第十話 情報ファンドの仕事
入徳館高校、第4学生寮通称『F棟』。
矢川達の居住する棟の隣に位置するそのオンボロの建物は、上位層の生徒たちから『タコ部屋』あるいは『アンダー(最下層)の収容所』と蔑まれていた。
深夜二時。
八人部屋の二段ベッドの上段で、一年生の桐谷駆は、毛布を頭から被り、ひび割れた支給品のタブレットを必死にスワイプしていた。
季節は春だが、夜はまだ冷える。中央管理されている空調は、最低限の温度にしか設定されておらず、それも十二時を過ぎると切れるので吐く息が白い。
「……くそっ、なんでここで……!」
桐谷は、充血した目で画面を睨みつけ、音を立てないように毛布の中で悪態をついた。
明後日は、単位に関わる重要な現代文と数学の統合テストだ。ここで赤点を取れば、TOKが得られず、『負債』を抱えることになる。
しかし、タブレットに表示された数学の応用問題の解説を開こうとした瞬間、無情なポップアップが画面を覆い尽くした。
『この先はプレミアム学習コンテンツです。アクセスするには、五〇TOKが必要です』
『現在のあなたの残高:三TOK』
「……またかよ」
桐谷は力なくタブレットを布団に放り投げた。
入徳館高校は、建前上「全生徒に平等な教育」を謳っている。だが、無料で受けられる授業は型落ちAIによる無機質な講義だけで、テストに出るような応用問題や、成績を上げるための良質なデータベースへのアクセスは、すべて高額な『ペイウォール(課金の壁)』の向こう側にある。
成績が悪いからTOKが稼げない。TOKがないから勉強ができない。そしてまた成績が落ちる。
完璧に設計された、弱者を搾取するための無限ループだ。
「おい、駆。まだ起きてるのか」
下段のベッドから、同室の友人が声を殺して囁いた。
「……悪い、タブレットの光が漏れてたか?」
「いや。ただ……お前、明後日のテストやばいんだろ。もしこれで残高がマイナスに張り付いたら、お前も『卒業後』のブラックリスト入りだぞ」
その言葉に、桐谷は背筋に氷を当てられたような悪寒を感じた。
入徳館高校は『進学・就職率一〇〇%』を誇っている。しかし、話はそんなに上手くはない。
底辺で負債を抱えたまま卒業、退学したアンダーの生徒たちは、そのデジタル上の負債を『学生ローン』として背負わされ、裏のスポンサーである『観測者達』の関連企業や実験施設へ送り込まれる。
過酷な労働環境の現場。あるいは、新薬や未知のシステムの『被験者』。
一度アンダーに落ちれば、一生システムに管理された奴隷として搾取され続けるのだ。
「……分かってるよ。でも、どうしようもないだろ。課金しなきゃ、テストの傾向すら分からないんだから」
絶望に染まる桐谷に、友人は暗闇の中で一枚の『手書きのメモ』を差し出した。
「……なんだよ、これ」
「便所清掃(物理マイニング)をしてた時に、上級生が話してるのを盗み聞きしたんだ」
友人の声には、すがるような熱がこもっていた。
「校舎の果てにある『柔道場』に行け。あそこには、システムの裏をかく『天才ハッカー』と、どんな負債も帳消しにする『保険屋』がいる。……アンダーの生徒にタダで勉強を教えてくれて、しかもTOKの稼ぎ方までコンサルしてくれるらしい」
「タダで……? 嘘だろ。この学校で、そんな慈善事業みたいな……」
「信じるしかないだろ! 俺たちはもう、後がないんだから!」
翌日の放課後。
桐谷駆は、震える足で校舎の廊下を歩いていた。
数学の予備テストは案の定、無料の基礎授業からは一問も出なかった。白紙に近い答案を提出した桐谷の端末には、すでに『成績不振による警告』の通知が届いている。
基本的に成績が悪くてTOKが没収されることはないが、息をしているだけでTOKがかかる入徳館では、新たにTOKを獲得できないだけで、ダメージが蓄積されていく。
夕日に照らされた、薄暗い廊下の突き当たり。
立て付けの悪い、古い引き戸の前に立つ。
(……天才ハッカーと、負債を消す保険屋。絶対、ヤバい組織だ。下手をすれば、ここで臓器でも売られるんじゃないか……?)
ゴクリと唾を飲み込み、桐谷は意を決して、引き戸に手をかけた。
ガラッ!
