第十五話 社会の歯車
入徳館高校において、全校生徒一〇八〇人のうち、委員会に所属する生徒はわずか一七〇人。
超難関の『校内委員選抜試験』を突破した彼ら『学僚』は、一般生徒から見れば、圧倒的な権力と特権を約束された絶対的な支配者層である。
だが、その実態は、冷酷なシステムと生徒会本部の要求に応え続けるため、絶え間なく摩耗していく、巨大な機械の『歯車』に過ぎない。
監査・予算委員会。そこで「二年ナンバーワンの徴税官」と恐れられる香田慧が、一年C組の森下と出会ったのは、春も終わりかけた、雨上がりの朝だった。
場所は、旧校舎の裏手にある寂れた自販機コーナー。徹夜の査察明けで胃を痛めていた香田が、ブラックコーヒーで胃薬を流し込もうとしていた時のことだ。
「お願いです、返してください……! その五百TOKは、今週の食費なんです!」
「うるせえな。絶対テストに出る『特待生のノートデータ』を買うって言ったのはお前だろ。クーリングオフなんて、この学校にはねえんだよ」
自販機の陰で、気弱そうな一年の女子生徒が、ガラの悪い二年生に詰め寄られていた。典型的な情報商材の押し売りだ。
香田は舌打ちをした。正義感からではない。学校のインフラを回すためのTOKが、あんな下卑た詐欺師の懐で淀むことが、『システム上の損失』だからだ。
「おい、そこのお前」
香田は音もなく歩み寄り、男の肩を掴んだ。
「監査委員会の香田だ。今、非認可の個人間取引で不当な利益を得たな。校則第七十三条違反。口座を凍結し、不当利益の三倍を追徴課税する」
「ま、マルサの香田……!? ち、違う、こいつが勝手に送金してきて」
「寝言は寝てから言え」
射るような視線と、タブレットを操作する容赦のない指先に、男は蒼白になって逃げ去った。
後に残されたのは、震えている一年の女子生徒、森下だけだった。
「……五百TOKは、不当取引の無効処理として口座に戻しておいた。次から騙されるなよ」
それだけ言い捨て、香田は再びコーヒーへ手を伸ばす。
「あ、あの……! 助けていただいて、ありがとうございます……!」
森下が、深く頭を下げた。
「筋違いだ。俺は税の徴収漏れを防いだだけで、お前を助けたわけじゃない」
森下は、香田の顔と、腹を押さえるその手を見て、少し驚いたように言った。
「……先輩、すごく顔色が悪いですよ。胃、痛いんですか?」
香田は、眉をひそめた。
役人気質の学僚たちの中で、彼を心配する者など、一人もいなかった。彼らが見ているのは、香田の『実績』だけだ。
森下はバッグをゴソゴソと漁ると、自販機で買ったばかりの温かい『特製カフェオレ』を差し出した。
「ブラックコーヒーと胃薬を一緒に飲むなんて、お腹壊しますよ。……これ、お礼です。甘いもの、飲んでください」
それは、入徳館という冷酷なシステムの中で、香田が初めて受け取った損得勘定のない、善意だった。
普段なら突き返すところだ。だがその時の香田は、極度の疲労で、どうかしていたのだろう。
「……三十TOKだ。送金する」
「いりませんってば」
森下が、柔らかく笑った。
それがきっかけだった。
以来、香田は査察の合間のわずかな休憩時間に、森下と簡易図書室や中庭で会うようになった。
彼女は平凡で、数学が絶望的に苦手で、この学校の熾烈な競争に、いつも怯えていた。だが、権力闘争と数字の増減しか見てこなかった香田にとって、その「普通の高校生らしさ」は、ある種の救いだった。
『香田先輩、また目の下に隈ができてますよ。無理しないでくださいね』
『お前こそ、次の数学でTOKを取れなきゃ、F棟行きだぞ。……貸してみろ。ここは、この公式を当てはめれば解ける』
不器用な学僚と、普通の女子生徒。いつしか二人は、互いの休日を共にする「恋人」として、認識するようになっていた。
だが、そのささやかな幸福は、入徳館のゴタゴタによって、容赦なく引き裂かれていく。
上司である影山の失態、その火消しと事後処理が、すべて現場の香田たちにのしかかってきたのだ。
影山は、柔道場の査察に失敗して以来、明らかに信を失っていた。本来なら更迭されていておかしくない。だが、あの一年、矢川蓮は、なぜか影山の横流しの件を、公表しなかった。おかげであの男は室長の椅子に留まり、失地回復に焦って、無茶な命令を現場に投げ続けている。
(……あの矢川という男。影山を潰さず、あえて生かした。どういうつもりだ)
その意図を推し量るたび、香田は不快な悪寒を覚えた。
『……悪い、森下。今週末の約束、また行けなくなった。クレームと事務処理で、事務所から出られない』
『ううん、大丈夫ですよ。香田先輩、お仕事頑張ってくださいね。……私も、数学のテスト、一人で頑張ってみますから』
電話越しの森下の声は明るかったが、香田は自分の無力さに吐き気がした。
彼女が競争に怯え、アンダーに落ちる恐怖と戦っているのを知っているのに。無能な上司の尻拭いのせいで、勉強を見てやることすら、できない。
システムの「正義」を守るために、自分が一番守りたいものを犠牲にしている。
