第十一話 勉学と労働
桐谷駆の『奇跡の赤点回避』の噂は、システムに見捨てられたF棟の生徒たちの間に、乾いた草を焼く炎のような勢いで広がった。
それから数日。放課後の柔道場には、桐谷の紹介を受けた数名のアンダー層の生徒たちが、藁にもすがる思いで足を運ぶようになっていた。彼らは情報ファンドと『一〇%の配当契約』を結び、高嶺のアナログ・データベースと七瀬のメンタルケアを受け、安全な環境で猛勉強を始めている。
だが、底辺の生徒たちが「勉強」に時間を割き始めたことで、学校の暗部で一つの『不都合』が生じていた。
その日の夕暮れ。柔道場の重い引き戸が、蹴り破られるような乱暴な音を立てて開いた。
「……おい。最近ウチの『家畜』どもがサボってると思ったら、こんなカビ臭い場所で油を売ってたのか」
入り口に立っていたのは、制服を着崩し、暴力の匂いを漂わせる三年生、柴田だった。背後には、ヘラヘラと笑うガラの悪い取り巻きが五、六人。
勉強していた桐谷たちが、その顔を見た瞬間、悲鳴のような息を呑んで震え出した。
「し、柴田先輩……ッ!」
「よう、桐谷。お前、昨日の便所清掃をブッチしたよな? おかげで俺の懐に入るはずの仲介料がパーだ」
柴田は、学校が最下層向けに発注する肉体労働、通称『物理マイニング』を仕切る、不良グループの元締めだった。報酬の大半を仲介料としてピンハネし、汗を流すアンダーの生徒には十分の一以下しか渡さない。逆らえば暴力と兵糧攻めで従わせる、貧困ビジネスの寄生虫だ。
「あ、あの……俺はもう、先輩の斡旋は受けません……! 自分で勉強して、テストで稼ぐって決めたんです……!」
「はっ! F棟のゴミが勉強だと? 調子に乗ってんじゃねえぞ!」
柴田が土足のまま道場へ上がり込もうとした、その一歩目で、動きが止まった。
「土足厳禁だ。文字も読めないのか」
部屋の隅。タブレットから視線を上げず、矢川蓮が冷たく言い放つ。だが柴田を止めたのは、その声ではない。彼の目の前に、蔵前と工藤が、静かに立ちはだかっていたからだ。
「……害虫駆除といくか?」
蔵前が首を鳴らす。取り巻きたちが気色ばんだ。
だが。
「大丈夫です」
矢川の声は、あくまで平坦だった。
「蔵前先輩。手を出す必要はない。……柴田先輩。あなたが今、この道場にあとすこしでも入れば、それはあなたの最後になる」
「あァ?」
矢川がタブレットを操作すると、柴田のグループが裏で回していた不当な仲介料の送金記録が、電子黒板に投影された。
「な、なんで俺の裏ウォレットの記録が……!」
「佐竹の能力を舐めるな。……そして、これを見ろ」
画面が切り替わる。そこにあったのは、学校のシステム上で正式に承認された『学内業務請負契約書』だった。
「昨日、俺たちの情報ファンドは、環境委員会と管理AIに対し、『既存グループより二〇%高い作業効率と、適正な報酬分配』を約束する事業計画を提出し、正式に物理マイニングの『元請け』の権利を勝ち取った。……今日から、校内の肉体労働はすべて、俺たちの管轄だ」
「な……なんだと!?」
「今のあなたは、無許可で他人の事業所に土足で踏み込んだ、ただの不法侵入者にすぎない。ここで暴力を振るえば、俺は正当防衛の記録と、あなたの搾取の証拠を、まとめて監査委員会へ提出する。……あなたの学校生活は終わる」
柴田の顔が、みるみる青ざめていく。拳を振り上げることすら、封じられていた。振り上げた瞬間に破産する。それを、この一年は、憮然と突きつけてきた。
