「雨の匂いがする」
私の梅雨は片頭痛との戦いです。
梅雨入りは、ニュースより先に空気で分かる。
湿った風。
重い雲。
乾ききらない朝。
宗形 恒一は、駅へ向かう途中で小さく息を吐いた。
空が近い。
そんな感じのする朝だった。
◆
電車はいつもより少し混んでいた。
湿気を含んだスーツの匂い。
傘同士がぶつかる音。
曇った窓。
六月の通勤電車は、毎年少し息苦しい。
「……最悪だ」
宗形は小さく呟く。
髪は微妙に湿気で跳ねているし、革靴も少し濡れていた。
会社へ着く前から、もう少し疲れている。
◆
「おはようございます」
オフィスへ入ると、芦屋がこちらを見た。
「……すごい顔してますね」
「満員電車が強すぎた」
「分かります」
芦屋も少し髪が湿っていた。
珍しく前髪を軽く気にしている。
「芦屋さんも大変そうですね」
「駅出た瞬間、風で傘意味なくなりました」
「梅雨ですねえ……」
「嫌な季節だ」
そう言いながら、二人して少し笑う。
以前なら、朝からこんな風に話すことはなかった気がする。
宗形はふと、そんなことを思った。
◆
午前中。
フロア全体が少し静かだった。
雨の日は、みんな少しだけ元気がない。
チャットの反応も遅いし、コーヒーを飲む回数も増える。
「宗形くん」
その時、大参課長が後ろから声をかける。
「あ、はい」
「これ、温かいうちにどうぞ」
机へ小さな紙コップが置かれる。
「……ありがとうございます」
中身はホットコーヒーだった。
「今日は冷房強いので」
大参はそれだけ言って、自席へ戻っていく。
相変わらず自然すぎて、気遣われた側が少し遅れて気づく。
「……格好いいなあ」
芦屋がぼそっと言う。
「分かる」
宗形は即答した。
二人して少し笑う。
◆
昼過ぎ。
窓の外では、細かい雨がずっと降っていた。
強くもない。
でも止まない。
宗形はモニターを見ながら、ぼんやりその雨音を聞いていた。
「宗形さん」
「はい?」
「雨の日って、眠くなりません?」
「なります」
「ですよね……」
芦屋は少し机へ突っ伏す。
「気圧に負けてる感じする」
「社会人、天気にも負けるんだな……」
「もう色々負けてます」
その言い方が少し面白くて、宗形は小さく吹き出した。
笑ったあと、自分で少し驚く。
会社でこんな風に笑うこと、前はそんなに多くなかった。
◆
夕方。
雨はまだ続いていた。
フロアにはキーボードの音と、空調の低い音だけが流れている。
「……止まないですね」
芦屋が窓の外を見る。
「梅雨入りしたらしいですよ」
「あー……」
宗形は小さく頷く。
季節が変わる。
社会人になると、そういう感覚が少し薄くなる。
毎日似たようなスーツを着て、同じ駅を歩いて、同じPCを開く。
気づけば春が終わっていて、気づけば夏が来る。
「宗形さん」
「はい?」
「今年の梅雨、ちょっと長そうですね」
芦屋が何気なく言う。
宗形は窓の外を見る。
灰色の空。
濡れたビル群。
ぼやけた街灯。
昔なら、多分ただ憂鬱だった。
でも今は。
悪いだけではない気もしていた。
静かな雨音。
温かいコーヒー。
隣から聞こえる小さな声。
そういうものが、少しだけ息苦しさを減らしている。
◆
帰り際。
エレベーター前で、芦屋が小さく眉を寄せた。
「……あ」
「どうしました?」
「折り畳み、会社に置きっぱなしだった」
宗形は少し窓の外を見る。
雨は普通に降っている。
「コンビニ寄ります?」
「ですね……」
二人でエレベーターへ乗り込む。
沈黙。
でも、嫌な沈黙ではない。
「雨、嫌いですか?」
芦屋がふと聞く。
宗形は少し考えた。
「……昔はもっと嫌いだった気がします」
「今は?」
「まあ、そこまででもないです」
エレベーターが静かに降りていく。
雨の日の街は、少しだけ世界の音が遠い。
その静けさを、宗形は前より嫌いじゃなくなっていた。




