が落としているのは、解けない問題じゃない。解けるはずの問題を、初見の形に怯えて捨てている分だ」
矢川の声に、熱に似た速度が乗り始める。
「捨て問を拾うだけでいい。全体が沈む試験では、それだけで順位は跳ね上がる。……一週間で学力を作るのは不可能だ。だが、一週間で『逃げ癖』を潰すことは、できる」
「……つまり、教えるのは、勉強じゃなくて」
「解き方の型と、初見の問題への向き合い方だ。設問を分解し、既知の形に落とし込む手順。……知識ではなく、手続きを叩き込む。それなら、七日で足りる」
矢川は、水木の方を見た。
「水木先輩。この一週間、顧客の指導を、あなたに主導していただきたい」
「え……わ、私が!?」
水木の顔が、驚愕に固まる。
「無理です! 私、特待生でもなくなったし、教えるのだって、まだ少しだけで……」
「教えられる人間なら、他にもいる。だが、『つまずく側の気持ちが分かる人間』としては、水木先輩が適任だ」
それは、慰めではなく、算定だった。
「あなたは去年、学年トップテンにいた。そして一度、底に落ちた。……両方を知っている人間の言葉が、あの連中の希望になる」
水木は、口を開いたまま、しばらく動けなかった。
役に立たなくてもいい、と言われた場所で。今度は、自分にしかできない役目を、求められている。彼女は震える手を、ぎゅっと握りしめた。
「……やらせて、ください」
「決まりだ。だが」
矢川は、ホワイトボードの『完全新作』の文字を、指の背で叩いた。
「この局面を攻略するには、時間があまりに短い。全教科・全範囲を対象にすれば、確実に間に合わない。……範囲を、絞る必要がある」
そう言った矢川の目は、ホワイトボードの隣にある電子黒板を見つめていた。