「く……くそっ……覚えてろよ……ッ!」
まともに捨て台詞も吐けず、柴田は取り巻きを引き連れ、逃げるように道場を去った。実力行使をする前に、労働市場の支配権だけが、静かに移った。
「……すげえ」桐谷が、呆然と呟いた。「殴り合いにすら、ならなかった……」
矢川は再びタブレットに目を落とす。「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり。というだろう」
だが、追い詰められた寄生虫は、正面から来るとは限らない。
数日後。F棟の淀んだ空気に、奇妙な『濁り』が混じり始めた。
「おい、聞いたか。あの柔道部、タダでコンサルしてるのは、裏で俺たちの生体データを上位層に売り飛ばすためらしいぞ」
「借金を帳消しにするって言って、最後は『人体実験』のリストに載せられるって噂だぜ……」
薄暗い廊下で、言葉の毒が撒かれていた。柴田をねじ伏せられたことで力押しを諦めた寄生虫たちが、搦め手に切り替えたのだ。
極限状態の人間は、希望よりも絶望を信じやすい。一度は道場へ通おうとしたアンダーの生徒たちが、疑心暗鬼に駆られ、再びF棟の暗がりへ引きこもり始めた。
「ふざけんな! 矢川くんたちが、そんなことするわけないだろ!」
桐谷が必死に声を上げても、恐怖に支配された耳には届かない。情報ファンドの『信用』は、内側から静かに腐り始めていた。
同日、放課後の柔道場。
「……マズいな。昨日からF棟の新規アクセスがピタリと止まってる」佐竹がモニターを睨む。「掲示板の裏で、ウチのデマがBotで大量生成されてやがる。発信元が巧妙に偽装されてて、消しきれねえ」
「私たちがお客さんを売り飛ばしてる、なんて……ひどいよ」七瀬が眉を下げた。
「柴田のバックが動いたな。力で勝てないから、搦手を使ってきた」高嶺が腕を組む。
そんな中、道場の引き戸が、控えめに開いた。
「あ、あの……」
怯えた子犬のように肩を縮めた、小柄な二年生が立っていた。
「た、助けてください……俺、郷田って高利貸しに騙されて、明日までに五万TOK返さないと、三年のカンニングの身代わりに自首させられるんです……!」
「五万!? そんなの一日で返せる額じゃ……」七瀬が駆け寄ろうとする。
「待て、七瀬」
矢川が制した。パイプ椅子に座ったまま、その二年生を静かに観察している。
(……震えは激しい。だが、妙だ。助けを求める人間は、まず縋る相手の顔を見る。この男は、俺と目が合うたびに、視線を逸らす。恐れているのは背後の高利貸しではない。今から俺を騙すという、その行為だ)
矢川の中で、結論が出る。
(……スパイか)
「名前は」
「み、三島です。二年の……」
「そうか。あなたの状況は理解した、三島先輩。……歓迎しよう」
高嶺と佐竹がギョッと振り返る。だが矢川は、あえてその手を握った。
「立て替えはしない。だが、自力で稼げるようコンサルし、郷田との交渉は俺が引き受ける。……それでいいですね、三島先輩」
「は、はい……! ありがとうございます……ッ!」
深く頭を下げる三島。だが、畳へ向けたその顔が、安堵ではなく罪悪感に歪んでいるのを、矢川は見逃さなかった。
その夜、九時半。門限ギリギリ。
無人の暗い道場に、あらかじめ開けられた窓から、影が忍び込んだ。三島だ。郷田から『借金帳消し』を条件に、情報ファンドの要である過去問データベースと顧客名簿を盗み出すよう命じられていた。
(……悪い、矢川。みんな。あんなタコ部屋の借金地獄には、戻りたくないんだ……!)
