表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
平凡リーマンは無難を欲す  作者: 猫枕で寝たい。


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/25

「三年目の春は、だいたい曇っている」

社会人三年目くらいになると、

“頑張ること”より“無難にやり過ごすこと”の方が上手くなっていく気がします。


これは、そんな平凡な会社員が、少しずつ止まっていたものを取り戻していく話です。

 四月の雨は、誰かの希望を洗い流すために降っているのではないか――と、宗形 恒一は時々思う。


 もっとも、そんな感傷めいた言葉を口にしたところで、現実は一ミリも変わらない。

 会社のエントランスに映る自分の顔は、今日も寝不足と無精髭の境界線を曖昧にしていて、スマホに表示された時刻は八時四十七分。始業三分前だった。


 間に合っただけ、上出来だ。


 宗形は社員証をかざしながら、薄く息を吐いた。


 都内某所。社員数三百人ほどの中堅SIer。

 “若手にも裁量があります”などと説明会で語っていた人事の笑顔を、彼はもう思い出せない。


 三年目。


 新人と呼ばれるには図々しく、ベテランを名乗るには何も積み上げていない、いちばん曖昧な時期だった。


 気づけば、覚えたのは技術より先に“怒られない方法”だ。


 返信は十分以内。

 謝罪はまず結論から。

 仕様変更は証跡を残す。

 定時退社した日は、翌朝少し早く来る。


 そうやって角を削っていくうちに、自分が何を作りたかったのかは分からなくなった。


 いや、そもそも最初からそんな熱量はなかったのかもしれない。


 ただ、無難に生きたかった。


 大失敗も、大成功もいらない。

 誰かに嫌われず、適度に給料をもらい、土日に動画でも見ながら眠れれば、それで。


 そういう人生は、案外むずかしい。


「宗形くん、朝会資料更新した?」


 背後から飛んできた声に、宗形は反射的に振り向いた。


「あ、はい。共有フォルダに置いてます」


「なら先に言ってよ〜。探しちゃったじゃん」


 軽く笑いながら去っていく先輩の背中を見送り、宗形は曖昧に頭を下げた。


 怒られてはいない。

 だが、褒められてもいない。


 そういう会話ばかりが増えた。


 島型デスクの自席に腰を下ろし、PCを起動する。

 ファンの回転音が、雨音と混ざって耳に残った。


 メール未読二十七件。


 Teams通知九件。


 障害対応チャット一件。


 “軽微な修正です”


 その一文ほど信用できないものを、宗形は知らない。


 モニターの白い光を眺めながら、彼はコーヒーを一口飲む。ぬるかった。


 社会人になってから、季節を味わうことが減った気がする。


 春も夏も、空調の効いたオフィスの中ではただの背景だ。

 気づけばコンビニの商品だけが季節を主張している。


 ――まあ、別にいいか。


 そうやって、何に対しても結論を出さないまま日々を流していく。


 それが宗形の“無難”だった。


     ◆


 昼過ぎ。

 部長に呼ばれたのは、ちょうどレビュー依頼を投げ終えたタイミングだった。


「宗形、ちょっといいか」


 嫌な予感しかしない声色だった。


 会議室へ入ると、部長はすでに椅子へ深く腰掛けていた。

 ノートPCを閉じる動作が、妙にゆっくりしている。


 面倒な話の前兆だ。


「来週から中途の人が入るんだけどさ」


 ほら来た、と宗形は心の中だけで呟く。


「教育係、お前やってくれ」


「……俺ですか」


「三年目だし、ちょうどいいだろ。最近落ち着いてるし」


 それは褒め言葉なのだろうか。


 “落ち着いている”というより、単に擦り切れているだけでは――と思ったが、口には出さない。


「ちなみに女性の方な。経験者採用。三つ上」


「はあ……」


「結構できる人らしいから、お前も勉強になると思うぞ」


 勉強になる。


 便利な言葉だ。


 大抵の場合、それは“面倒を押し付ける理由”として使われる。


「……分かりました」


 断る理由も、別になかった。


 部長は満足そうに頷くと、「頼んだぞ」とだけ言って話を終えた。


 会議室を出た宗形は、自販機の前で立ち止まる。


 缶コーヒーを押そうとして、指を止めた。


 教育係。


 新人。


 中途。


 年上の女性。


 面倒そうだな、と真っ先に思った自分に、少しだけ嫌気が差した。


 昔は違った気がする。


 誰かと働くことに、もう少し期待していた。


 けれど期待は、長く持ちすぎると腐る。


 社会人三年目で覚えたことの一つだった。


     ◆


 翌週の月曜日。


 雨は上がっていた。


 朝礼前のオフィスには、どこか落ち着かない空気が漂っている。

 新入社員が入る日特有の、少しだけ背筋を伸ばしたような空気。


 宗形は自席で資料を整理しながら、内心では早く終わってくれと思っていた。


 紹介、挨拶、拍手。

 テンプレートみたいな流れだ。


 だが、その“テンプレート”は少しだけ崩れる。


「本日より配属となります、芦屋 雅さんです」


 大参課長の声。


 宗形はなんとなく顔を上げる。


 その瞬間、オフィスの蛍光灯が少しだけ明るくなった気がした。


 ――いや、気のせいだ。


 芦屋 雅は、派手な人ではなかった。


 黒髪を後ろでまとめ、紺のジャケットを着た、ごく普通の社会人女性。

 けれど、その“普通”の輪郭が妙に整っていた。


 姿勢がいい。


 声が通る。


 笑顔に無理がない。


「本日からお世話になります。芦屋 雅です。まだまだ至らない点も多いですが、少しでも早く皆さんのお力になれるよう頑張りますので、よろしくお願いします」


 綺麗な挨拶だった。


 作られたようでいて、不思議と温度があった。


 拍手が起こる。


 宗形も一応、手を叩く。


 その時だった。


 芦屋の視線が、一瞬だけこちらへ向いた。


 ただそれだけ。


 ただそれだけなのに、宗形はなぜか、誤魔化すように視線を外してしまった。


 朝礼後。


 課長に呼ばれ、芦屋が宗形の席へやってくる。


「今日から教育担当する宗形です」


「あ、宗形さん。よろしくお願いします」


 近くで見ると、思ったより柔らかい雰囲気だった。


 仕事のできる人間特有の圧迫感がない。


 むしろ、春先の風みたいに軽い。


「まずはPCとかアカウント周りから説明しますね」


「助かります。実は前職、アナログな会社だったので」


「……IT企業で?」


「びっくりしますよね」


 くすっと笑う。


 宗形は少しだけ間を置いてから、「まあ、ありますよね」と返した。


 その瞬間だった。


 芦屋がふっと目を細める。


「宗形さんって、“ちゃんと会話しようとしてくれる人”ですね」


「……え?」


「なんとなくです」


 春の終わりみたいな笑い方だった。


 理由は分からない。


 だが宗形は、その時ほんの少しだけ、自分の中で止まっていた何かが動いた気がした。


 雨上がりのアスファルトに、薄く光が差し込むみたいに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