↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/42

第十六話 悪癖の妙手

 入徳館の空が、白み始めていた。

 まだ冷え込む早朝の旧校舎裏。監査・予算委員会の香田慧は、備え付けの焼却炉の灰を、長いトングで探っていた。

「……香田主任! これ、見てください」

 煤で顔を汚した第三班の部下が、灰の中から、燃え残った厚紙の切れ端と、溶けかけた特殊なプラスチックの破片を見つけ出した。

「ピザボックスの断片と……ドローンの着陸用緩衝材か」

 香田はそれらを拾い上げ、透明な証拠品袋に入れた。

「ビンゴだ。深夜、監視カメラの死角になるこの裏庭にドローンを下ろし、空き箱をこの焼却炉で処分していた。ご丁寧に着火剤まで使って灰にしようとしたみたいだが……『燃えカス』は、どうやってもゼロにはならないな」

 香田は証拠品袋を掲げ、獰猛な笑みを浮かべた。

「これで、あいつらを関税法違反と密輸の容疑で」

「流石ですね、香田先輩。噂に違わぬ、現場の鬼だ」

 背後から響いた、感情の抜け落ちた声。

 香田が素早く振り返ると、そこには漆黒の学ランを隙なく着こなした一年生、矢川蓮が静かに立っていた。手には、温かい缶コーヒーが二つ握られている。

「……矢川蓮。こんな早朝から散歩か? 悪いが、物証は、すでに押さえたぞ」

 香田は、証拠品袋を突きつけた。

「デジタルでいくら偽装しようと、お前たちが食い散らかしたジャンクフードのゴミは、誤魔化せない。密輸による脱税。言い逃れはさせないぞ」

 だが、矢川の顔に、焦りは微塵もなかった。

 矢川はゆっくりと歩み寄り、缶コーヒーを一つ、香田に差し出した。

「お疲れでしょう。昨夜も、誰かサンの尻拭いで徹夜ですか」

「……」

 香田はコーヒーを受け取らず、鋭い視線で矢川を見る。

「交渉のつもりか? くだらん。俺は、影山サンのようなぬるい議論はしない。ルールを破ったなら、粛々とペナルティを科すだけだ」

「ええ。あなたは優秀で、そして真っ当だ。俺も、あなたの仕事には、敬意を表します」

 矢川は、受け取ってもらえなかった缶コーヒーのプルタブを開け、一口飲んだ。

「ですが、香田先輩。あなたのその卓越した能力は、あまりにも非効率な場所で浪費されていると、思いませんか」

「なんだと?」

「一年C組の、森下さん」

 その名前が出た瞬間、香田の表情が、目に見えて硬直した。

 矢川は、いつもの手順を踏んでいた。

 相手の内側にある、最も柔らかい亀裂を探り当て、そこに指を差し込む。それが、この学校で彼が勝ち続けてきた、常勝の方法だ。

「あなたの、大切な恋人だ。……しかし、あなたはここ一ヶ月、彼女とのデートの約束を、三回連続でドタキャンしている。原因はすべて、上層部の失態の火消しと、終わりの見えない監査業務のせいだ」