その矛盾に、香田慧は、限界まで摩耗していた。
入徳館管理棟上階。監査・予算委員会、査察部オフィス。
深夜三時を回っても、室内にはキーボードを叩く音と、殺伐とした怒声が飛び交っていた。
「第三寮の電気代徴収ログ、まだ合わないのか! 一TOKのズレも許されないと分かってるだろうが!」
「F棟の連中が急に購買で高カロリー食を買い漁り始めたせいで、食料インフラ予算の需給予測が完全に狂ってます! 明日の発注、どう調整しますか!?」
「知るか! どうにかして帳尻を合わせろ! システムの評価が下がれば、俺たちの首が飛ぶんだぞ!」
怒号の中、香田はぬるくなったブラックコーヒーを胃に流し込み、錠剤の胃薬を水も飲まずに噛み砕いた。苦味が舌に広がる。今の彼には、その程度の刺激すら、眠気覚ましにしかならない。
(……エリート気取りの馬鹿どもが。上が無能だと、現場が死ぬんだよ)
生徒会長、二階堂冬美。その下で権力闘争に明け暮れる影山や、徳務委員会の進藤。彼らは「数字」と「システムの美しさ」しか見ていない。スマートコントラクトと政治的駆け引き。小綺麗なゲームで、一般生徒を支配できると本気で信じている。
だが、香田のような現場の人間は知っている。
入徳館のインフラ。食事、電気、水道。それらが明日も当たり前に機能するのは、自分たち査察部が汗にまみれながら、生徒たちから容赦なく税(TOK)を搾り取っているからだ。
誰かが徴収しなければ、F棟の電気が、真っ先に止まる。
「香田主任……」
目の下に濃い隈を作った後輩が、泣きそうな顔でファイルの束を運んできた。
「影山室長から通達です。『柔道部』を無許可の金融機関として認定し、資産を凍結せよ、と。F棟の生徒に融資したTOKも、すべて『不正資金』として回収しろ、との命令です……」
「……また影山サンの尻拭いか」
香田はバインダーから目を離さず、舌打ちをした。
「デジタル上の資産凍結なんぞ、あのハッカーがいる限りイタチごっこだ。しかも、被害を訴えてる生徒が一人もいねえ。……あいつらは、真っ当に商売してやがるんだからな」
それが、この件の一番厄介なところだった。
矢川蓮。ここ最近、学校を根底から揺るがしている一年生。彼のアンダー救済は、一般生徒から見れば美談だろう。実際、香田の目から見ても、あの経済圏は驚くほど健全に回っている。
だが、と香田は思う。
(帳簿はいくらでも辻褄を合わせられる。ハッキングで偽装もできる。……だが、人間が物理的に生活している以上、必ず『質量』の矛盾が生じる)
香田は、自分の足と目で稼いだ「生のデータ」が記された、手書きの野帳を開いた。
「……おい。柔道部員の、ここ一週間の学食でのTOK消費量を出せ」
「え? あ、はい。……極端に落ち込んでいますね。特に、蔵前や工藤といった大柄な生徒の消費量は、基礎代謝を維持できるレベルにありません」
「その通りだ」
香田は立ち上がり、ホワイトボードに三つのデータを書き出した。
一つ、柔道部の食費の異常な低下。
二つ、旧校舎群の『可燃ゴミ』総重量の、不自然な急増。
三つ、柔道場周辺でのみ記録される、微弱な電波障害のログ。
「学食で飯を食っていないのに、部員の運動量と体重が維持されている。旧校舎エリアのゴミの質量だけが増えている。そしてF棟の連中は、夜通し勉強しているのに、それを支えるカフェインも夜食も、学内のどこからも買っていない」
後輩が、ハッと息を呑んだ。
「まさか……外から、物資を……?」
「入徳館のゲートには、法外な関税がかかる。だが、どうにかして正規のルートを通さずに運び込んでいるとしたら? 空き箱やゴミは、旧校舎群の焼却炉で処分すればいい。……これなら、質量の矛盾に、説明がつく」
薄暗い事務室で、香田はニヤリと、肉食獣のような笑みを浮かべた。胃の痛みなど、とうに消え失せている。
矢川蓮は、進藤を脅迫し、それを『外交』とうそぶいた。上位層の政治ゲームには勝ったのだろう。
だが、香田の目は誤魔化せない。
「見つけたぞ、矢川蓮。……どんなに高尚な理屈で着飾ろうと、お前たちがやっていることは、ただの『脱税』だ」
香田は、椅子に掛けてあった監査委員会の腕章を、無造作に腕へ巻いた。
脳裏を、一瞬、森下の顔がよぎる。数学に泣きそうな顔で、それでも一人で頑張ると言った、あの声。
(……お前を守れないまま、俺は、誰の何を守ってるんだろうな)
振り払うように、香田は野帳を小脇に抱えた。
「おい、第三班。徹夜明けで悪いが、二名だけ俺についてこい」
「えっ? 香田主任、どちらへ。資産凍結のシステム構築ですか?」
「いや」
現場の男の目が、ギラついた。
「ゴミ拾い(ガサ入れ)だ。旧校舎群の焼却炉から、糧食の空き箱の燃えカスと、ドローンの着陸痕を採取する。……影山サンのような御上品な言葉遊びはしない。脱税の『物証』だけで、あの柔道部の資産を差し押さえる」
入徳館の、夜明け前。
入徳館の死角を突き続けてきた情報ファンドは、静かに、確実に、包囲されようとしていた。




