「質問しやすい人」
中途入社の初週というのは、案外やることが少ない。
いや、正確には“仕事以前の作業”が多い。
アカウント申請。
権限付与。
VPN設定。
チャットツールへの招待。
会社というのは、働く前の準備だけで妙に時間がかかる。
「……すみません、また止まりました」
芦屋 雅が少し困ったように画面を見つめる。
宗形は椅子を寄せた。
「あー……証明書ですね、多分」
「証明書」
「うち、そこ結構面倒なんですよ」
宗形はキーボードを操作しながら説明する。
「VPN繋ぐ前に社内CA入れないと怒られるんで」
「なるほど……。会社ごとに違いますね」
「前職はどうだったんですか?」
「もっと雑でした」
「雑」
「“繋がればOK”みたいな」
宗形は少し笑った。
その“なんとなく分かる感じ”が妙にリアルだった。
◆
昼前。
総務から貸与備品の説明を受けたあと、宗形は芦屋を連れてフロアを歩いていた。
「ここが会議室ですね。小会議室は予約取りづらいです」
「もうどこの会社も同じですね」
「あと給湯室はあっちです」
「コーヒーあります?」
「ありますけど薄いです」
「致命的ですね」
そんな取り留めのない会話をしながら歩く。
宗形は少し不思議だった。
“教育係”というものは、もっと気を遣うものだと思っていた。
だが芦屋とは、変に力が入らない。
会話のたびに、“正解”を探さなくていい感じがあった。
「宗形さんって、わりと話しやすいですね」
歩きながら芦屋が言う。
「そうですか?」
「はい。ちゃんと質問しやすいです」
宗形は曖昧に笑った。
質問しやすい。
それは多分、“断定しないから”だろう。
宗形は自分に自信がない。
だから強く言い切れない。
けれどそれが結果的に、“話しかけやすさ”になっているのかもしれなかった。
◆
午後。
芦屋は社内Wikiを読み込みながら、時折メモを取っていた。
その姿を見て、宗形は少しだけ感心する。
意外と、読まない人は多いのだ。
「後で聞けばいい」と考える人間もいる。
だが芦屋はまず自分で確認する。
その上で、必要なところだけ質問してくる。
それが地味にありがたかった。
「宗形さん」
「はい」
「この略語、多すぎません?」
「あー……」
画面には社内用語が並んでいる。
“統合基盤WG”
“次期連携PF”
“共通IF”
「何の略か誰も覚えてないやつありますよ」
「怖いですね、その文化」
「長くいると慣れます」
「慣れたくないなあ」
宗形は少し吹き出した。
こんな風に、会社の“よくないところ”を軽く笑い飛ばせる人は珍しい。
大抵は愚痴になるか、諦めになる。
だが芦屋の言葉には、変な棘がなかった。
◆
夕方。
定時が近づき、フロアの空気が少しだけ緩み始める。
宗形はチャット返信を終えながら、小さく肩を回した。
「宗形さん」
隣から声が飛ぶ。
「はい?」
「これ、今日中に返した方がいいやつですか?」
芦屋がメール画面を見せる。
宗形は内容を確認した。
「あー……」
少し考える。
「いや、明日で大丈夫ですね」
「よかった」
「急ぎっぽい文面ですけど、この人いつもこうなんで」
「狼少年タイプ」
「そんな感じです」
芦屋が小さく笑う。
宗形はその横顔を見ながら、ふと思った。
この人は、多分“職場の空気を悪くしない”人なんだろう。
必要以上に明るいわけじゃない。
無理に場を回そうとするわけでもない。
ただ、少しだけ空気を軽くする。
それが自然にできる。
社会人になってから、そういう人間は案外少ないと知った。
◆
退勤時間。
「お先です」
「お疲れさまです」
社員たちがぽつぽつ帰っていく。
宗形もPCを閉じた。
「宗形さん、いつもこのくらいなんですか?」
「今日は早い方ですね」
「へえ」
「まあ案件入ると変わりますけど」
そう言ってから、宗形は少し後悔した。
脅かすみたいな言い方だったかもしれない。
だが芦屋は特に気にした様子もなく、「社会人って感じですね」と笑った。
二人でエレベーターを待つ。
沈黙。
けれど気まずくはない。
宗形はそれを少し不思議に思う。
初対面に近い相手と、こんな風に黙っていられることはあまりない。
やがてエレベーターが到着する。
開いた扉へ乗り込みながら、芦屋がぽつりと言った。
「なんか安心しました」
「何がですか?」
「会社」
短い返答だった。
宗形は一瞬だけ目を瞬かせる。
けれど芦屋は、それ以上深く説明しなかった。
地下エントランスへ降りる間、エレベーターは静かに揺れている。
蛍光灯の白い光が、ステンレスの壁にぼんやり反射していた。
春はまだ、曇り空のままだった。




