第十四話 勝利の方程式
旧理科棟、地下ボイラー室跡。
通信も届かぬ地の底に、そこだけ現代から切り離されたような、アンティーク調の空間があった。紫煙がゆるやかに漂い、飴色のランプが、緑のフェルトを張ったカジノテーブルを照らしている。
その奥で、二階堂夏希は、細く長い煙管を燻らせながら、トランプを弄んでいた。
「あら」
矢川が階段を降りきると、夏希は顔を上げ、口角を吊り上げた。
「合理の怪物さんが、こんな薄暗い場所に、何の用? ……ああ、その顔」
彼女は、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「進藤の組んだ『完璧な罠』の前に、手も足も出なくなった。そういう顔ね。それで私を頼りにきたワケ?」
「話が早くて助かります」
矢川は、悪びれもせず、テーブルの対面に腰を下ろした。
「進藤蒼一を崩す手が、システムの内側には存在しない。……ならば、外側から崩すしかない。あの男の、政治的な弱点を教えていただきたい。夏希先輩の持つ、上層部の情報を、教えてください」
「はっきり言うのねえ。可愛げのないこと」
夏希は煙管の灰を落とし、面白そうに身を乗り出した。
「でも、どうして私が、タダで妹の身内の話をあんたに聞かせなきゃいけないの? ……私は慈善事業家じゃないんだけど」
「対価は払います。何をご所望ですか」
「即答か。……いいわ、なら」
夏希の瞳が、ランプの灯りの奥で、妖しく光った。
「一つ、賭けをしましょう。あんたが今から予測する、進藤の『動機』。それを私が聞いて、的外れなら、あんたは、私の言うことを一つ、何でも聞く。当たっていたら、望みの情報を、タダでくれてやる」
それは、情報を渡す前に、矢川の洞察力を試す遊びだった。
「……面白い」
矢川は、わずかに目を細めた。そして、少しの沈黙の後、口を開く。
「進藤は、あのカンニング事件で、莫大なTOKを不正に蓄財した。……だが、あの男は、金そのものが欲しいわけではない。金を持つことに、興味がある人種には見えなかった」
矢川は、執務室での進藤の所作を思い返す。塵一つない部屋。完璧な制服。人工物のような笑み。あれは、富に溺れる者の姿ではない。もっと違う『何か』を、渇望する者の顔だ。
「あの男が欲しいのは、金で買える『何か』だ。……この学校で、金を積んででも手に入れたいもの。それは、より上位の権力。あるいは、その権力を握る者からの、寵愛」
矢川の視線が、夏希を捉える。
「進藤は、集めたTOKを軍資金にして、自分の派閥を拡大しようとしている。……その狙いは、現在の頂点。二階堂冬美の座、いや、それを凌駕することだ」
夏希の、煙管を持つ手が、ぴたりと止まった。
しばしの沈黙。地下室に、灯りの揺れる音だけが満ちる。
やがて、夏希は、ぱちん、と指を鳴らして、破顔した。
「……あはっ。大当たりよ」
彼女は、心底愉快そうに、身を仰け反らせて笑った。
「そう。進藤は、私の妹、冬美を蹴落として、自分がその椅子に座りたがってる。いえ、正確には違うわね。冬美の、さらに上」
「……さらに、上?」
「そう、……『観測者達』」
以前、この地下で夏希が匂わせた、システムの最深部にいる者たち。
「冬美は、毎月あの連中に、生徒の生体データを供物として捧げてる。そうやって、寵愛を保ってるのよ。……進藤が欲しいのは、それ。冬美を引きずり下ろして、自分が観測者達に気に入られること。そのための、軍資金集め。それがあいつの本当の動機」
矢川の中で、すべての歯車が噛み合った。
「……理解しました。ならば、進藤の弱点は、明白だ」
矢川は、静かに立ち上がった。
「進藤の資金洗浄は、冬美に『無許可』で行われている。つまり、それは、生徒会長への、裏切り行為だ」
「その通り」夏希が、にんまりと頷く。「冬美は、自分のシステムが私物化されるのを、何より嫌う。進藤が裏で不正に蓄財してると知れば、間違いなく、冬美は進藤を切り捨てるでしょうね」
「進藤の首を、取る必要はない」
矢川の目に、冷徹な光が宿った。
