第十七話 炎の魔女と氷の女王
入徳館高校『五重の塔』、最上階。
入徳館の敷地のすべてを見下ろす、その頂に位置する「生徒会室」は、部屋というよりも、神殿か、あるいは巨大な実験室のようだった。
純白の玉座に深く腰掛けているのは、生徒会の最高権力者にして、入徳館の絶対的な「権力」そのものである三年生の生徒会長、二階堂冬美である。
「……美しいシステムだと思わないかしら」
氷のように透き通った声が、静まり返った生徒会室に響いた。
黒塗りの直方体のテーブルを挟んだ対面には、二人の男が直立不動で立っていた。監査・予算委員会第二室長の影山と、徳務委員トップの進藤蒼一である。
普段は一般生徒を見下すエリート中のエリートである彼らが、今は冷や汗を流して俯いていた。
「F棟の生徒たちのTOK残高が、底辺に張り付くことなく回復している。為政者としては喜ばしいことかも知れないけど。……影山。あなたが柔道部に返り討ちにあって以降、彼らの活動によって経済バランスが著しく損なわれているわ」
「も、申し訳ありません、会長……! あれは、一年の矢川蓮の暗躍による不測の事態で……」
「不測の事態? この場において『不測』とは、管理者の無能を意味する言葉よ」
冬美は、冷ややかな視線をスライドさせ、今度は進藤を捉えた。
「進藤。あなたの徳務委員会も、随分と『面白いこと』してくれたわね。水木莉音のSBT(赤トーク)が、あなたの権限で取り消された。……私への事前報告もなしに」
進藤の額に、脂汗が滲む。
「システムの一時的なバグによる赤トークの付与でした。すでにパッチを当て、修正は完了しております。他意は決して……」
「そう。なら、いいの。……ただ、忘れないでね進藤。もし『管理者が私腹を肥やすためにシステムを私物化していた』としたら、私はその原因を外科的に排除しなければならなくなるわ」
「……ッ!」
進藤は息を呑んだ。冬美は、彼が不正蓄財していた事実を、すでに『知っている』のだ。
深く頭を垂れた進藤の口元が、脂汗の下で、ほんのわずかに歪む。
それは、怯えの表情ではなかった。
伏せた睫毛の奥で、その目は、玉座の少女の一挙手一投足を、静かに追っていた。彼女がどこで言葉を切り、どこで視線を外し、何を口にしないか。
だが、その気配は、瞬きひとつの間に、元の卑屈な脂汗の下へと沈んだ。
冬美はゆっくりと立ち上がり、ガラス窓の前に歩み寄った。
「影山、進藤。これ以上、あなたたちの小手先のゲームで、私の仕事を汚すことは許さない。……生徒会本部が、直接『特級権限』を行使するわ」
「特級権限、ですか……!?」
「ええ。来週から始まる『入徳館・中間考査』。このテストの各学年、成績下位三〇名を、無条件で即刻『TOKの全額没収』とする特別ルールを追加するわ。そして、定期テストの出題アルゴリズムを、過去三年間の傾向から完全に断絶させた『完全新作』に差し替える」
進藤と影山が、驚愕に目を見開く。
「過去問というその場しのぎの知識に依存した生徒たちは、新しいアルゴリズムに対応できず、必ず下位九〇名に沈む。……矢川蓮のファンドは、顧客を一斉に失い、破綻する」
冬美は振り返り、二人に冷酷な命令を下した。
「私はこれから、この新たな定期テストアルゴリズムを学校の深層システムに組み込むため、一切の面会を謝絶し、執務室に籠るわ。……進藤、影山。この『TOK全額没収』の執行と、パニックの鎮圧はあなたたち二人に一任する。もし失敗すれば、あなたたちが代わりにペナルティを受けることになるわよ」
「は、はいっ……!!」
恐怖に震える二人の学僚を退出させると、分厚い防音扉の電子ロックが「カチリ」と施錠された。
その音が鳴った瞬間。
二階堂冬美は、氷のような無表情を一瞬で崩し、大きく、ひどく人間臭いタメ息を吐き出した。
「あーーーーっ、疲れたぁ! マジで肩バッキバキなんだけど!」
