「全部見えている」
宗形 恒一が今の部署に配属されて、最初に先輩から教わったことがある。
――大参課長には、先に報告しておけ。
それだった。
別に怒鳴る人ではない。
机を叩くこともないし、感情で人を動かすタイプでもない。
むしろ静かな人だ。
声を荒げているところなんて、宗形はほとんど見たことがない。
それなのに怖い。
理由は単純だった。
あの人は、全部見えている。
◆
「宗形くん」
低く落ち着いた声が背後から聞こえた瞬間、宗形の肩がわずかに強張る。
振り返ると、大参課長が立っていた。
五十前後。
細身のスーツを崩さず着こなし、姿勢も綺麗だ。
年齢相応の皺はあるが、不思議と疲れた印象がない。
むしろ静かな余裕がある。
宗形は毎回思う。
この人、若い頃かなり格好良かったんだろうな、と。
「例のCSV改修ですが、レビューを確認しました」
「あ、はい」
「nullチェックを追加した判断は良かったと思います」
「ありがとうございます」
宗形は少し驚く。
大参課長は滅多に褒めない。
というより、必要以上のことを口にしない人だった。
「ただ」
来た。
「例外処理の部分は、少し甘さがありましたね」
「……すみません」
「いえ、責めているわけではありません」
大参は穏やかな声のまま続ける。
「ただ最近の宗形くん、少し処理を急ぎすぎる傾向があります。
そこは気をつけた方がいいでしょう」
静かな口調だった。
怒っているわけではない。
なのに妙に刺さる。
宗形は小さく「はい」と返した。
大参はそのまま宗形のモニターを数秒眺める。
その視線が苦手だった。
見透かされている感じがする。
「それから芦屋さん」
「はい」
今度は隣へ視線が向く。
「先ほどの定例ですが、説明が分かりやすかったです」
「あ、ありがとうございます」
「相手がどの段階で理解できていないか、整理しながら話せていましたので」
芦屋は少し意外そうな顔をしていた。
大参から直接そういう言葉が来るとは思っていなかったのだろう。
「この部署、説明不足のまま話が進んでしまうことが多いので。
あれは大事なことです」
それだけ言うと、大参は静かに去っていった。
歩く時まで妙に落ち着いている人だった。
◆
「……怖いですね」
大参が見えなくなったあと、芦屋が小声で言う。
宗形は少し笑った。
「ですよね」
「怒ってないのに緊張するタイプだ……」
「全部見えてるんですよ、あの人」
「分かる気がします……」
芦屋がコーヒーを飲みながら息を吐く。
「でも、ちゃんと見てくれてる感じありますね」
その言葉に、宗形は少しだけ黙った。
“見てくれている”。
そういう風に考えたことは、あまりなかった。
宗形にとって大参課長は、“怖い上司”だった。
レビューは鋭いし、曖昧な説明もすぐ見抜かれる。
変に誤魔化そうとすると、一瞬で整理される。
新人の頃、一度だけ進捗報告をごまかしかけたことがある。
その時、大参は静かにこう言った。
『遅れているのであれば、それは構いません。
ただ、分からないまま進めるのはやめてください』
怒鳴られたわけじゃない。
けれど宗形は、その日ずっと胃が痛かった。
◆
夕方。
フロアにはキーボードの音だけが残っていた。
宗形はログを追いながら、小さく眉を寄せる。
「……件数合わないな」
「何かありました?」
芦屋が画面を覗き込む。
「データ件数がズレてて」
「あ、本当だ」
二人でログを見返す。
しばらくして。
「あー……これかも」
芦屋が画面を指差した。
「旧バッチ側で二重登録してません?」
「……あ」
宗形はログを追い直す。
本当だった。
「よく気づきましたね」
「前職で似たようなのありました」
「嫌な経験値だ」
「本当にそうです」
二人して苦笑する。
その時だった。
「その内容、明日の定例で使用するのであれば、資料として残しておいてください」
いつの間にか後ろに大参が立っていた。
宗形は軽く肩を跳ねさせる。
相変わらず足音がしない。
「あと宗形くん」
「はい」
「今の件ですが、芦屋さんが気づいたことは分かる形で記録しておいてください」
「……はい」
「気づいた人間が適切に評価されないチームは、長く続きませんので」
大参はそれだけ言って、また静かに歩いていく。
宗形はしばらく黙っていた。
芦屋も少し驚いたような顔をしている。
「……なんか」
芦屋がぽつりと言う。
「思ってたより優しい人ですね」
「優しい、ですかね……」
「少なくとも、“ちゃんと見てない人”ではないですよね」
宗形は返事をしなかった。
モニターへ視線を戻す。
チャット通知。
未読メール。
修正依頼。
相変わらず仕事は減らない。
けれど。
大参課長みたいな人がいるから、この現場はどうにか回っているのかもしれない。
宗形はそんなことをぼんやり考えながら、再びキーボードへ手を置いた。
蛍光灯の白い光は、今日も静かなオフィスを照らしていた。




