「三年目の春は、だいたい曇っている」
社会人三年目くらいになると、
“頑張ること”より“無難にやり過ごすこと”の方が上手くなっていく気がします。
これは、そんな平凡な会社員が、少しずつ止まっていたものを取り戻していく話です。
四月の雨は、誰かの希望を洗い流すために降っているのではないか――と、宗形 恒一は時々思う。
もっとも、そんな感傷めいた言葉を口にしたところで、現実は一ミリも変わらない。
会社のエントランスに映る自分の顔は、今日も寝不足と無精髭の境界線を曖昧にしていて、スマホに表示された時刻は八時四十七分。始業三分前だった。
間に合っただけ、上出来だ。
宗形は社員証をかざしながら、薄く息を吐いた。
都内某所。社員数三百人ほどの中堅SIer。
“若手にも裁量があります”などと説明会で語っていた人事の笑顔を、彼はもう思い出せない。
三年目。
新人と呼ばれるには図々しく、ベテランを名乗るには何も積み上げていない、いちばん曖昧な時期だった。
気づけば、覚えたのは技術より先に“怒られない方法”だ。
返信は十分以内。
謝罪はまず結論から。
仕様変更は証跡を残す。
定時退社した日は、翌朝少し早く来る。
そうやって角を削っていくうちに、自分が何を作りたかったのかは分からなくなった。
いや、そもそも最初からそんな熱量はなかったのかもしれない。
ただ、無難に生きたかった。
大失敗も、大成功もいらない。
誰かに嫌われず、適度に給料をもらい、土日に動画でも見ながら眠れれば、それで。
そういう人生は、案外むずかしい。
「宗形くん、朝会資料更新した?」
背後から飛んできた声に、宗形は反射的に振り向いた。
「あ、はい。共有フォルダに置いてます」
「なら先に言ってよ〜。探しちゃったじゃん」
軽く笑いながら去っていく先輩の背中を見送り、宗形は曖昧に頭を下げた。
怒られてはいない。
だが、褒められてもいない。
そういう会話ばかりが増えた。
島型デスクの自席に腰を下ろし、PCを起動する。
ファンの回転音が、雨音と混ざって耳に残った。
メール未読二十七件。
Teams通知九件。
障害対応チャット一件。
“軽微な修正です”
その一文ほど信用できないものを、宗形は知らない。
モニターの白い光を眺めながら、彼はコーヒーを一口飲む。ぬるかった。
社会人になってから、季節を味わうことが減った気がする。
春も夏も、空調の効いたオフィスの中ではただの背景だ。
気づけばコンビニの商品だけが季節を主張している。
――まあ、別にいいか。
そうやって、何に対しても結論を出さないまま日々を流していく。
それが宗形の“無難”だった。
◆
昼過ぎ。
部長に呼ばれたのは、ちょうどレビュー依頼を投げ終えたタイミングだった。
「宗形、ちょっといいか」
嫌な予感しかしない声色だった。
会議室へ入ると、部長はすでに椅子へ深く腰掛けていた。
ノートPCを閉じる動作が、妙にゆっくりしている。
面倒な話の前兆だ。
「来週から中途の人が入るんだけどさ」
ほら来た、と宗形は心の中だけで呟く。
「教育係、お前やってくれ」
「……俺ですか」
「三年目だし、ちょうどいいだろ。最近落ち着いてるし」
それは褒め言葉なのだろうか。
“落ち着いている”というより、単に擦り切れているだけでは――と思ったが、口には出さない。
「ちなみに女性の方な。経験者採用。三つ上」
「はあ……」
「結構できる人らしいから、お前も勉強になると思うぞ」
勉強になる。
便利な言葉だ。
大抵の場合、それは“面倒を押し付ける理由”として使われる。
「……分かりました」
断る理由も、別になかった。
部長は満足そうに頷くと、「頼んだぞ」とだけ言って話を終えた。
会議室を出た宗形は、自販機の前で立ち止まる。
缶コーヒーを押そうとして、指を止めた。
教育係。
新人。
中途。
年上の女性。
面倒そうだな、と真っ先に思った自分に、少しだけ嫌気が差した。
昔は違った気がする。
誰かと働くことに、もう少し期待していた。
けれど期待は、長く持ちすぎると腐る。
社会人三年目で覚えたことの一つだった。
◆
翌週の月曜日。
雨は上がっていた。
朝礼前のオフィスには、どこか落ち着かない空気が漂っている。
新入社員が入る日特有の、少しだけ背筋を伸ばしたような空気。
宗形は自席で資料を整理しながら、内心では早く終わってくれと思っていた。
紹介、挨拶、拍手。
テンプレートみたいな流れだ。
だが、その“テンプレート”は少しだけ崩れる。
「本日より配属となります、芦屋 雅さんです」
大参課長の声。
宗形はなんとなく顔を上げる。
その瞬間、オフィスの蛍光灯が少しだけ明るくなった気がした。
――いや、気のせいだ。
芦屋 雅は、派手な人ではなかった。
黒髪を後ろでまとめ、紺のジャケットを着た、ごく普通の社会人女性。
けれど、その“普通”の輪郭が妙に整っていた。
姿勢がいい。
声が通る。
笑顔に無理がない。
「本日からお世話になります。芦屋 雅です。まだまだ至らない点も多いですが、少しでも早く皆さんのお力になれるよう頑張りますので、よろしくお願いします」
綺麗な挨拶だった。
作られたようでいて、不思議と温度があった。
拍手が起こる。
宗形も一応、手を叩く。
その時だった。
芦屋の視線が、一瞬だけこちらへ向いた。
ただそれだけ。
ただそれだけなのに、宗形はなぜか、誤魔化すように視線を外してしまった。
朝礼後。
課長に呼ばれ、芦屋が宗形の席へやってくる。
「今日から教育担当する宗形です」
「あ、宗形さん。よろしくお願いします」
近くで見ると、思ったより柔らかい雰囲気だった。
仕事のできる人間特有の圧迫感がない。
むしろ、春先の風みたいに軽い。
「まずはPCとかアカウント周りから説明しますね」
「助かります。実は前職、アナログな会社だったので」
「……IT企業で?」
「びっくりしますよね」
くすっと笑う。
宗形は少しだけ間を置いてから、「まあ、ありますよね」と返した。
その瞬間だった。
芦屋がふっと目を細める。
「宗形さんって、“ちゃんと会話しようとしてくれる人”ですね」
「……え?」
「なんとなくです」
春の終わりみたいな笑い方だった。
理由は分からない。
だが宗形は、その時ほんの少しだけ、自分の中で止まっていた何かが動いた気がした。
雨上がりのアスファルトに、薄く光が差し込むみたいに。




