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第十三話 敗北の宣告

 入徳館高校、管理棟の上層階。


 柔道場の埃っぽい空気とは対極にある、塵一つない空間。そこが、学校の暗部を統べる秘密警察『徳務委員会』の執務室だった。


「わざわざ足を運んでくれて嬉しいよ、矢川蓮くん。紅茶でいいかな?」


 高級なティーカップにダージリンを注ぎながら、柔和な笑みを浮かべる男。徳務委員会のトップ、進藤蒼一だった。アイロンの行き届いた制服、整った顔立ち、一切の淀みのない所作。どこからどう見ても、入徳館の掲げる『徳』を体現したような、完璧な優等生である。


「お構いなく。長居するつもりはありませんので」


 矢川は無表情のまま、レザーソファに腰を下ろした。


「そう警戒しないでほしいな。貧困ビジネスの勢力を、たった数日で更地にした一件、見事だったよ。あの手の連中は、私たちでも扱いに困っていたんだ。……感謝しているくらいさ」


 進藤は対面に座り、優雅に紅茶を口に運んだ。


「で? 今日は私に、何のビジネスを持ち込みに来たんだい」


 矢川はタブレットを操作し、モニターを進藤へ向けた。


「先日、特待生の共有ウォレットで起きた、不正送金事件についてです。……ブロックチェーンのトラフィックを独自に解析した結果、水木莉音のアカウントへ、『外部のシステム権限』から奇妙な干渉が行われた痕跡を見つけました。これを監査予算委員会に渡す前に、徳務委員会に『買い取って』いただきたい」


 それは、明らかなカマかけだった。


 進藤がここで少しでも動揺し、取引に応じる素振りを見せれば、その音声と脈拍の乱れを、証拠として押さえる。矢川のスマートウォッチの隠しマイクと生体スキャナーは、すでに作動していた。


「……なるほど。外部からの干渉、か」


 進藤は顎に手を当て、感心したように頷いた。


「大発見だ。もし本当なら、水木さんの冤罪を晴らす、決定的な証拠になる。……いくらで売ってくれるんだい? 十万TOK? それとも百万かな」


「TOKはいりません。水木莉音のSBTを取り消す『修正申請』を、システムに出していただければ、それで結構です」


「素晴らしい。君は本当に優秀だ。交渉のカードの切り方も、落とし所も、完璧だね」


 進藤は、満足そうに拍手をした。


 罠にハマった、わけではなさそうだな。矢川が、そう感じた次の瞬間。


「だがね、矢川くん」


 進藤は、柔和な笑みを、ピタリと消した。氷のような、感情の抜け落ちた目が、矢川を射抜く。


「録音と、生体スキャンのアプリは、もう切っていいよ。バッテリーの無駄だ」


 矢川は、心中を読まれないように静かに見つめ返した。


(……読まれていたか)


「君が私にカマをかけ、失言を引き出そうとしていることくらい、最初からお見通しだ」


 進藤はティーカップを、ことりと置いた。


「誤解しないでほしい。私は罠を仕掛けたわけでも、彼女をハメたわけでもない。特待生の彼女の学習支援プロジェクトを審査し、正当なスマートコントラクトを承認しただけだ。契約の裏で不正なTOKを受け取っていたのは、彼女自身の仕業だよ。……ブロックチェーンの記録が、何よりの証拠だ。彼女は自らの生体認証でサインし、利益を得た。だから徳の番人たる私たちが、その汚れた利益を没収し、罰を与えた。どこに問題が?」


 詭弁だが、システム上では、進藤の言葉が「百パーセントの真実」だった。彼は最初から矢川の口車に乗るフリをして、その戦術が自分には一切通用しないことを、見せつけていたのだ。


 進藤はゆっくりと立ち上がり、矢川の背後に回った。そして、労るような、ひどく優しい声で耳元に囁く。


「君は賢い。情報処理能力も、交渉力も、この学校でトップクラスだ。……でもね、矢川くん。君のやっていることは、ひどく不毛だ」


 進藤の手が、矢川の肩に置かれる。


「システムから弾き出された有象無象を、底辺でかき集めて、いったい何になる? 泥舟を作って、一緒に沈むつもりかい? ……たとえば、今回の水木莉音」


 その名が、進藤の口から、汚物のように吐き出された。


「確かに勉強はできて献身的かも知れないが、あれは、欠陥品だよ。……ああいう手合いは、扱いやすくて助かる。自分から餌に食いついてくれるんだからね」


 矢川の、膝の上に置かれた指が、ほんのわずかに動いた。


 水木莉音が、二日間かけて抱えてきた絶望。役に立とうとした真面目さを、丸ごと餌にされた痛み。それを、この男は、成果を誇るように、笑って語っている。


「そんな欠陥品も、寄せ集めの柔道部も、切り捨てなさい。そして、私のところへ来い」


 進藤は、矢川の肩に手を置き、甘く、残酷に囁いた。


「徳務委員なら、君に最高の権限と、利益を約束しよう。……君に必要なのは、『人徳』だ。その才能を、正しい場所で使いなさい」


 逆らえば潰す。服従すれば、圧倒的な特権を与える。アメとムチの、完璧な使い分け。


 だが、その重圧の中でも、矢川の呼吸は、静かに凪いだままだった。


「……評価いただき、恐れ入ります」


 矢川は立ち上がり、肩に置かれた手を、払い除けた。


「ですが、お断りします。あなたの提示するリターンは魅力的ですが、俺の『保険屋』としての信用を損なうリスクの方が大きい。……それに」


 ドアノブに手をかけ、矢川は言った。


「俺は、システムに飼いならされた『家畜』には、興味がない」


「……そうか。残念だよ」


 進藤の声から、感情が消えた。


「君も『処分対象』だ、矢川蓮。……入徳館の恐ろしさを、その身で味わうといい」


 執務室を後にする矢川の脳内で、思考が加速していた。


(言葉の罠は通用しない。証拠は、完璧に隠滅されている。相手は、秘密警察のトップ……)