心中で詫びながら、彼は佐竹のPCに、郷田から渡された黒いUSBを挿す。なぜかPCはスリープのまま、パスワードも求められなかった。
(ラッキーだ。これなら数分で……)
『顧客名簿』のフォルダを、USBへコピーする。プログレスバーが伸びる。九〇%、一〇〇%。
(よし、完了だ)
「……随分と手際がいいな。累犯か?」
蛍光灯が一斉に点る。パイプ椅子に深く腰掛けた矢川。その後ろに、蔵前、高嶺、佐竹。
「ひっ……! な、なんで……」
「あなたのバイタルは、ここへ来た瞬間から『私は嘘をついています』と叫んでいた。……だが、郷田があなたのような素人を駒に送り込んだのは、好都合だった」
「こ、好都合……?」
「そのUSBの中身だ」佐竹が舌を出す。「本物の名簿を、そんな分かりやすい場所に置くかよ。お前がコピーしたのは、俺の特製トロイの木馬。お前がそれを郷田の端末に挿した瞬間、奴の隠し口座の構造が、全部こっちに筒抜けになる」
三島は、自分が郷田を裏切る運び屋に仕立てられていたと悟り、震え出した。
「許してくれ……! 俺はただ、脅されて……っ!」
「あなたの身の安全は、俺が保証する」矢川はUSBを取り上げた。「だが、もう一つ仕事をしてもらう。……あなたを脅した連中に、アンダーの怒りを、骨の髄まで分からせるための仕事だ」
翌日夕方。旧視聴覚室。
遮光カーテンの薄闇で、高利貸しの郷田、情報商材屋の鮫島由美、労働斡旋の柴田が顔を揃えていた。三勢力は、共通の敵を潰すため、醜い同盟を結んでいた。
「よくやった、三島。これで借金は帳消しだ」
郷田は、差し出された黒いUSBをひったくり、ノートPCへ乱暴に挿す。
「ヒャハハ! これで奴らの商売道具は俺たちの……」
『顧客データ』のフォルダを、ダブルクリックした瞬間。
ピィィィィィィッ!!
警告音。画面が毒々しい真紅に染まる。
「なっ……なんだこりゃ!?」
「……随分と軽率な。出自の分からない外部メモリを、仮想環境も通さず直挿しとは。自分たち以外は全員、善男善女だと思っているのか?」
ドアが開く。逆光を背負う、矢川。後ろに蔵前、工藤、佐竹。
「お前たちが三島先輩を駒として送り込んだ。おかげで、彼という物理的なトロイの木馬を経由して、お前のPCを内側から破れた」
「て、てめえ、最初からハメて……!」
佐竹がタブレットを操作すると、郷田のPCに、隠し口座のトラフィック図が展開された。
「郷田。お前がF棟から巻き上げた裏金を隠した三つのダミーウォレット。そのパスワードは、さっきウイルスを開いた瞬間、全部こっちに転送されたぜ」
「なんだと……ッ!?」
「ふざけんな、俺の金だ!」
逆上した郷田が、隠し持った金属バットで殴りかかる。だが振り下ろすより早く、工藤の前蹴りが腹に突き刺さった。
「ぐはっ……!?」
「遅えよ、借金取り」
郷田が床を転がる。蔵前が柴田と鮫島を壁際へ制圧した。
「暴力、情報操作、弱者の搾取。……極限状態の人間を脅せば、絶対に裏切らないと思ったか。人間が最も恐れるのは、お前らのような寄生虫じゃない。『明日への希望を絶たれること』だ」
矢川がスマートウォッチをタップする。ピロン、ピロン、と送金完了音が連続する。
「お前たちがF棟から搾取したTOKを、本来の持ち主へ全額返還した。……同時に、お前たちの撒いたデマも、これで消える。言葉の毒など、圧倒的な事実の前では無力だ」
今頃、F棟の生徒たちの端末には、突然のTOK返還通知が届いているはずだった。デマではなく、口座に戻る数字。それが、揺らいだ信頼を上書きする。
「あ……あああ……俺のシノギが……」
資金を失い制圧された寄生虫たちは、床に這いつくばった。
「悪党としても三流だったな」
矢川は一瞥もくれず、背を向けた。
柔道場に戻ると、ついてきた三島が、泣きそうな顔で頭を下げた。
「矢川くん……! 本当に、すみませんでした……!」
