「無難派の昼休み」
社会人になると、“朝が来る理由”を考えなくなる。
スマホのアラームが鳴る。
止める。
顔を洗う。
駅へ向かう。
それだけだ。
宗形 恒一は、通勤電車の窓に映る自分をぼんやり見ていた。
眠そうな顔。
少し伸びた前髪。
黒いスーツ。
駅ごとに人が乗り込み、押し込まれた空気が車内を満たしていく。
春特有の湿った暖かさが、ネクタイの奥にじわりと残った。
昨日、中途社員が入った。
芦屋 雅。
それだけのことだ。
別に、何かが変わるわけじゃない。
宗形は吊革を握りながら、そう思う。
だが、不思議と彼女の声だけは耳に残っていた。
――“ちゃんと会話しようとしてくれる人”。
たぶん、褒め言葉だったのだろう。
けれど宗形には、どこか不思議な感覚だった。
そんなことを言われたのは、いつ以来だろう。
社会人になってからの会話は、大半が確認作業だ。
“できますか”
“終わりましたか”
“認識合ってますか”
そこに感情はあまり必要ない。
誤解がなく、責任の所在が明確なら、それで成立する。
だから昨日の言葉は、少しだけ異質だった。
誰かが自分自身を見て話していた感覚。
宗形は小さく息を吐く。
――考えすぎか。
そう結論づけたところで、電車が駅へ滑り込んだ。
◆
「おはようございます」
オフィスに入ると、先に来ていた芦屋が立ち上がった。
「あ、おはようございます」
宗形も軽く頭を下げる。
まだ朝の八時半。
始業には少し早い。
「早いですね、宗形さん」
「まあ……いつもこれくらいです」
本当はもう少し遅い。
だが教育係という立場上、初日から遅れるわけにもいかなかった。
「真面目なんですね」
「そんなことないですよ」
「真面目な人って、だいたいそう言いますよね」
芦屋は楽しそうに笑う。
宗形は曖昧に笑い返しながらPCを立ち上げた。
会話のテンポが心地いい。
詰問じゃない。
探り合いでもない。
それだけで、少し珍しかった。
「今日は午前中、環境設定の続きやって、午後から実案件の資料見てもらう感じで大丈夫ですか?」
「はい。よろしくお願いします」
返事が素直だ。
宗形はそれだけで少し助かる。
新人教育で一番疲れるのは、“教えること”より“空気を読むこと”だからだ。
変に萎縮していないか。
逆に自信過剰ではないか。
どこまで理解しているか。
その見極めが面倒だった。
だが芦屋は、妙に自然だった。
分からないことは普通に聞くし、理解した時はちゃんと頷く。
それだけのことが、案外できない人は多い。
「前職って、どんな感じだったんですか?」
セットアップ待ちの時間、宗形はなんとなく尋ねた。
「あー……小さい会社でしたね。五十人くらいの」
「へえ」
「なんでもやる感じでした。インフラも少し触ってましたし、営業同行とかも」
「大変そうですね」
「大変でしたよ。でも嫌いじゃなかったです」
そう言って笑う横顔に、変な無理がない。
本当にそう思っている顔だった。
宗形は少しだけ驚く。
仕事の話をするとき、大抵の社会人はどこか諦めた顔をする。
“まあ仕事なんで”という予防線を張る。
けれど芦屋には、それが薄かった。
「宗形さんは新卒からですか?」
「はい。ここ一本ですね」
「すごいですね」
「いや、別に……」
「一つの会社で続けるの、ちゃんと大変ですよ」
その言葉に、宗形は少しだけ黙る。
褒められた、のだろうか。
分からない。
ただ、“耐えているだけ”だと思っていた三年間を、別の角度から見られた気がした。
◆
昼休み。
社員の多くが外へ出ていく中、宗形はコンビニのおにぎりを机へ置いた。
いつもの鮭。
特に理由はない。
冒険するほど、昼食に期待していなかった。
「あれ、宗形さん外行かないんですか?」
隣で芦屋が首を傾げる。
「混むので」
「分かります」
そう言いながら、彼女が取り出したのはコンビニのサンドイッチだった。
「芦屋さんもじゃないですか」
「私も無難派です」
その言葉に、宗形は少し吹き出しそうになる。
「なんですかそれ」
「宗形さん、好きそうだなって」
好きそう。
その言い方が妙におかしかった。
宗形は鮭おにぎりの袋を開けながら、ふと気づく。
今日、自分は思ったより喋っている。
それも、“仕事に必要なこと以外”を。
別に楽しいわけではない。
……いや、少し違うか。
不快じゃない。
それがたぶん、今の宗形にはかなり珍しかった。
窓の外では、春の風がビルの隙間を抜けていく。
都会の空は相変わらず狭い。
けれど昨日より、ほんの少しだけ明るく見えた。




