「昔の資料」
共有フォルダというのは、会社の歴史そのものだ。
誰が作ったのか分からないExcel。
更新されなくなった手順書。
“最新版”が六個並んでいる設計書。
積み重なったファイルの中には、ちゃんと過去の人間がいる。
◆
「宗形さん」
午後三時過ぎ。
隣から芦屋が声をかけてくる。
「このフォルダ見てたんですけど」
「はい」
「ファイル多すぎません?」
「諦めてください」
宗形は即答した。
「この案件、“歴史”長いんで」
「歴史って言い方するとちょっと格好いいですね」
「実態は地層です」
芦屋が少し笑う。
最近、こういう軽い会話が自然になってきていた。
気を遣わないわけではない。
ただ、“何を話せばいいか分からない”感じは減ってきている。
「で、この設計書なんですけど」
芦屋がモニターをこちらへ向ける。
「これ、宗形さん作りました?」
宗形は画面を見る。
数秒止まった。
「あー……」
それは三年前の設計資料だった。
新人時代、自分が担当したバッチ処理の改修案件。
ファイル名の末尾には、自分の名前が残っている。
「懐かしいな……」
「やっぱりそうなんですね」
芦屋は画面をスクロールする。
「これ、かなり丁寧ですね」
「……そうですか?」
「コメントも多いし、運用想定までちゃんと書いてあります」
宗形は少しだけ視線を逸らした。
自分でも忘れていた。
昔はこんな資料を書いていたらしい。
◆
「新人の頃って、無駄に頑張るんですよ」
宗形は苦笑しながら言う。
「無駄に?」
「“ちゃんとやらなきゃ”って思ってたんで」
「いいことじゃないですか」
「いやー……」
宗形は椅子へ少し体重を預ける。
「当時は、設計書とかめちゃくちゃ読み込んでましたね」
「へえ」
「業務知識も必死に覚えて。
休憩中もずっと画面見てました」
今思えば、肩に力が入りすぎていた。
失敗したくなかった。
認められたかった。
“できる側”に行きたかった。
そういう時期が、確かにあった。
「でも、いつの間にか分かるんですよね」
宗形はモニターを見たまま続ける。
「頑張っても、どうにもならないこと結構あるなって」
仕様変更。
無茶なスケジュール。
意味の分からない炎上。
誰か一人が頑張ったところで、綺麗には回らない。
社会人三年目ともなると、それなりに覚えてしまう。
「だから最近は、ほどほどが一番かなって」
宗形はそう言って笑った。
自嘲に近い笑い方だった。
◆
芦屋は少しだけ黙っていた。
それから、宗形の設計資料をもう一度見る。
「でも」
「はい?」
「私は、こういうの結構好きですけどね」
宗形は目を瞬かせた。
「読みやすいですし」
芦屋は画面を指差す。
「“後から見る人”のこと考えて書いてる感じします」
「……そんな大したものじゃ」
「そういうの、意外とできる人少ないですよ」
さらりと言う。
持ち上げるような言い方ではなかった。
ただ、本当にそう思ったから口にした、みたいな声だった。
宗形は返事に少し詰まる。
昔の自分を褒められるのは、なんとなく落ち着かなかった。
◆
その時だった。
「懐かしい資料ですね」
後ろから落ち着いた声がした。
宗形は軽く肩を跳ねさせる。
振り返ると、大参課長が立っていた。
「あ……」
「その案件、宗形くんの初案件でしたよね」
「よく覚えてますね……」
「レビューしたので」
大参は静かな口調で言う。
「当時の宗形くん、かなり細かかったですから」
「……すみません」
反射的に謝る。
すると大参は少しだけ不思議そうな顔をした。
「なぜ謝るんです?」
「いや……」
「私は良かったと思っていますよ」
宗形は少し黙った。
大参は画面へ視線を向ける。
「今見ても、ちゃんと整理されています。
少なくとも、“考えて作っていた資料”です」
その言葉は静かだった。
静かなのに、妙に残る。
「宗形くんは昔から、“後で困る人”を減らそうとする癖がありますね」
大参はそう言って、小さく笑った。
「それは案外、簡単なことではありません」
宗形は何も返せなかった。
新人の頃。
ただ必死だっただけだ。
認められたくて。
置いていかれたくなくて。
そんな風に働いていたことを、自分ではもう少し忘れかけていた。
◆
大参が去ったあと、フロアにはまたキーボードの音が戻る。
宗形はしばらく昔の資料を眺めていた。
画面の中には、少し青臭い自分が残っている。
丁寧すぎるコメント。
無駄に細かい補足。
未来の誰かを想定した注意書き。
今なら、多分ここまで書かない。
効率が悪いからだ。
でも。
宗形はふと、自分の指先を見る。
キーボードに置かれたままの手は、三年前と変わっていないはずなのに。
どこか少しだけ、遠く感じた。
オフィスの蛍光灯が、白く静かに光っている。
春はまだ曇っていた。
けれどその曇り空の向こう側を、昔の自分がぼんやり立って見ている気がした。