冬美は完璧に姿勢を保っていた背もたれからズルズルと崩れ落ち、純白のレザーソファにだらしなく寝転がった。
息が詰まるほどキッチリと締めていた指定制服のネクタイを乱暴に緩め、綺麗にまとめ上げていたプラチナブロンドの髪をガシガシと掻き乱す。
「進藤のヤツ、絶対裏金貯め込んでるのバレて焦ってたっしょ。ウケる。あーあ、偉そうに女王様ごっこすんのもしんどいわー」
先ほどまでの威厳はどこへやら。そこにいるのは、どこにでもいる、少し砕けた調子の女子高生だった。
その時、生徒会室の奥にある隠し扉が開き、同じ三年生で腹違いの姉である二階堂夏希が、呆れ顔で姿を現した。
「……相変わらず、扉が閉まった瞬間にポンコツになるね、冬美」
「うるさいなー、夏希。いいじゃん、誰も見てないんだから。喉乾いた。コーラ飲も」
冬美はテーブルに擬装して隠された小型冷蔵庫から瓶コーラを取り出し、プシュッと小気味良い音を立てて栓を抜くと、ラッパ飲みした。
地下の魔女として君臨する夏希の方が、よほど肝が据わった女王に見える。
夏希は呆れ半分で、冬美の向かいのソファに腰を下ろした。
「で? さっきの進藤たちへの命令、聞いたよ。中間考査で下位九〇名強制TOK没収って……あんた、今までは成績不振でTOKの没収なんてしたことないじゃない。本気であの矢川蓮って一年を潰しに行く気?」
「潰す? まさかぁ」
冬美は瓶コーラを片手に、ニシシと悪戯っぽく笑った。
「あれはただの巨大な『目くらまし(スモーク)』よ。私がここから逃げ出すためのね」
「……逃げ出す?」
冬美は、自身のタブレットを操作し、夏希に一つの電子チケットの画面を見せつけた。
そこには『海外特別教育プログラム・留学パス』と印字されている。
「毎月毎月、観測者達にせっせとデータ送って、私のアカウントに貯め込んだTOKとバイト代(金策)で『留学の枠』を買ってやるの! もうすぐ、ここを出て、卒業式まで絶対に戻らないんだ。これで釈放よ!」
冬美は心底嬉しそうに、バンザイのポーズをとった。
夏希は目を丸くした。
「は……? あんた、まだ、そんなこと言ってるの?」
冬美は、以前から高飛び(留学)の話を夏希にしていた。
「当たり前じゃん!」
冬美はソファの上であぐらをかき、忌々しそうに空中のホログラムモニターを睨みつけた。
「高校生をこんなところに閉じ込めて、こんなことさせる奴らの趣味になんて付き合ってらんないわ」
それは、入徳館の頂点に立つ彼女の、一切の飾りのない本音だった。
「常に『観測者達』に怯えなきゃいけない。進藤みたいな虎視眈々と寝首を掻こうとするバカの機嫌も取らなきゃいけない。……もう胃に穴があくっての! 私は普通の女子高生だよ!?」
冬美はクッションを抱きしめ、ブルブルと大げさに身震いしてみせた。
「でもね、私が留学するためにTOKを貯めているということに気づかれたら、内外から何かしらの妨害が来る。だから、目眩しの『イベント』を起こして、学校のデータをぐちゃぐちゃにする必要があるのよ」
「……その一つが、九〇名強制TOK没収の特別ルールってわけ?」
「そう! 進藤と影山は、この前代未聞の任務と、矢川蓮っていうヤバい一年生との潰し合いに夢中になる。観測者達も、そのスリリングな『生存競争』の観察に釘付けになるわ。……みんなの視線がそっちに集中している間に、私は『アルゴリズム作る』って嘘をついて、脱出ルート(TOK)を作るの」
完璧なシステムを信奉する冷酷な女王が仕掛けた中間考査は、システムを守るためでも、矢川を潰すためでもなかった。
自らが安全に逃亡するため、学校全体を混乱のるつぼに叩き落とすための、巨大なデコイ(囮)だったのだ。
夏希は、長煙管を取り出しかけて、生徒会室であることを思い出し、やめた。代わりに、探るような目で妹を見る。