「気にしないでください。結果的に奴らを葬れた。約束通り、借金は消えた。明日から、逃げずに来てください」
「……はいっ!!」
その姿を見て、七瀬が、矢川の隣に立った。
「やっぱり、矢川くんは優しいね」
「……俺は、最も合理的な回収を行っただけだ」
矢川は、少しだけ視線を逸らす。
「……レンレン、照れてるー」
「うるさいぞ、吉海」
道場が、笑いに包まれる。だが、その輪から少し離れて、七瀬だけは、まだ矢川を見上げていた。
「……ねえ、矢川くん。一つだけ、いい?」
「なんだ」
「桐谷くんも、三島先輩も、F棟のみんなも。今、すごく幸せそう。矢川くんに、救われたって顔をしてる」
七瀬の声は、いつもの柔らかさのままだった。だが、その琥珀色の瞳の奥には、優しさとは別の、静かな問いが灯っていた。
「でもね。……もし、あの人たちが、矢川くんなしでは生きられなくなったら。それは、本当に、助けたことになるのかな」
矢川の、タブレットをめくる指が、止まった。
「柴田先輩に怯えていた子たちが、今度は矢川くんを、神様みたいに崇め始めてる。……搾取が、なくなったのは、本当に良かった。でも、依存は、なくなってない。ただ、向ける相手が、変わっただけ」
「…………」
矢川は、答えなかった。
それは、彼が最も得意とする合理の計算式の、どこにも項目のない問いだった。効率、流動性、投資対効果――そのどれで測っても、七瀬の言葉には、返す言葉が見つからない。
「……ごめんね。せっかく、うまくいったのに」
七瀬は、ふわりと微笑んで、話を切り上げた。
「でも、矢川くんなら、いつか、その答えも見つける気がするの。……なんとなく」
彼女が仲間の輪へ戻っていく背中を、矢川は無言で見送った。
そして、少し離れたソファから、その一部始終を、高嶺が見ていた。
(……七瀬の言う通りだ)
高嶺は、缶コーヒーを傾けながら、腹の底で考える。搾取者を叩き潰し、労働市場を握り、経済を握り、情報網を握り、そしてF棟の連中の心まで握った。数週間で、ここまで。
(搾取する奴を倒して……その空いた椅子に、こいつが座っただけ、とも言えるよな)
柴田や郷田が力で底辺を支配していたのを、矢川は理屈で塗り替えた。より優しく、より効率的に。だが、底辺の生徒たちが誰かの掌の上にいる構造そのものは、何ひとつ変わっていない。
(……お前は、何を作ろうとしてるんだ、矢川)
権力にも、富にも、こいつは興味がない。進藤の甘い籠絡すら、鼻で笑って蹴った男だ。なのに、こうして黙々と、アンダーという地盤を築いていく。まるで、いつか来る『何か』のために、兵と、糧と、砦を、静かに構築するみたいに。
その『何か』の正体を、高嶺は、まだ知らない。知らないまま、隣を歩くと決めた。だが、知らずに眺めているには、この疑念は大きくなりすぎていた。
高嶺は、小さく息を吐き、缶コーヒーを飲み干した。
その夜。矢川は一人、無人の柔道場に残っていた。
窓の外に、五重の塔の無機質な影がそびえている。その奥。学校のネットワークの、さらに底。冬美が毎月データを供物として捧げる、名も知れぬ『観測者達』。
(……七瀬。お前の問いは、正しい)
矢川は、暗い天井を見上げた。
依存を作っているという指摘は、当たっている。だが、と、彼は思う。巨大な『観測者達』に、たった一人で立ち向かえる人間など、いない。システムに管理され、バラバラに孤立させられた個では、あの怪物には指一本触れられない。
だから、束ねる。搾取から解放し、糧を与え、繋げる。それは善意であると同時に、自分館を観察している連中を引きずり下ろすための、方法でもあった。
救済と、布石。そのどちらが本当の目的なのか、矢川自身にも、判然としなかった。
(……いつか、その答えも見つける、か)
七瀬の声が、耳の奥で、静かに反響していた。




