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平凡リーマンは無難を欲す  作者: 猫枕で寝たい。


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「定時で帰れると思っていた」

 社会人になると、“帰れる空気”というものが分かるようになる。


 今日はいけそうだな、とか。

 あ、これ無理だな、とか。


 宗形 恒一は、時計を見なくても大体察せるようになっていた。


 金曜、十八時十分。


 今のところ大きな障害連絡なし。

 客先チャットも静か。

 課長も会議中。


 これは帰れる。


 宗形は密かにそう判断していた。


     ◆


「宗形さん」


 隣から芦屋が声をかけてくる。


「今日、ちょっと平和ですね」


「ですね」


「金曜っていつもこんな感じですか?」


「いや」


 宗形は即答した。


「むしろ金曜夕方って、一番嫌な時間です」


「なんでです?」


「“今週中にお願いします”が飛んでくるので」


「あー……」


 芦屋が納得したように頷く。


「ありますね、それ」


「しかも大体、十七時以降に来ます」


「社会の悪習だ」


「本当に」


 二人して苦笑する。


 こういう何気ない愚痴が自然に共有できるようになってきたあたり、芦屋もだいぶ部署に馴染んできていた。


 最初の頃より質問も具体的になったし、社内チャットのノリにも少し慣れてきている。


 宗形としても、教育係としての気疲れは減っていた。


 ……減ったというより、普通に隣で仕事をすることに慣れてきた、の方が近いかもしれない。


     ◆


 十八時二十七分。


 嫌な予感というのは、大抵当たる。


 宗形のTeams通知が赤く光った。


『至急確認お願いできますでしょうか』


 客先チャットだった。


 宗形は一瞬だけ目を閉じる。


 来た。


「宗形さん?」


「……障害っぽいです」


「うわ」


 内容を確認する。


 CSV出力結果が一部おかしい。

 今日リリースした修正部分だった。


「すみません、少し確認します」


「手伝えることあります?」


 宗形は少し迷う。


 本来ならまだ、ここまで巻き込む段階ではない。


 だが。


「……ログ確認だけお願いしてもいいですか」


「はい」


 返事が早い。


 宗形は軽く頷いて、自分も調査へ入った。


     ◆


 オフィスの空気が少し変わる。


 帰宅準備をしていた社員たちが、ちらりとこちらを見る。


 障害対応特有の空気だった。


 静かなのに、落ち着かない。


「……あれ」


 宗形はログを追いながら眉を寄せる。


 処理自体は正常終了している。

 なのに出力結果だけズレている。


「宗形さん」


 芦屋がモニターを見たまま声をかける。


「これ、データ側じゃなくてExcel側かもしれません」


「Excel?」


「ゼロ埋め落ちてません?」


 宗形はファイルを開き直す。


 数秒後。


「あ……」


 本当だった。


 CSV側は正常。

 開いたExcel側で表示が変わっていただけだ。


「……マジか」


 思わず息が漏れる。


 障害ではない。


 ただの表示問題。


 けれど、こういうのが一番厄介だったりする。


 説明が面倒だからだ。


「前職でもありました?」


「ありました。

 Excel、時々敵になります」


「分かる……」


 宗形は額を軽く押さえた。


 その時。


「状況どうですか」


 後ろから落ち着いた声がした。


 大参課長だった。


 宗形は椅子を回す。


「あ、原因分かりました。

 CSV自体は正常で、Excel表示側の問題です」


「なるほど」


 大参は宗形の画面を見る。


 数秒だけ確認して、それから小さく頷いた。


「でしたら、“障害ではない”ではなく、“仕様上の表示差異”として説明した方がいいですね」


「あ……はい」


「“障害ではありません”だけだと、相手によっては突き放された印象になりますので」


 宗形は少し黙る。


 そういう言い回しまで考えたことはなかった。


 だが確かに、大参の言う通りだった。


「あと」


 大参は続ける。


「芦屋さん」


「はい」


「気づくの早かったですね」


「あ、ありがとうございます」


「Excel周りは地味ですが、実際かなり多いので。

 経験値として覚えておくと役立ちますよ」


 相変わらず落ち着いた声だった。


 押しつけがましくない。

 けれどちゃんと届く話し方をする。


     ◆


 二十分後。


 客先への説明も終わり、フロアの空気がようやく落ち着く。


 時計は十九時を回っていた。


「……帰れると思ったんだけどなあ」


 宗形がぼそっと呟く。


 芦屋が少し笑った。


「社会人ですねえ」


「嫌な言葉だ」


「でも、ちょっと分かってきました」


 PCを閉じながら芦屋が続ける。


「この会社、“誰か一人が頑張って回してる”感じじゃないですね」


 宗形は少しだけ目を瞬かせる。


「どういう意味です?」


「もちろん忙しいんですけど、

 ちゃんと周り見てる人がいるというか」


 宗形は何となく、大参課長の背中を思い出した。


 静かで、怖くて、全部見えている人。


 ああいう人間がいるから、現場はギリギリ崩れないのかもしれない。


 窓の外は、すっかり夜だった。


 オフィスの蛍光灯だけが、変わらず白く光っている。


 宗形は冷めたコーヒーを飲みながら、静かに息を吐いた。


 定時で帰れると思っていた金曜日は、結局いつもの金曜日になった。

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