「最新版_fix2」
四月も後半に入ると、“新人がいる風景”は少しずつ日常へ溶けていく。
最初の挨拶も。
歓迎会の予定調整も。
「もう慣れました?」なんて会話も。
一週間もすれば、会社は何事もなかったみたいに回り始める。
宗形 恒一は、その感覚が少し苦手だった。
人が増えても減っても、組織は普通に動いていく。
それが会社というものだと理解していても、ときどき妙に乾いた気分になる。
◆
「宗形さん、これレビューお願いしてもいいですか?」
午前十時。
芦屋からチャットが飛んでくる。
最近では、口頭よりチャットの方が増えていた。
最初は隣の席からでも律儀に声をかけていた彼女も、少しずつこの会社の空気に馴染み始めている。
宗形は送られてきたソースを開いた。
CSV出力処理の改修。
細かい修正だが、意外と影響範囲が広いやつだ。
「……あ」
宗形は小さく声を漏らした。
コードが読みやすい。
変数名も揃っているし、処理の区切り方も綺麗だった。
経験者採用だから当然と言えば当然だが、それでも“仕事の癖”には個人差が出る。
その点、芦屋のコードはかなり整理されていた。
『問題なさそうです。
一点だけ、null時の分岐追加した方がいいかもです』
チャットを返す。
数秒後。
『ほんとだ。ありがとうございます』
返信が来る。
無駄がない。
けれど冷たくもない。
宗形はモニターを見ながら、ぼんやり思う。
この人、多分ちゃんと仕事できる人なんだろうな。
派手さはない。
だが、変な不安がない。
社会人になると、それがどれだけ貴重か分かってくる。
◆
午後。
定例前の準備で、フロアの空気が少し慌ただしくなる。
客先資料。
進捗確認。
レビュー依頼。
誰かのチャット通知音が絶え間なく鳴っていた。
「宗形くん、例の件どうなった?」
課長が後ろから声をかけてくる。
「あ、確認中です。今日中には」
「頼むわ。先方ちょっとピリついてるから」
それだけ言って去っていく。
宗形は小さく息を吐いた。
“ちょっとピリついてる”。
社会人用語だ。
大抵の場合、“まあまあ怒ってる”を意味する。
「大丈夫ですか?」
隣から芦屋が聞いてくる。
「まあ、いつものです」
「いつものなんですね……」
「燃えてないだけマシです」
「基準が怖いなあ」
芦屋が苦笑する。
宗形も少しだけ笑った。
実際、この業界はそんなものだった。
大きく炎上しなければ、まだ平和な部類だ。
◆
夕方。
会議室では客先定例が始まっていた。
宗形はノートPCを操作しながら、画面共有を切り替える。
進捗説明。
課題一覧。
確認事項。
毎週繰り返される定例作業。
変わり映えはしない。
けれど今日は、少しだけ違った。
『こちらのCSV不具合ですが、原因は特定済みですか?』
客先担当が尋ねる。
一瞬、空気が止まる。
宗形は説明を整理しようとして――その前に、芦屋が静かに口を開いた。
「現在、調査結果を整理中です。
既存処理側の仕様差異が原因と見ていますが、再発防止含めて明日共有予定です」
落ち着いた説明だった。
断定しすぎず、逃げてもいない。
客先も「承知しました」と頷く。
宗形は少しだけ感心する。
“話し方がうまい”。
それも営業的な上手さではなく、“相手を無駄に不安にさせない”話し方だった。
案外、それができる人は少ない。
◆
会議後。
「助かりました」
資料を閉じながら宗形が言う。
「いえ、私も状況分かってたので」
「いや、説明綺麗でした」
芦屋は少しだけきょとんとした顔をした。
「そうですか?」
「ちゃんと整理されてました」
「あー……前職で結構怒られてたので」
「怒られて?」
「“エンジニアの説明は長い”って」
宗形は思わず笑った。
「それは確かに」
「なので、“結論先に言え”を叩き込まれました」
「社会ですねえ……」
二人して小さく笑う。
窓の外は、もう薄暗かった。
春の夕方は中途半端だ。
暖かいのか寒いのかも分からない。
けれど最近、宗形は少しだけ思う。
会社へ行くこと自体は、前ほど嫌じゃなくなっているかもしれない、と。
もちろん劇的な変化ではない。
相変わらず朝は眠いし、チャット通知は多い。
仕様変更も減らない。
それでも。
“話しやすい人が隣にいる”。
ただそれだけで、仕事の息苦しさは少し変わる。
宗形はコーヒーを飲みながら、ぼんやりモニターを眺めた。
画面には、例のファイル名が映っている。
『最新版_fix2_final』
「……finalじゃないじゃん」
思わず漏れた声に、隣で芦屋が吹き出した。
オフィスの蛍光灯は、今日も変わらず白かった。