「けどさ、冬美。あんた、去年まではそこまで言ってなかったよね。女王様ごっこも、割と楽しそうにやってたじゃない。忙しいのも権力闘争も、昔からでしょ。……なんで急に、そんなに必死こいて逃げたがるわけ」
その問いに。
冬美の、コーラの瓶を持つ手が、止まった。
部屋の温度が、すっと下がった気がした。さっきまでの、だらけきった女子高生の顔から、ゆっくりと、表情が抜け落ちていく。だがそれは、学僚たちに見せる女王の顔とも、違った。
もっと、生身の。……怯えた顔だった。
「……ねえ、夏希」
冬美は、窓の外へ目をやった。眼下の箱庭ではなく、その遥か向こう、学園の敷地の果てを。
「『編入』された子たちがさ。……その後、どうなってるか、知ってる?」
「……破産した連中でしょ。系列の施設に送られて、負債を労働で返す。それがルールじゃない」
「私も、そう思ってた。去年までは」
冬美の声は、平坦だった。平坦であろうと、努めている声だった。
「会長になって、深層システムの権限をもらってから……見ちゃったのよ。観測者達に毎月送ってる、あのデータの、『続き』を。編入された子たちの、その後の記録。……最初は、労働記録だった。途中から、記録の項目が、変わるの」
「……変わる?」
「体温。心拍。投薬。……経過観察」
冬美は、コーラの瓶を、テーブルに置いた。かちり、と硬い音がした。
「途中から、あの子たちの記録はね、『労働者』のフォーマットじゃなくなるの。……『検体』のフォーマットになるのよ」
夏希の顔から、呆れ笑いが、消えていた。
「私が毎月送ってる生体データはね、たぶん、その『選別』に使われてる。誰が丈夫で、誰が従順で、誰が使えるか。……私、ずっと、それを手伝わされてたの。知らないうちに。会長様のお仕事として、にこにこ判子を押しながら」
冬美は、自分の両手を、見下ろした。
「気づいたときにはさ。もう、辞め方が分かんないのよ、これ。会長を降りるって言ったら、私、絶対に訊かれるもの。『どこまで見た?』って。……知りすぎた人間は、この学校から、普通には卒業させてもらえない。だって、都合が悪いから」
沈黙が、神殿のような部屋に満ちた。
「……だから、逃げるの」
冬美は、顔を上げた。無理やり、悪戯っぽい笑みを、口元に貼りつけて。
「観測者達がいちばん喜ぶ『面白いデータ』を、置き土産にしてね。下位九〇名没収なんて前代未聞のルールと、矢川蓮っていうヤバい一年。進藤と影山の潰し合い。……みんなの視線が、その『実験』に釘付けになってる間に、私は籠城のフリして、留学手続きをこっそりして堂々と正面から出ていく。データの上では、何の異常もない、模範的な生徒の栄転としてね」
「あんたって人は……」
夏希は、何かを言いかけて、やめた。あまりの身勝手さと、その身勝手さの奥にある、剥き出しの恐怖と。そのどちらを咎めればいいのか、分からなかったからだ。
「悪い? 私は、自分の身が一番大事なの」
冬美は、コーラの残りを、一息に飲み干した。
「あとのゴタゴタは、進藤や影山や役員共に、なすりつけとけばいいのよ。……あの矢川って子には、ちょっと悪いけどね。ま、あの子なら、なんとかするでしょ。なんとかできなかったら」
冬美は、瓶を置いて、立ち上がった。
「その時は、あの子も『他の施設』に行くだけ」
その一言だけは、道化の声ではなかった。
「さーて! あともう少しで、この地獄の箱庭ともおさらばだ! 荷造りしなきゃ!」
生徒会室で、少女が鼻歌を歌いながらスキップする。
入徳館高校の頂点『生徒会長』が、システムの底を覗いてしまったがゆえに、自らの逃亡のため、学校全体を混乱のるつぼへ叩き落とそうとしている。
誰よりも近くで観測者達を感じてきた少女の、決死の脱出計画。
その巨大な目くらましの渦中に、矢川蓮たちは、何も知らぬまま、投げ込まれようとしていた。