 正面から弾き返された。この一戦、矢川は完敗。カマかけは読まれ、証拠は掴めず、ただ敵に「処分対象」と宣告されただけ。


 だが。


 矢川は、廊下の窓から差す光の中で、足を止めなかった。


(あの男を攻略するには、奴自身が絶対に予測できない、意識の外からの一手をぶつけるしかない……)


 そして、脳裏には、もう一つ。


 「欠陥品」と、笑って吐き捨てられた、水木の顔があった。


(……この仕事、危険過ぎる。合理的には、降りるべきだ)


 それでも、矢川の足は、止まらなかった。理由を、彼は自分に説明しなかった。ただ、次の一手を打つべき相手の顔だけが、明確に浮かんでいた。



 柔道場へ戻った矢川を迎えたのは、重く沈んだ空気だった。


 水木莉音は、道場の隅のパイプ椅子に、身を縮めて座っていた。矢川が進藤のもとへ発ってから、ずっとそうしていたのだろう。膝の上で組まれた指が、白くなるほど固く握られている。


「……どうだった、矢川」


 高嶺が、真っ先に口を開いた。その顔には、期待よりも警戒の色が濃い。相手が秘密警察のトップだと、誰よりも理解しているからだ。


「完敗だ」


 矢川は、感情の乗らない声で、あっさりと言った。


 道場が、しん、と静まる。


「カマかけは、最初から読まれていた。録音も、生体スキャンも、すべて。……あの男は、証拠を完璧に隠滅している。正面から崩すのは、まず無理だ」


「マジかよ……」佐竹が、椅子の背に体を預けた。「あの矢川が、手も足も出なかったってのか」


 水木の肩が、びくりと震えた。俯いた顔から、諦めの色が、ゆっくりと滲み出していく。


「……やっぱり、ですよね」


 掠れた声だった。


「無理を言って、ごめんなさい。相手が、悪すぎました。……私なんかのために、皆さんが処分されるなんて、あってはいけない。この話は、忘れて」


「勘違いしないでください」


 矢川の声が、彼女の言葉を、静かに断ち切った。


「『正面からは』無理だと言っただけだ。降りるとは、一言も言っていない」


 水木が、はっと顔を上げる。


「あの男は、スマートコントラクト上のルールでは無敵だ。ならば、他のルールで崩せばいい。……幸い、進藤には、俺の知らない『弱点』がある気配がある。それを探る当ても、一つある」


「当て……?」高嶺が眉を寄せる。


「一筋縄じゃいかない相手だが、俺は気に入られているからな」


 矢川は、それだけ言うと、水木の方へ視線を向けた。


 「欠陥品」。あの執務室で、進藤が笑って吐き捨てた言葉が、脳裏をよぎる。認められたい一心で餌に食いついた、都合のいい女。


 だが、矢川は、それを口にしなかった。伝える必要はない。水木がその言葉を知れば、彼女の傷が、さらに深く抉られるだけだ。


「水木先輩。あなたは、何も間違っていない」


 代わりに、矢川はそう言った。ひどく無愛想な、けれど断定的な口調で。


「詰めが甘かったのではない。あなたの真面目さに、つけ込んだ相手が、卑劣なだけだ。……それだけは、履き違えないでください」


 水木は、その言葉の意味を、すぐには飲み込めないようだった。ただ、大きく見開かれた目が、じわりと潤んでいく。


 その隣に、七瀬柚葉が、そっと腰を下ろした。


「……水木先輩」


 七瀬は、彼女の固く握られた手に、そっと自分の手を重ねた。


「誰かの役に立たなきゃ……そう思って、ずっと、頑張ってきたんですね」


 水木の呼吸が、止まった。


 琥珀色の瞳が、彼女の絶望の底に沈んでいた、一番柔らかい場所を、優しく照らし出す。それは、水木自身がまだ言葉にできていなかった、傷の名前だった。


 水木の目から、堪えきれず、涙が一粒こぼれた。だが七瀬は、それ以上は踏み込まなかった。ただ、重ねた手に、静かに力を込める。


「何もしなくても。……ここに、いていいんです」


 それは、傷のそばに、静かに寄り添う手だった。


 矢川は、その光景を一瞥すると、無言で学ランを羽織った。


「どこ行くんだよ、矢川」高嶺が問う。


「少し、大人の『政治』を勉強してくる」


「政治ぃ?」


「蔵前先輩。留守の間、道場の守りを頼みます。……進藤は、俺を『処分対象』と明言した。ここへ、手を出してくる可能性もある」


 蔵前が、無言で首を鳴らして頷いた。


 矢川は、道場の引き戸に手をかけ、一度だけ、水木の方を振り返った。彼女は、七瀬に寄り添われながら、まだ静かに涙を流している。


「必ず、消します。その烙印を」


 その一言を残し、矢川は、通信圏外の地下へと続く道を、一人、歩き出した。


 魔女の待つ、薄暗い賭場を目指して。

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