「てめえ……俺のプライベートを、嗅ぎ回ったのか!」

 香田が胸倉を掴みかかろうとするが、矢川は微動だにしない。

「嗅ぎ回るまでもありません。彼女は先日、うちの柔道場に、相談に来ましたから」

「……なに?」

 香田の手が、止まる。

「彼女は、あなたが激務で倒れるのではないかと、心を痛めていました。そして何より、彼女自身が数学の成績不振でTOKを獲得できず、『F棟』に落ちる恐怖に怯えていた」

 矢川は、スマートフォンを操作し、一つのデータを香田に見せた。

「彼女の数学のスコアを『安全圏』まで引き上げたのは、俺たちの提供したノートです。俺たちのコンサルがなければ、彼女は今頃、負債を抱えて絶望のどん底にいた」

 香田の息が、詰まる。

「俺たちを摘発し、柔道部を潰すのは、簡単だ。……しかし、それは彼女を救ったセーフハウスを壊し、再び彼女をシステムの恐怖に突き落とすことと、同義です」

 矢川は、静かに、相手の喉元に刃を当てた。

「それでも、あなたは『上司の命令』に従って、俺たちを潰しますか?」

 完璧な一手のはずだった。

 情に訴え、恩を着せ、逃げ道を塞ぐ。だが。

「ふざけるな」

 返ってきた香田の声は、震えていなかった。

 彼は証拠品袋を握る手に力を込め、まっすぐに矢川を見据えてきた。

「今、お前は何をした? 俺の女を持ち出して、恩を売り、脅した。……そうだな?」

「……事実を、並べたまでです」

「同じことだ」

 香田は、吐き捨てた。

「その手口はな、矢川。徳務の進藤が、いつも使ってるやり方だ。人の弱みを握って、指一本動かさずに、相手を屈服させる。……お前は、あの男とどこが違う」

 矢川の指先が、缶コーヒーの上で、わずかに止まった。

「勘違いするなよ。俺だって、森下を守りてえさ。あいつが泣くところなんか、死んでも見たくねえ」

 香田の目が、据わる。

「だがな。あいつを盾にして俺を黙らせるってんなら、俺は今この場で、お前と心中する覚悟で証拠を提出する。……それであいつがどん底に落ちたとしても仕方ねえ。そん時はそん時で考えるさ」

 朝の冷えた空気が、二人の間で、張り詰めた。

 矢川は、無言のまま、香田を見ていた。

 計算違いだ。

 この男は、弱みを突けば動く駒ではなかった。守りたいものがあるからこそ、それを人質に取られた瞬間、逆に、一切の取引を拒む。これまで矢川が相手にしてきた、保身や個人の欲望で動く連中とは、行動原理が根本的に違う。

「……失礼しました。この話は、取り下げます」

 矢川は、そう言って、静かに引いた。

 取り下げたのは、それが卑劣だからではない。この相手には、効かないと分かったからだ。

 矢川は、自分がそう考えていることを、正確に自覚していた。そして、香田の問いには、答えなかった。

(……あの男と、どこが違う)

「では、仕事の話をしましょう。……あなたが聞きたいのは、彼女の話ではない」

「……ああ」

 香田は、証拠品袋を、目の高さに掲げた。

「聞かせろ、矢川蓮。お前たちの密輸で浮いたTOKは、どこから来た? この学校の予算は、有限だ。お前たちが関税を払わず、外から物を持ち込んだ分、校内の売店の売り上げは落ちる。売り上げが落ちれば、インフラ予算が削られる。……そのしわ寄せは、必ず、どこかの誰かに行く」

 香田の目に、これまでの敵の誰も持っていなかった光があった。憎悪でも、保身でもない。現場を背負う人間の、重い正しさだ。

「F棟の電気が止まる。水が止まる。お前が目をかけてる連中のインフラが真っ先に死ぬんだ」

 彼は、一歩、詰め寄った。

「それを分かってて、お前は『救済』というのか。……ヒーローごっこで、いい気になってるだけじゃねえのか」

 矢川は、すぐには答えなかった。

 それは、七瀬に「依存を作っていないか」と問われた夜と、同じ種類の沈黙だった。

 だが、この問いには、答えがある。

 矢川は静かに顔を上げた。

「その問いには、あなた自身が集めたデータで、答えられます」

「なに?」

「昨夜、あなたの部署で、誰かが言っていたはずだ。『F棟の連中が急に購買で高カロリー食を買い漁り始めたせいで、食料インフラ予算の需給予測が狂った』と」

 香田の眉が、動いた。

「なぜ、それを」

「怒鳴り声は、廊下まで漏れています。……あれは、異常事態ではない。今まで、水と栄養補助食品だけで飢えていた最下層の生徒たちが、初めて『まともに飯を食えるようになった』という、記録です」

 矢川は、淡々と続けた。

「密輸で浮いた分だけを見れば、あなたの言う通り、校内の売り上げは落ちる。だが、F棟の生徒たちが自力で稼ぎ始めて消費した分は、その減少を上回っている。……ここ数週間の、F棟エリアの購買総額を計算してみてください。あなたの手元にある数字だけで、検算できるはずだ」

「…………」

 香田は、無言で野帳を開いた。血走った目が、自分の手書きの数字を追う。

 柔道場付近エリアの売り上げ、マイナス。だが、F棟エリアの購買総額は先月比で、明確に増加していた。しかも、その増加幅は、柔道場付近の減少分を、はるかに超えている。

 徴税官として、香田はその意味を、一瞬で理解した。

 貧困層が、消費し始めた。それは、校内経済の『総量』そのものが、膨らんだということだ。搾り取れる母数が、増えている。

「……嘘、だろ」

「密輸は、あくまで初期投資の期間を凌ぐための、一時的な措置です。彼らが自力で立ち、稼ぎ、消費するようになれば、俺たちが外から持ち込む必要も、なくなる」

 矢川は、まっすぐに香田を見た。

「インフラを枯らしているのは、俺たちではない。底辺から搾り取るだけ搾り取って、消費する余力を奪ってきた、上層部のやり方の方です。……あなたが命を削って徴税しているその金は、いくら集めても足りない。当たり前だ。痩せ細った土地から、無理やり実を絞り取っているんですから」