「彼に、『自分の首が飛ぶ恐怖』を与えればいい。……冬美にすべてがバレる前に、自らの手で、この件を揉み消させる。水木のSBTを解除させ、没収したTOKを返還させて、なかったことにさせる。それが、あの男に残された、唯一の逃げ道になるように、仕向ける」
「くくっ……」夏希が、恍惚とした表情で肩を震わせた。「証拠もない、権限もない一年坊主が、秘密警察のトップを、自分の意志で服従させるっていうの。……いいわ。最高に、面白い」
「褒め言葉として、受け取っておきます」
「ええ、最上級のね」
夏希は、細い指で、一枚のメモリーカードを弄び、矢川の方へ滑らせた。
「賭けは、あんたの勝ち。約束通り、くれてやる。……進藤の派閥のメンバーの名簿」
矢川は、メモリーカードを手に取り、静かにポケットへ収めた。
「感謝します」
「礼はいらないわ。……ただ、一つだけ」
立ち去ろうとする矢川の背に、夏希の、どこか楽しげな声が投げられた。
「あんた、進藤を追い詰めるのに、疑惑を使うつもりでしょう。証拠じゃなくて、疑いだけで、あの男を動かす。……それ、諸刃の剣よ」
矢川の足が、止まる。
「人を、疑いだけで動かせるような人間はね、いつか自分も、疑いだけで、誰かに支配される。……あんたのそのやり方、進藤とよく似てるもの。せいぜい、闇堕ちしないよう、気をつけることね」
矢川は、振り返らなかった。
「……ご忠告、痛み入ります」
それだけ返し、矢川は地上へと続く階段を、一段ずつ、上っていった。
背に、夏希の含み笑いを聞きながら。
翌日。管理棟、上層階。
矢川蓮は、徳務委員会の執務室のドアを、ノックもせずに開け放った。
「やあ、矢川くん」
進藤蒼一は、優雅に紅茶を飲みながら、微笑んだ。
「昨日の今日で、ついに私の軍門に下る決心が、ついたのかな」
矢川は無言のまま、一枚の『紙』を、デスクに滑らせた。デジタルデータではない、ただのプリントアウトされた文書。そこには『徳務委員による、スマートコントラクトを用いた大規模マネーロンダリングと詐欺の告発。目標は二階堂冬美政権の転覆か?』という大見出しが、躍っていた。
「……なんだい、これは。三流のゴシップかな」
進藤は、鼻で笑った。
「証拠がないことは、昨日、君自身が確認したはずだが」
「ええ。証拠は、どこにもない。ただ、怪しい点は多い。例えば、水木が堕ちて、空いた特待生の枠にあなたの派閥の人間が入ったり、押収したTOKを徳務委員の活動費に組み込んだり……、これを柔道部名義で、五分後、全校生徒の端末に一斉送信します」
「馬鹿な」
進藤は、鼻で笑おうとした。だが、その笑みには、昨日までの余裕が、わずかに欠けていた。
「証拠のないデマを流せば、名誉毀損で処分されるのは、君の方だ。柔道部も廃部。……相討ち覚悟か? 君は、そんな愚かな真似をする男じゃないだろう」
矢川の合理性を逆手に取る、進藤の第一の反撃。
だが。
「相討ち? いいえ」
矢川は、静かに首を振った。
「まるで釣り合っていない。……俺が失うのは、吹けば飛ぶような信用と、寄せ集めの有象無象だけだ。あなたが失うのは派閥、裏金、そして権力。俺は、ここで負けても再起に時間はかからない。あなたは、一度刺し違えれば、それで終わりだ」
「……ぐっ」
進藤は、なおも食い下がった。
「生徒会長が……証拠もない噂で、動くとでも? あの女は、そんな短慮ではない」
第二の反撃。だが、これも、矢川は織り込んでいた。
「ええ。冬美会長は、短慮ではない。だからこそ、『火種』を抱え続ける危険を、誰より嫌う」
矢川は、デスクに両手をつき、進藤の顔を、覗き込んだ。
「彼女にとって重要なのは、あなたの潔白ではない。『疑惑を持たれたあなたを、傍に置いておくリスク』だ。上位存在と有権者の目がある以上、彼女は、汚点の可能性を、一秒でも早く消したい。……証拠の有無は、関係ない。疑惑が生まれた瞬間、あなたは彼女にとって『負債』になる。そして負債は、切り捨てられる」
矢川の声が、氷のように、執務室に響いた。
「それが、あなた方がやっている『ゲームのルール』でしょう?」
自らが信奉するシステムの論理を、そっくりそのまま、返される。
