第十二話 正直特待生の真っ赤な十字架
最近、入徳館高校の裏掲示板やオープンチャットでは、ある一つの噂が爆発的に拡散していた。
「貧困ビジネスのシノギをぶんどった奴らがいる」
「元野球部エースの工藤が、負債を帳消しにされて『柔道部』に匿われているらしい」
「システムに見捨てられたら、校舎の果てにある柔道場へ行け」
放課後の柔道場。
畳の上では、巨漢の蔵前と、新入部員の工藤大介が、汗だくで腕立て伏せの回数を競い合っていた。
「九十八、九十九……ひゃくッ! 工藤、ブランクがあっても流石の体幹だな!」
「ハァ、ハァ……! まだだ! まだ終わっていない……ッ!」
すっかり体育会系のノリが充満した道場の隅で、矢川蓮は一人、PCのモニターに映るトークの取引ログを、冷めた目で監視していた。
そんな矢川の背中に、温かい缶コーヒーが押し当てられた。
「お疲れ様、矢川くん。なにを見てるの?」
七瀬柚葉だ。その琥珀色の瞳が、気遣うように矢川を覗き込んでいる。
「……普通によこせ。デカい取り引きがないか見ていただけだ」
矢川が缶コーヒーを受け取り、小さく息を吐いた、その時だった。
道場の重い引き戸が、ガラガラと、ひどく控えめな音を立てて開いた。
「あの……」
入り口に立っていたのは、一人の女子生徒だった。
肩まで伸びた髪は手入れされておらず、制服はひどく汚れ、皺だらけになっている。だが、その乱れた身なりの奥に、かつては几帳面だったであろう名残があった。ブレザーのボタンは律儀に一番上まで留められ、ひどく汚れてなお、彼女はそれを直そうと、無意識に襟元を撫でている。
そして何より、その瞳には、かつての工藤以上に深い『絶望』が淀んでいた。
「……お客さん、かな?」
高嶺悠真がスマホから目を離し、立ち上がる。
「あなたはたしか……二年の、水木莉音先輩? 去年は学年トップテンに入っていた、特待生……」
「……もう、特待生じゃ、ありません」
水木は震える声でそう言うと、自らのスマートウォッチを操作し、ステータス画面を提示した。
通常、そこに表示されるのは残高やクラスだ。だが、浮かび上がったのは、禍々しい、真紅のマークだった。
その色を見た瞬間、道場の空気が、ぴりっと張り詰めた。
「……うわ。マジかよ」
真っ先に反応したのは、PCの陰にいた佐竹だった。忌々しげに顔をしかめている。
「なんだよ佐竹、その顔。何だ、それ」
「『赤トーク』だ、高嶺」佐竹は舌打ちした。「いわゆるSBT。……譲渡も、削除も、絶対にできねえトークンだよ」
「削除できない?」七瀬が首を傾げる。「TOKって、使えば減るものじゃないの……?」
「普通のTOKはな。だが、こいつは違う。アカウントに一生こびりついて、二度と剥がれねえ。……一言で言やあ、消えない前科(デジタルの烙印)だ。全生徒の中でも、押された奴は数えるほどしかいねえ」
その言葉の意味を、水木自身が、掠れた声で引き継いだ。
「これを押されると……推薦枠も、個室の自習室も、外出許可も、全部、なくなります。他の生徒と、TOKの取引をすることすら、許されない」
彼女は、自嘲するように、唇を歪めた。
「私は、システムから、完全に弾き出されたんです。……二日前まで、特待生だった私が」
「ちょっと待ってください」
情報通の高嶺が、眉をひそめた。
「水木先輩って、この前摘発された……テストの解答データを下級生に売り捌いた、『大規模カンニングの主犯』じゃ……」
「違います!」
水木が、悲痛な叫びを上げた。それまでの弱々しさが嘘のような、必死の声だった。
「私は……解答データなんて、売ってない……!」
張り詰めた沈黙。誰も、口を挟めなかった。
「……順を追って、話してもらえますか」
矢川が、初めて口を開いた。平坦な、しかし静かに促す声だった。
水木は、こくりと頷き、震える手を握りしめた。
「私は、特待生の代表として……『下級生への学習支援プロジェクト』の予算を任されていました。困ってる後輩に、教材を配るための……共有ウォレット(口座)を」
「……ちゃんとした、いい仕事じゃないですか」高嶺が言う。
「はい。だから、嬉しかったんです。私が、誰かの役に、立てるって」
そう言った瞬間、水木の顔に、ほんの一瞬だけ、痛みに似た色がよぎった。七瀬だけが、それを静かに見つめていた。
「……その口座に、ある日、『徳務委員』のトップの人が、契約の承認を求めてきたんです。支援金と教材を、自動で配るためのプログラムだって。私は……疑いもせず、自分の生体認証(KYC)で、サインしました」
「徳務委員……だと?」
高嶺の顔色が、変わった。
「表の『生活保安委員会』じゃない。生徒会長直属の、暗部を牛耳る秘密警察……あの連中が、絡んでたのか」
「……なるほど。読めてきたぜ」
佐竹が、モニターにトラフィック図を呼び出し、指を差した。