 缶コーヒーの湯気が、朝の空気に溶けていく。

「土地を肥やせば、実は、勝手に増える」

 香田は、野帳を持つ手を、下ろした。

 徹夜明けの、充血した目。胃薬の苦味が、まだ舌に残っている。

 いったい俺は、何のために、この激務に耐えてきた。システムの正義のためか。

 違う。インフラを守り、この学校の連中を守るためだ。

 その『正しさ』の使い道を、この一年坊主は、正面から示してみせた。情でも、脅しでもなく。数字で。

「……くそったれが」

 香田は、深い、深いため息を吐き出した。

「一つ、条件がある」

「なんでしょう」

「密輸を見逃す代わりに、お前らの情報網で掴んだ『上位層の脱税と横領の証拠』を、俺に流せ。……誰かサンたちが身内贔屓で見逃してきた、隠し口座のリストだ。あれを一つ摘発すりゃ、お前らから搾り取るTOKの何十倍も、回収できる」

「喜んで」

 矢川の即答に、香田は、自嘲するように笑った。

「勘違いするなよ。俺は、お前を信じたわけじゃない。お前の出した『数字』が、俺を納得させた。それだけだ」

 そして彼は、証拠品袋を、もう一度、掲げてみせた。

「……だが、さっきのアレは、忘れねえからな」

 矢川の目が、わずかに細められる。

「森下を持ち出した、あの手口だ。お前は、あれを引っ込めた。……あれはクセになる」

 見抜かれている。

 矢川は、否定しなかった。

「お前は、きっとまた同じことをやる。今度は、もっとデカい相手に、もっとエグい形でな。……そういう手合いは、この学校で、嫌ってほど見てきた」

 香田は、証拠品袋を、無造作に焼却炉の中へ放り込んだ。

「だから、これは捨てるんじゃねえ。……預けとくんだ」

 彼は、腕章を巻き直した。

「もしお前が、また俺に仕掛けてきたら。その時は、俺が真っ先に、お前を潰す」

「……ご随意に」

「おい! 引き上げるぞ!」

「えっ!? 香田主任、証拠品は……」

「見間違いだ! ただのダンボールの燃えカスだった! 撤収!」

 香田は部下たちを怒鳴りつけると、踵を返して歩き出した。

 すれ違いざま、彼は矢川の手から、まだ開けていない方の缶コーヒーを、乱暴にひったくった。

「……ガセネタだったら、即座にガサ入れに来るからな。覚悟しておけ」

「ご安心を。良きビジネスパートナーとして、最高のデータをお約束します」

 矢川は、小さく頭を下げた。

 

 香田たちの背中が、朝靄の向こうへ消えていく。

 一人残された矢川は、缶コーヒーの残りを飲み干し、その空き缶を、しばらく指先で弄んでいた。

(お前は、あの男とどこが違う)

 耳の奥に、香田の声が残っている。

 どれだけ思考を回しても、その問いだけは、うまく処理できなかった。

 ルールと、人間心理の隙をつく。法を掻い潜り、人の最も柔らかい場所に、躊躇なく指を差し込む。それは間違いなく、進藤蒼一と同じ手口だ。違うのは、それが困っている者の救済になっているかだけ。

(手段は、目的で正当化されるのか)

 答えは、出なかった。

 そして矢川は、もう一つ、正確に理解していた。

 同じ状況になれば。自分はきっと、また同じ手を使う。

 それが、最も速く、最も確実に、結果を出す方法だからだ。今日は、それが通用しない相手が、たまたま一人いた。ただ、それだけのこと。

 矢川は空き缶を握り潰し、無表情のまま、柔道場への道を歩き出した。

 答えの出ない問いを、また一つ、鉄の扉の奥へ、仕舞い込んで。

 こうして、入徳館最強の捜査官(マルサ)は、柔道部の最も頼もしい『共犯者』へと変わった。

 ただし、互いの首に、刃を突きつけ合ったままの。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。