「後で困るので」
六月の雨は、ずっと降っているわけではない。
止んだと思ったらまた降って、
少し明るくなった空を、また灰色が覆う。
宗形 恒一は、窓の外を見ながら小さく肩を回した。
湿気でシャツが少し張り付く。
オフィス全体も、どこか重かった。
◆
「……あれ」
午後三時過ぎ。
隣から、小さな声が聞こえた。
宗形は視線だけそちらへ向ける。
芦屋がモニターを見たまま、少し眉を寄せていた。
キーボードを打つ手も、いつもより止まる回数が多い。
「どうしました?」
宗形が声をかける。
「あ、いや……」
芦屋は少しだけ迷う。
「大丈夫です」
その返しで大丈夫だったことを、宗形はあまり知らない。
「何かありました?」
「……送る資料、一個古い版使ってました」
「あー」
宗形は小さく頷く。
レビュー用資料の版違い。
別に珍しいミスではない。
ただ、気づいた瞬間かなり焦るやつだ。
「先方、もう見てます?」
「多分まだです……でも、気づいたら普通に印象悪いですよね」
芦屋は小さく息を吐く。
その顔を見て、宗形は少しだけ昔を思い出した。
新人の頃。
こういうミスをすると、“終わった”みたいな気持ちになっていた。
怒られるとか、評価とか。
そういうものが一気に頭へ来る。
「……まあ」
宗形は椅子を少し寄せる。
「一回整理しましょうか」
芦屋が顔を上げた。
◆
「まず、差分どれくらいあります?」
宗形は落ち着いた声で聞く。
「レイアウトは同じです。
説明文だけ、一部古いままです」
「なら致命傷ではないですね」
宗形は画面を確認する。
確かに内容は古い。
でも、今すぐ大炎上する類ではなかった。
「先方まだ返信ないですし、差し替え連絡で大丈夫だと思います」
「……はい」
芦屋は頷く。
でも少し肩が硬い。
宗形は何となく分かった。
多分、“ミスした自分”に引っ張られている。
「芦屋さん」
「はい?」
「これ、多分誰でも一回はやります」
芦屋が少しだけ苦笑する。
「慰めですか」
「実話です」
宗形は普通に言った。
「俺、昔レビュー依頼の送付先間違えましたし」
「それは怖い」
「めちゃくちゃ怖かったですよ」
二人して少し笑う。
その空気で、芦屋の肩がほんの少し下がった。
◆
『失礼いたしました。
最新版を再送いたします』
芦屋がチャットを送る。
数分後。
『承知しました。ありがとうございます』
返信はあっさりしていた。
宗形は小さく頷く。
「大丈夫そうですね」
「……思ったより普通でした」
「案外そんなもんです」
宗形はコーヒーへ口をつける。
少し冷めていた。
「自分だけ“終わった”って思ってる時、結構ありますし」
芦屋はその言葉を少し静かに聞いていた。
◆
「宗形くん」
その時、大参課長が後ろへ来る。
「あ、はい」
「先方資料の件、確認しました」
芦屋が少し姿勢を正した。
「申し訳ありません。
版確認漏れていました」
大参は数秒だけ資料を見る。
それから静かに口を開いた。
「差し替え対応まで終わっているなら問題ありません」
責める口調ではなかった。
「こういうミスは、“気づいた後どう動くか”の方が大事なので」
「……はい」
芦屋が小さく頷く。
大参はさらに続けた。
「宗形くん」
「はい?」
「整理ありがとうございます」
宗形は少しだけ目を瞬かせる。
「……いえ」
「以前より、状況整理が自然になりましたね」
静かな声だった。
宗形は少しだけ視線を逸らす。
昔の自分なら、多分こういう時、
“とりあえず正解”だけを言っていた。
ミスしない方法。
怒られない対応。
でも今は、“焦っている相手”を先に見るようになっていた。
それが良い変化なのかは、まだよく分からない。
◆
夕方。
雨はまた少し強くなっていた。
窓へ細かい水滴が流れていく。
「……助かりました」
芦屋がぽつりと言う。
宗形はモニターを見たまま、「ん」とだけ返した。
「なんか」
芦屋は少し笑う。
「宗形さん、“教育係”って感じになってきましたね」
宗形は少しだけ手を止める。
教育係。
最初は正直、面倒だった。
気を遣うし、責任も増える。
無難に仕事したい宗形からすれば、あまり向いている役目だとは思わなかった。
でも。
誰かへ説明して。
整理して。
一緒に考える。
そういう時間の中で、自分も少し変わってきたのかもしれない。
「……まあ」
宗形は小さく息を吐く。
「後で困るので」
芦屋が吹き出した。
雨音が、静かなオフィスへ柔らかく響いていた。




