「静かな不調」
体調不良というものは、ある日突然やって来るわけではない。
少し寝不足で。
少し肩が重くて。
少し集中できない。
そういう小さな違和感が積み重なって、気づいた頃には崩れている。
宗形 恒一は、社会人になってからそれを覚えた。
◆
朝。
目覚ましが鳴った瞬間から、少し頭が重かった。
「……だる」
布団の中で小さく呟く。
熱は、多分ない。
ただ身体が妙に重い。
昨日も少し遅かったし、疲れが残っているだけだろう。
宗形はそう結論づけて、いつも通り会社へ向かった。
◆
「おはようございます」
オフィスへ入る。
すると、隣の芦屋が顔を上げた。
「……宗形さん」
「はい?」
「今日ちょっと顔色悪くないですか」
宗形は苦笑する。
「朝弱いだけです」
「本当に?」
「多分」
“多分”がついている時点で怪しい。
芦屋はそんな顔をしていた。
◆
午前中。
宗形はモニターを見ながら、小さく眉を寄せる。
頭に少し膜が張ったみたいだった。
集中が続かない。
「……あれ」
宗形は画面を見直す。
同じログを三回読んでいた。
「宗形さん」
芦屋が小声で呼ぶ。
「さっきから同じところ見てません?」
「……見てる」
「やっぱり体調悪いんじゃ」
「いや、まあ……」
言いながら、自分でも少し怪しい気はしていた。
その時だった。
「宗形くん」
後ろから大参課長の声がする。
「あ、はい」
「この資料ですが」
大参は画面を見て、少しだけ沈黙した。
「……宗形くん」
「はい?」
「今日、少し調子悪いですか」
宗形は一瞬だけ固まる。
「え、いや……」
「先ほどから同じ確認を繰り返しているので」
見られていた。
宗形は観念したように息を吐く。
「ちょっと寝不足気味で」
「熱は?」
「多分ないです」
大参は数秒だけ宗形を見る。
その視線は相変わらず静かだった。
「宗形くん」
「はい」
「大丈夫な人は、同じログを三回読みません」
宗形は返事に詰まる。
横で芦屋が小さく視線を逸らしていた。
多分、笑いを堪えている。
「……すみません」
「謝らなくて結構です」
大参は穏やかな声で続ける。
「ただ、今日は少し周囲へ振ってください。
確認系はこちらでも拾いますので」
「でも――」
「無理をして精度が落ちる方が、結果的に周囲が困ります」
静かな言い方だった。
責めるわけでもない。
でも、反論しづらい。
「分かりました……」
宗形がそう返すと、大参は小さく頷いた。
「午後の定例も、必要なら私が出ます。
まずは状態見てください」
それだけ言って、大参は去っていく。
◆
「……ちゃんと見てますね」
芦屋がぼそっと言う。
「ですね……」
宗形は額を軽く押さえる。
正直、自分ではまだ“そこまでじゃない”つもりだった。
ただ少しだるいだけ。
社会人なら普通の範囲。
でも。
「宗形さん」
芦屋が温かいペットボトルを机へ置いた。
「コーヒーじゃなくて、今日はこっちにしてください」
生姜湯だった。
「なんでこんなの持ってるんですか」
「自分用です」
「用意いいなあ……」
「社会人なので」
どこかで聞いた返しだった。
宗形は少しだけ笑う。
頭は重いままだったが、そのやり取りは少し楽だった。
◆
午後。
定例前。
「宗形さん、運用側の返答こっちで整理しておきました」
芦屋がチャットを送ってくる。
『必要ならそのまま使ってください』
宗形は少し画面を見る。
多分、自分を気遣って巻き取ってくれている。
でも、それを変に押しつけがましくしない。
その距離感が、芦屋らしかった。
◆
結局、その日は少し早めに上がることになった。
十九時前。
宗形がPCを閉じると、周囲が少しこちらを見る。
「お疲れさまです」
佐倉が言う。
「今日はゆっくり休んでください」
「あ、ありがとう」
宗形は少しだけ驚く。
そんな風に言われる側になることに、まだ慣れていない。
◆
帰り際。
エレベーター前で、大参課長が静かに口を開く。
「宗形くん」
「はい?」
「ちゃんと休むのも仕事のうちですよ」
宗形は少し苦笑した。
「よく言われます」
「実際そうなので」
大参は穏やかに続ける。
「特に、“自分はまだ大丈夫”と思っている時ほど気をつけてください」
その言葉は妙に自然だった。
多分、この人も昔そうだったのだろう。
宗形はなんとなく、そう思った。
◆
外へ出ると、夜風が少し冷たかった。
頭はまだ重い。
けれど、不思議と気持ちはそこまで悪くなかった。
昔なら、多分隠していた。
無理して働いて、余計に崩れていた。
でも今日は、少しだけ周囲へ頼ってしまった。
それでも仕事は回っていた。
宗形は夜空を見上げながら、小さく息を吐く。
春の終わりの風は、少しだけ優しかった。




