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平凡リーマンは無難を欲す  作者: 猫枕で寝たい。


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20/25

「後で困るので」

 六月の雨は、ずっと降っているわけではない。


 止んだと思ったらまた降って、

 少し明るくなった空を、また灰色が覆う。


 宗形 恒一は、窓の外を見ながら小さく肩を回した。


 湿気でシャツが少し張り付く。


 オフィス全体も、どこか重かった。


     ◆


「……あれ」


 午後三時過ぎ。


 隣から、小さな声が聞こえた。


 宗形は視線だけそちらへ向ける。


 芦屋がモニターを見たまま、少し眉を寄せていた。


 キーボードを打つ手も、いつもより止まる回数が多い。


「どうしました?」


 宗形が声をかける。


「あ、いや……」


 芦屋は少しだけ迷う。


「大丈夫です」


 その返しで大丈夫だったことを、宗形はあまり知らない。


「何かありました?」


「……送る資料、一個古い版使ってました」


「あー」


 宗形は小さく頷く。


 レビュー用資料の版違い。


 別に珍しいミスではない。


 ただ、気づいた瞬間かなり焦るやつだ。


「先方、もう見てます?」


「多分まだです……でも、気づいたら普通に印象悪いですよね」


 芦屋は小さく息を吐く。


 その顔を見て、宗形は少しだけ昔を思い出した。


 新人の頃。


 こういうミスをすると、“終わった”みたいな気持ちになっていた。


 怒られるとか、評価とか。


 そういうものが一気に頭へ来る。


「……まあ」


 宗形は椅子を少し寄せる。


「一回整理しましょうか」


 芦屋が顔を上げた。


     ◆


「まず、差分どれくらいあります?」


 宗形は落ち着いた声で聞く。


「レイアウトは同じです。

 説明文だけ、一部古いままです」


「なら致命傷ではないですね」


 宗形は画面を確認する。


 確かに内容は古い。


 でも、今すぐ大炎上する類ではなかった。


「先方まだ返信ないですし、差し替え連絡で大丈夫だと思います」


「……はい」


 芦屋は頷く。


 でも少し肩が硬い。


 宗形は何となく分かった。


 多分、“ミスした自分”に引っ張られている。


「芦屋さん」


「はい?」


「これ、多分誰でも一回はやります」


 芦屋が少しだけ苦笑する。


「慰めですか」


「実話です」


 宗形は普通に言った。


「俺、昔レビュー依頼の送付先間違えましたし」


「それは怖い」


「めちゃくちゃ怖かったですよ」


 二人して少し笑う。


 その空気で、芦屋の肩がほんの少し下がった。


     ◆


『失礼いたしました。

 最新版を再送いたします』


 芦屋がチャットを送る。


 数分後。


『承知しました。ありがとうございます』


 返信はあっさりしていた。


 宗形は小さく頷く。


「大丈夫そうですね」


「……思ったより普通でした」


「案外そんなもんです」


 宗形はコーヒーへ口をつける。


 少し冷めていた。


「自分だけ“終わった”って思ってる時、結構ありますし」


 芦屋はその言葉を少し静かに聞いていた。


     ◆


「宗形くん」


 その時、大参課長が後ろへ来る。


「あ、はい」


「先方資料の件、確認しました」


 芦屋が少し姿勢を正した。


「申し訳ありません。

 版確認漏れていました」


 大参は数秒だけ資料を見る。


 それから静かに口を開いた。


「差し替え対応まで終わっているなら問題ありません」


 責める口調ではなかった。


「こういうミスは、“気づいた後どう動くか”の方が大事なので」


「……はい」


 芦屋が小さく頷く。


 大参はさらに続けた。


「宗形くん」


「はい?」


「整理ありがとうございます」


 宗形は少しだけ目を瞬かせる。


「……いえ」


「以前より、状況整理が自然になりましたね」


 静かな声だった。


 宗形は少しだけ視線を逸らす。


 昔の自分なら、多分こういう時、


“とりあえず正解”だけを言っていた。


 ミスしない方法。

 怒られない対応。


 でも今は、“焦っている相手”を先に見るようになっていた。


 それが良い変化なのかは、まだよく分からない。


     ◆


 夕方。


 雨はまた少し強くなっていた。


 窓へ細かい水滴が流れていく。


「……助かりました」


 芦屋がぽつりと言う。


 宗形はモニターを見たまま、「ん」とだけ返した。


「なんか」


 芦屋は少し笑う。


「宗形さん、“教育係”って感じになってきましたね」


 宗形は少しだけ手を止める。


 教育係。


 最初は正直、面倒だった。


 気を遣うし、責任も増える。


 無難に仕事したい宗形からすれば、あまり向いている役目だとは思わなかった。


 でも。


 誰かへ説明して。

 整理して。

 一緒に考える。


 そういう時間の中で、自分も少し変わってきたのかもしれない。


「……まあ」


 宗形は小さく息を吐く。


「後で困るので」


 芦屋が吹き出した。


 雨音が、静かなオフィスへ柔らかく響いていた。

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