「た、頼む! 俺を助けてくれ……ッ!」
目を瞑り、大声で叫びながら道場に飛び込んだ桐谷。
彼がそこで見たのは、血の匂いのする裏社会のアジトではなく、ひどく間の抜けた光景だった。
「九百九十八! 九百九十九! せんッ!!」
「しゃああっ! 俺の勝ちだ工藤!」
道場の中央で、巨漢の男(蔵前)と鋭い目つきの男(工藤)が、汗だくでスクワットの回数を競い合って倒れ込んでいる。
「あーあ、二人とも汗臭い! ナナちゃん、空気清浄機の電源入れて!」
「うん、れーちゃん、ちょっと待ってねー」
ソファでは派手な美少女(玲奈)がポテトチップスを食べ、琥珀色の瞳をした癒し系の少女(柚葉)が、お茶を淹れている。
「……え?」
桐谷はポカンと口を開けた。冥界のようなF棟の環境とは正反対の、あまりにも温かく、そして騒がしい『日常』がそこにあった。
「……新規の客か」
その弛緩した空気の中で唯一、異質な存在。
部屋の隅のパイプ椅子に座り、タブレットを携えた一人の男子生徒だけが、感情の一切抜け落ちた冷たい目で、桐谷を見据えていた。
「……えっと、あの、桐谷と言います」
「……目の下の隈と制服のヨレ具合から見て、F棟の生徒だな」
矢川蓮は、淡々と桐谷を分析した。
「学習への課金を越えられず、明日の負債確定に怯えてここへ来た。……違うか?」
「な、なんでそれを……!?」
「システムがそう設計されているからだ。お前個人の怠惰ではなく、アルゴリズムの必然だ」
矢川はタブレットを閉じ、立ち上がった。
「ようこそ、『情報ファンド』へ。……お前の脳にこびりついたシステムの呪い(絶望)を、俺の論理で書き換えてやる」
底辺で喘ぐ一人の少年が、学校で最も冷然で、優しい異端の巣窟へと足を踏み入れた瞬間だった。
矢川の「呪いを書き換える」という突拍子ないが、力強い宣言に、桐谷駆はポカンと口を開けたまま立ち尽くしていた。
「……呪いを、書き換える?あんたたち、明日のテストの解答データをハッキングで盗んでくれるのか……?」
「違う」
矢川は即座に切り捨てた。
「学校のメインサーバーへの直接攻撃はリスクが高すぎる上、不正で得た点数は長期的な『お前の価値(知能資本)』には繋がらない。……俺たちが提供するのは、完全な合法プロセスによる成績の最適化だ」
矢川が声を掛けると、ソファでくつろいでいた高嶺悠真が、一冊の古びた『キャンパスノート』を桐谷の胸に押し付けた。
「ほらよ。ここの情報部(俺と玲奈)が、過去三年分の統合テストの傾向と、今回の出題担当教師の『癖』をまとめたノートだ」
「なっ……なんだこの古ぼけたノート」
桐谷はその手垢に塗れたノートを見て驚いた。
「学校が50TOKで売りつけているプレミアム学習コンテンツの中身は、AIが生成した汎用的な問題集の寄せ集めに過ぎない」
矢川は無表情のまま、残酷な事実を口にした。
「そんなものを徹夜で解いても、明日のテストの点数には直結しない。システムは、お前たちからTOKを搾取し、睡眠不足でパフォーマンスを落とさせるためにあの課金壁を用意しているんだ」
「嘘、だろ……? じゃあ、みんな騙されて……」
「そうだ。だが、そのノートには明日のテストに出る可能性が85%を超える『三つの公式』と『現代文の解釈パターン』だけが絞り込まれている。これを三時間だけ反復演練しろ。それだけで赤点は確実に回避できる」
桐谷は震える手でノートを開いた。
たしかに、要点だけが恐ろしく分かりやすくまとめられている。これなら、底辺の自分でも理解できるかもしれない。……だが。
「……む、無理だ……」
ノートの文字が、視界の中でぐにゃりと歪んだ。
冷や汗が吹き出し、呼吸が浅くなる。頭の中では「赤点」「負債」「強制移送」という言葉が渦巻き、文字を脳が処理してくれない。
「ダメだ……頭に入ってこない……! 俺なんかが今更やったって、どうせ明日には頭が真っ白になって……!」
パニックを起こし、過呼吸気味に座り込む桐谷。
矢川は、その様子を冷静に観察していた。
(……極度のストレスと自己肯定感の欠如により、前頭葉のワーキングメモリがシャットダウンしている。この状態では、いかに優れた情報を与えても処理できない)
それは、物理的な暴力よりもタチが悪い、システムが最下層の生徒に植え付けた『学習性無力感』という名の毒だった。
「……矢川くん、あとは私がやるね」
七瀬柚葉が、温かいカモミールティーの入ったマグカップを両手で持ち、桐谷の目の前にそっとしゃがみ込んだ。
「桐谷くん、だよね。はい、これ飲んで」
「……でも、勉強、しなきゃ……」
「いいから。まずは深呼吸」
七瀬の琥珀色の瞳が、桐谷の怯えた目を真っ直ぐに捉えた。その声には、不思議なほどの安心感と、静かな強制力があった。