進藤の顔から、急速に、血の気が引いていった。彼の完璧な論理の鎧が、『権力闘争』という盤外からの一撃で、内側から、軋みを上げて崩れていく。
「やめろ……! こんなデマを流せば、学校の秩序が、崩壊する……!」
「ええ。だからこそ俺が、『一緒に隠蔽してやる』と、言っているんです」
矢川は、悪魔的な提案を、突きつけた。
「残り、三分。……今すぐ、あなたの端末から、『特待生共有ウォレットのコントラクトに、システム上の重大なエラーが発見された』と、全校にアナウンスしなさい。水木莉音のSBTを解除し、没収したTOKを、全額返還する。……そうすれば、この告発文は、俺のフォルダで、永遠に眠り続ける」
「私に……自らの手で、エラーを認めろと、言うのか……!」
それは、システムの完璧さを利用してきた進藤にとって、自らの存在意義を、否定するに等しい屈辱だった。
「残り、二分。……生徒会長に、首を刎ねられるか。俺の前で、泥を啜るか。選びなさい」
執務室を、静寂が支配した。進藤の額に、脂汗が滲む。
やがて、進藤はギリッと歯を食いしばり、震える指で、キーボードを叩き始めた。
「……システムエラーによる、SBTの、取り消し……および、資産の、返還処理……完了、だ……ッ!」
絞り出すような声とともに、進藤は、デスクに突っ伏した。
同時刻、柔道場。
水木莉音のスマートウォッチが、無機質な電子音を、鳴らした。
彼女は、俯いていた顔を、恐る恐る上げた。そして、震える指で、画面を確認する。
焼き付いていた、真紅の烙印。それが、消えていた。
二日間、彼女を世界から弾き出し続けた、あの禍々しいマークが。跡形もなく消え、代わりに、返還された残高が、静かに表示されている。ただ、特待生の身分は剥奪されたままだった。
「……消え、てる」
水木の声が、震えた。
「消えた……赤トークが、消えた……ッ!」
「やった! やったね、水木先輩!」
七瀬柚葉が、彼女に駆け寄り、抱きしめる。道場が、歓喜の渦に包まれた。佐竹が信じられないという顔でモニターを凝視し、高嶺が安堵の息を吐く。
だが、水木は、抱きしめられたまま、ぽつりと呟いた。
「……どうして。私、もう、何の役にも、立てないのに。特待生でも、なくなったのに」
その一言に、七瀬は、そっと体を離した。そして、水木の目を、まっすぐに見つめた。
琥珀色の瞳が、彼女の心の、一番深いところに沈んでいた、傷の名前を、静かに、けれど確かに、掬い上げる。
「水木先輩。……ずっと、怖かったんですよね」
「……え」
「役に立たない自分には、価値がない。誰にも必要とされない。……そう思って、ずっと、必死に、頑張ってきた。認められるために、勉強して、代表を引き受けて。困ってる人に『ありがとう』って言われて、やっと、ここにいていいんだって、思えた」
水木の呼吸が、止まった。誰にも言ったことのない、自分でも言葉にできていなかった、その心の形を、正確に言い当てられて。
「だから、あの契約も、疑えなかった。……誰かの役に立てるなら、って。その、まっすぐな優しさに、つけ込まれただけ。先輩は、何も、悪くない」
七瀬は、微笑んだ。
「あのね、水木先輩。……役に立たなくても、いいんですよ」
その言葉が、水木の張り詰め続けていた心の琴線に、触れた。
「役に立つから、じゃない。ただ、あなたがあなたのままで、ここにいていい。……そういう場所も、世界には、あるんです」
進藤が「欠陥品」と嗤い捨てたもの。
それを、七瀬は、両手で、そっと拾い上げた。
「……っ、う、ぁ……ッ」
水木の目から、堪えていたものが、堰を切って溢れ出した。
役に立つ人間でいなければと、張り詰め続けてきた少女は。今、何の役にも立たないまま。ただ、そこにいることを、許されて。子供のように、声を上げて、泣いた。
七瀬は、何も言わず、ただ、その背中を、優しくさすり続けた。
徳務委員会、執務室。
矢川は、システムの処理が完了したことを確認し、告発文のプリントを、静かに回収した。
「賢明な判断です、進藤委員長。……これで、あなたの『潔白』は、守られた」
踵を返す矢川の背に、進藤の、氷のように静かな声が、突き刺さる。
