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平凡リーマンは無難を欲す  作者: 猫枕で寝たい。


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18/25

「雨の匂いがする」

私の梅雨は片頭痛との戦いです。


 梅雨入りは、ニュースより先に空気で分かる。


 湿った風。

 重い雲。

 乾ききらない朝。


 宗形 恒一は、駅へ向かう途中で小さく息を吐いた。


 空が近い。


 そんな感じのする朝だった。


     ◆


 電車はいつもより少し混んでいた。


 湿気を含んだスーツの匂い。

 傘同士がぶつかる音。

 曇った窓。


 六月の通勤電車は、毎年少し息苦しい。


「……最悪だ」


 宗形は小さく呟く。


 髪は微妙に湿気で跳ねているし、革靴も少し濡れていた。


 会社へ着く前から、もう少し疲れている。


     ◆


「おはようございます」


 オフィスへ入ると、芦屋がこちらを見た。


「……すごい顔してますね」


「満員電車が強すぎた」


「分かります」


 芦屋も少し髪が湿っていた。


 珍しく前髪を軽く気にしている。


「芦屋さんも大変そうですね」


「駅出た瞬間、風で傘意味なくなりました」


「梅雨ですねえ……」


「嫌な季節だ」


 そう言いながら、二人して少し笑う。


 以前なら、朝からこんな風に話すことはなかった気がする。


 宗形はふと、そんなことを思った。


     ◆


 午前中。


 フロア全体が少し静かだった。


 雨の日は、みんな少しだけ元気がない。


 チャットの反応も遅いし、コーヒーを飲む回数も増える。


「宗形くん」


 その時、大参課長が後ろから声をかける。


「あ、はい」


「これ、温かいうちにどうぞ」


 机へ小さな紙コップが置かれる。


「……ありがとうございます」


 中身はホットコーヒーだった。


「今日は冷房強いので」


 大参はそれだけ言って、自席へ戻っていく。


 相変わらず自然すぎて、気遣われた側が少し遅れて気づく。


「……格好いいなあ」


 芦屋がぼそっと言う。


「分かる」


 宗形は即答した。


 二人して少し笑う。


     ◆


 昼過ぎ。


 窓の外では、細かい雨がずっと降っていた。


 強くもない。

 でも止まない。


 宗形はモニターを見ながら、ぼんやりその雨音を聞いていた。


「宗形さん」


「はい?」


「雨の日って、眠くなりません?」


「なります」


「ですよね……」


 芦屋は少し机へ突っ伏す。


「気圧に負けてる感じする」


「社会人、天気にも負けるんだな……」


「もう色々負けてます」


 その言い方が少し面白くて、宗形は小さく吹き出した。


 笑ったあと、自分で少し驚く。


 会社でこんな風に笑うこと、前はそんなに多くなかった。


     ◆


 夕方。


 雨はまだ続いていた。


 フロアにはキーボードの音と、空調の低い音だけが流れている。


「……止まないですね」


 芦屋が窓の外を見る。


「梅雨入りしたらしいですよ」


「あー……」


 宗形は小さく頷く。


 季節が変わる。


 社会人になると、そういう感覚が少し薄くなる。


 毎日似たようなスーツを着て、同じ駅を歩いて、同じPCを開く。


 気づけば春が終わっていて、気づけば夏が来る。


「宗形さん」


「はい?」


「今年の梅雨、ちょっと長そうですね」


 芦屋が何気なく言う。


 宗形は窓の外を見る。


 灰色の空。

 濡れたビル群。

 ぼやけた街灯。


 昔なら、多分ただ憂鬱だった。


 でも今は。


 悪いだけではない気もしていた。


 静かな雨音。

 温かいコーヒー。

 隣から聞こえる小さな声。


 そういうものが、少しだけ息苦しさを減らしている。


     ◆


 帰り際。


 エレベーター前で、芦屋が小さく眉を寄せた。


「……あ」


「どうしました?」


「折り畳み、会社に置きっぱなしだった」


 宗形は少し窓の外を見る。


 雨は普通に降っている。


「コンビニ寄ります?」


「ですね……」


 二人でエレベーターへ乗り込む。


 沈黙。


 でも、嫌な沈黙ではない。


「雨、嫌いですか?」


 芦屋がふと聞く。


 宗形は少し考えた。


「……昔はもっと嫌いだった気がします」


「今は?」


「まあ、そこまででもないです」


 エレベーターが静かに降りていく。


 雨の日の街は、少しだけ世界の音が遠い。


 その静けさを、宗形は前より嫌いじゃなくなっていた。

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