桐谷は促されるままにカップを受け取り、温かいお茶を一口飲んだ。香草の匂いが、強張っていた胃の腑をゆっくりとほどいていく。
「F棟の夜は、すごく寒くて、暗いんだよね」
七瀬は、桐谷の痛みに寄り添うように優しく語りかけた。
「周りのみんなも絶望していて、取り残されていくみたいで、すごく怖かったよね。……もう大丈夫。ここは学校のシステムが届かない『安全圏』だよ。誰もあなたを見捨てないし、誰もあなたから奪わない」
その言葉が、桐谷の心の最も柔らかい部分に浸透していく。
「……俺、本当は……ちゃんと勉強、したかったのに……」
ポロポロと、桐谷の目から涙がこぼれ落ちた。
七瀬は何も言わず、ただ微笑んで頷いた。
(……副交感神経が優位に働き、脳の報酬系が再起動している)
矢川は、七瀬による見事な『精神のチューニング』を確認すると、佐竹に目配せをした。
「おい、佐竹」
「分かってるって。もう済んだ」
PCに向かっていた佐竹が、エンターキーを軽く叩く。
ピロン、と桐谷のスマートウォッチが鳴った。
「え……?」
「お前の現在の位置情報を、学校のネットワーク上で『第二グランドをランニングしている』ように偽装しておいた。匿名のプライバシー保護だ」
佐竹はニヤリと笑った。
「お前がここにいることは、柔道部以外の連中に絶対にバレない。安心してここで勉強に集中しろ」
情報、匿名の安全、そして心のケア。
入徳館という冷酷なシステムの中で、桐谷が喉から手が出るほど欲しかったものが、この小さな柔道場にはすべて揃っていた。
「……あんたたち、なんでここまでしてくれるんだ?」
涙を拭い、ノートを握り直した桐谷が問う。
「ボランティアじゃない」
矢川は、テーブルの上に一枚のデジタル契約書を表示したタブレットを置いた。
「これは『取引』だ。俺たちはお前の知的資本と精神資本を回復させる。その対価として、お前が明日以降のテストで赤点を回避し、システムから得る月々の報酬のうち『10%』を、三ヶ月間ファンドに配当として納めてもらう」
それは、貧困ビジネスのような搾取ではない。桐谷が自らの力で稼いだ利益の一部をシェアする、極めて真っ当な『コンサルティング契約』だった。
「……払う。絶対に、払ってみせる……!」
桐谷は迷うことなく、モニターに映し出された署名欄に名前を書き、承認をタップをした。
「契約成立だ。……蔵前先輩、工藤。彼が集中できるよう、外で体力錬成してきてくれ」
「おう!」
「気合入れろよ、桐谷!俺も底辺から這い上がったんだ、お前にもできる!」
工藤が、かつての自分と桐谷を重ね合わせるように、熱い声援を送る。
桐谷は力強く頷き、ノートに向かって猛然と鉛筆を走らせ始めた。
翌日。
放課後の学内掲示板の前で、桐谷駆は自分の目を疑っていた。
「……嘘だろ」
現代文と数学の統合テスト。
桐谷の順位は、学年三六〇人中、百二十六位。
赤点回避どころか、堂々たる中間層へのランクアップだった。高嶺の集めた「三つの公式」と「現代文のパターン」が、恐ろしいほどの精度で的中したのだ。
ピロン。
スマートウォッチに通知が入る。
『成績向上ボーナス:一五〇〇TOKが付与されました』
「千五百……!」
昨日まで残高が「3」だった桐谷にとって、それは奇跡のような数字だった。
これで、今夜は冷たい栄養補助食品ではなく、学食で温かいシチューが食べられる。来月になれば、さらに良い環境へのアクセス権も買えるかもしれない。
(……俺は、やれる。あの柔道部がいれば、俺はこの学校で……生き残れる!)
桐谷は、胸の奥底から湧き上がる全能感と、矢川蓮という存在への『信仰心』に近い感情を自覚していた。
同じ頃、柔道場。
「おいおい、桐谷の奴、いきなり一二〇位台に食い込んだぞ。うちの情報とナナちゃんのケアがあったとはいえ、あいつ自身、元々地頭は悪くなかったんだな」
高嶺がタブレットの成績表を見ながら、嬉しそうに口笛を吹く。
「これで今月のリターンは確実に入ってくる。優良な投資案件だったな」
矢川はタブレットで、情報ファンドの総資産グラフが微増したのを確認し、コーヒーを飲んだ。
「レンレンってば、またそんな冷たい言い方してー。本当は桐谷くんが這い上がれて嬉しいくせに」
玲奈がからかうように笑うが、矢川は表情を崩さない。
「……桐谷だけではない。彼のような『アンダー』でくすぶっている原石は、この学校にまだ100人程いる。彼らを適切にコンサルし、我々のファンドの傘下に組み込めば……」
矢川の冷徹な瞳が、入徳館のシステムの中枢を見据えるように細められた。
「生徒会や委員会の影響を受けない、土台を、俺たちが掌握できる」
それは、静かな変革が始まる合図だった。