「……いいだろう。今日は、退いてやる」
それは、破れかぶれの捨て台詞ではなかった。次の一手を見据えた、戦略的な撤退の宣言だった。
「だが、覚えておけ、矢川蓮。この借りは、必ず返す。……そのために、貴様のことは、これから徹底的に、調べさせてもらう」
矢川の、ドアにかけた手が、ほんの一瞬だけ、止まった。
「人間には……必ず、消したい『過去』が、あるものだ」
その瞬間、ごく僅かに空気に異質なものが混じった。矢川が『過去』という言葉に反応したのだ。
「……ほう」
進藤の声に、獲物の傷口を見つけた者の、粘つく匂いが、滲む。
「その『過去』を暴いたとき。貴様は、俺の前で、今日の百倍、無様に、膝をつくことになる」
矢川は、振り返らなかった。振り返れば、今の一瞬の硬直が、確信に変わってしまう。
「……楽しみにしていますよ。俺の『過去』とやらに、たどり着けるものなら」
平坦な声でそう返し、矢川は、静かにドアを閉める。
閉じた扉の内側で、進藤蒼一が、唇を歪めて笑っていた。
帰り道。
誰もいない、夕暮れの渡り廊下を、矢川は一人、歩いていた。
水木の依頼は、果たした。烙印は消え、進藤は退いた。側から見れば、完全な勝利だ。
だが、矢川の足取りは、どこか重かった。
疑いだけで、支配する。
夏希の言葉が、耳の奥で反響する。今日、自分が進藤にしたことは、まさにそれだった。証拠のない疑惑を武器に、恐怖で人を意のままに操る。ルールと、人間心理の、隙をつく。それは、彼が最も得意とし、最も多用してきた戦い方だ。
そして、進藤も、そのやり方に長けた男だった。
(……俺は、あの男を、あの男自身の手口で、倒した)
矢川は、窓の外の、茜色に染まる五重の塔を見上げた。
欠陥品と嗤われた水木を、救えたことに、後悔はない。それだけは、確かだ。だが、目的が正しければ、どんな手段でも許されるのか。今日勝てたのは、自分が進藤よりも、少しだけ悪辣だったからではないのか。
ポケットの中で、告発文のプリントが、乾いた音を立てた。二度と使われることのない、脅しの道具。それを握りしめたまま、矢川は、仲間の待つ柔道場への道を、歩いていった。
赤トークの一件から、数日が過ぎた。
柔道場には、久方ぶりの、穏やかな時間が流れていた。
畳の上では、蔵前と工藤が打ち込みをし、その隣で、桐谷たちF棟の生徒が、ノートを広げて問題を解いている。玲奈が誰かに差し入れの菓子を配り、佐竹はいつものようにPC の前で何かを企んでいる。
そして、その輪の隅に、水木莉音の姿があった。
彼女は、まだ少しぎこちない手つきで、後輩の一年生に数学を教えていた。かつて特待生として培った知識は、本物だ。教わる側の生徒が「分かった!」と声を上げるたび、水木は、ほんの少しだけ、泣きそうな顔で笑う。
役に立つから、ここにいるのではない。ただ、ここにいたいから、いる。その違いを、彼女はまだ、覚えている最中なのだろう。不器用に、けれど確かに。
「……居着いたな、あの人も」
高嶺が、コーヒー片手に、矢川の隣へ腰を下ろした。
「烙印が消えても、特待生には戻れない。行く場所がないんだろ。……ま、それを言や、ここにいる連中は、みんなそうか」
「行き場のない人間が、集まる場所。……セーフハウスとしては、正しい在り方だ」
「相変わらず、可愛げのない言い方しやがる」
高嶺は苦笑し、それから、ふと声のトーンを落とした。
「なあ、矢川。七瀬が、前に言ってたことな。……こいつらが、お前なしじゃ生きられなくなったら、それは本当に助けたことになるのか、って」
矢川の指が、タブレットの上で、わずかに止まる。
「あれ、まだ答え出てねえだろ」
「……出ていない」
矢川は、否定しなかった。
「だが、今すぐ出す必要のある問いでもない。……彼らが自立できるようになるまで、支援を継続する。それが、今、俺にできる役目だ」
「役目、ねえ」
高嶺は、それ以上、追及しなかった。ただ、コーヒーを一口飲んで、賑やかな道場を眺める。
穏やかな、束の間の午後だった。
誰もが、この平穏が、しばらく続くと信じていた。