「その事件の真犯人、徳務のトップは、解答データを売って稼いだ大量の汚いTOKを、水木先輩の共有ウォレットに流し込んだ。正規の予算と混ぜて資金洗浄し、監査が踏み込む前日に、全額が先輩の『個人口座』へ自動送金されるよう、時限式のコードを仕込んでたんだ」
「その通りです……」水木が、拳を握りしめる。「監査委員が踏み込んだ時、私の口座には、巨額の不正TOKが。……私が騙されたって訴えても、システムには、『私が自分の生体認証で承認して、私が利益を得た』っていう履歴しか、残っていなくて……!」
「典型的な、悪意あるスマートコントラクトだな」
矢川が、平坦な声で応じた。
「入徳館のセキュリティが強固で、ハッキングが難しいからこそ、あなたの生体認証は『真実』としてシステムに刻まれる。ブロックチェーンは、嘘をつかない。……だからこそ、その前提を逆手に取った嘘は、誰にも覆せない」
「じゃあ、その口座のTOKは、今どうなってるんだ?」佐竹が訝しむ。「SBTを押されたなら、口座は凍結されたはずだろ」
「……没収、されました」
水木の声が、震えた。
「『不正に得た利益』として、徳務委員会の権限で、全額。……彼らの管理する、特別活動費の口座へ」
「はっ、なるほどな!」
高嶺が、呆れたように天井を仰いだ。
「カンニングで荒稼ぎした汚いTOKを、水木先輩の口座を経由させて『洗浄』した。そんで最後は、秘密警察の権限で、綺麗になったそのTOKを『合法的に没収』して、自分たちの裏金にしたってわけだ。……特待生の枠まで空けさせて自分の派閥の人間を入れれば、一石二鳥かよ」
「『徳の番人』を名乗りながら、やっていることは、完璧なマッチポンプだな」
矢川は、冷めた声で総括した。
道場が、シンと静まり返る。
やがて、水木が、ゆっくりと顔を上げた。その目には、涙よりも先に、すがるような光があった。
「噂を、聞きました。あなたたちが、工藤くんを、再起させたって。F棟のみんなを救ったって。……お願いします。私の、この赤トークを、消してください……!」
工藤の時は、カウンセリングと、隠されたデータの奪還で解決できた。だが、水木の依頼は、次元が違う。
「……無理だね」
佐竹が、残酷な事実を突きつけた。
「位置情報を偽装するのとは、訳が違う。SBTは、入徳館のブロックチェーンの『根幹』に、深く刻み込まれてる。これを消すってのは、学校のシステムそのものを、根底から書き換えるってことだ。……俺の技術でも、不可能だ」
「そんな……」
水木は、その場に崩れ落ち、両手で顔を覆った。
「じゃあ、私は、卒業まで……ううん、卒業しても、この罪を背負って、生きていかなきゃいけないの……?」
その嗚咽は、単に罰を恐れる声ではなかった。
「私……ちゃんと、やってきたのに。真面目に、ルールを守って、役に立とうとして……なのに、どうして、私だけが……」
役に立とうとして。
その言葉に、七瀬柚葉が、たまらず駆け寄り、震える背中をそっとさすった。彼女の共感力が、水木の絶望の奥に沈む、もっと深い傷の在り処を、静かに探り当てていた。
「……矢川くん」
七瀬が、祈るような目で振り返る。
「なんとか、ならないかな……?」
「佐竹が、不可能だと言っている」
矢川は、無表情のまま、スマートウォッチの画面をスクロールした。
「論理的に考えて、この依頼はリスクに対するリターンが崩壊している。……システムの中枢に直接手を出せば、学校全体だけでなく、その裏にいる連中まで、本気で俺たちを潰しにくる」
「でも! このままじゃ、先輩は……!」
「七瀬。俺たちは、慈善事業をやっているわけではない」
冷たい言葉に、道場の空気が凍りつく。
しかし、矢川の思考は、別の一点を、静かに回っていた。
(徳務委員は、なぜ、ここまでのことをしてTOKを集めている? ……この事件の裏には、もっと大きな何かがある)
矢川は、ゆっくりと立ち上がった。そして、崩れ落ちる水木を、静かに見下ろす。
「佐竹。ブロックチェーンを直接書き換えるのが無理なら、システムに『このSBTは誤認だった』と、正規の手続きで認めさせることは、可能か」
「……正規の、承認? まさかお前」佐竹が目を見開く。「徳務委員会のトップ本人に、自分の罪を、認めさせる気か!?」
「そうだ。奪うのではない。委員長自身の手で、システムに『修正』を申請させる」
「できるわけねえだろ! 相手は、この完璧な罠を仕組んだ、秘密警察のトップだぞ!」
「できる。……人間の『恐怖と欲望』という、最大の脆弱性を突けばな」
矢川は、崩れ落ちたままの水木の前に、片膝をついた。目線を、合わせるように。
「依頼を引き受けましょう、水木先輩。……俺が、あなたの烙印を消します。報酬は取れるとこからいただきます」
水木は、涙に濡れた目で、その冷たい、けれど、確かに自分を見ている瞳を、見上げていた。




