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平凡リーマンは無難を欲す  作者: 猫枕で寝たい。


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15/25

「夜は少し呼吸しやすい」

 夜のオフィスには、昼間とは別の静けさがある。


 電話は鳴らない。

 会議室も空いている。

 誰かの笑い声も減る。


 残っているのは、キーボードの音と、蛍光灯の白さだけだ。


 宗形 恒一は、その空気を嫌いではなかった。


 もちろん、残業自体が好きなわけじゃない。


 ただ、夜の会社は少しだけ呼吸がしやすい。


     ◆


 時計は二十一時を回っていた。


 フロアの席も半分以上空いている。


 宗形はモニターへ向かったまま、小さく肩を回した。


「……終わらないな」


 思わず漏れた声に、隣から返事が飛ぶ。


「終わらないですね」


 芦屋だった。


 宗形は少しだけ笑う。


「まだいたんですね」


「宗形さんこそ」


 芦屋はコーヒー片手に苦笑する。


 今日はリリース前確認が重なっていた。


 大きな炎上ではない。

 ただ、“細かい確認が多い日”だ。


 こういう仕事ほど時間を使う。


「目、大丈夫ですか?」


 芦屋が聞く。


「若干死んでます」


「ですよね」


「芦屋さんは?」


「コーヒーで延命してます」


 宗形は少し吹き出した。


 疲れているのに、空気は悪くない。


 昼間みたいな慌ただしさもない。


 夜のオフィスには、“もう無理に頑張らなくていい空気”が少しだけある。


     ◆


「宗形くん」


 その時、後ろから声がかかる。


 大参課長だった。


「あ、はい」


「運用側への確認、ありがとうございます。

 先ほど返答来ていました」


「あ、問題なさそうでした?」


「ええ。整理できています」


 大参は宗形のモニターを軽く見ながら続ける。


「最近、“先回りの確認”が増えましたね」


 宗形は少しだけ言葉に詰まる。


「……そうですか?」


「はい。

 以前より、“後で困る可能性”を潰しにいけています」


 静かな声だった。


 相変わらず感情を大きく出さない。


 けれど最近、宗形は少し分かってきた。


 この人は、多分ちゃんと褒めている。


「ありがとうございます」


 宗形がそう返すと、大参は小さく頷いた。


「無理しすぎない程度にお願いします」


 そう言って、大参は自席へ戻っていく。


 宗形は少しだけ、その背中を見送った。


     ◆


「なんか」


 芦屋がぽつりと言う。


「大参課長、宗形さんのこと結構見てますね」


「……そうなんですかね」


「絶対そうですよ」


 芦屋は断言する。


「期待してない相手に、あそこまで細かく言わないと思います」


 宗形は返事をしなかった。


 期待。


 その言葉は、未だに少し落ち着かない。


 昔は欲しかった。

 認められたかった。


 でもいつの間にか、“期待されると疲れる”の方が先に来るようになっていた。


「まあ」


 芦屋は続ける。


「宗形さん、最近ちゃんと中心で回してますし」


「いや、そんな大したことは……」


「またそれ言う」


 少し呆れたように笑う。


「宗形さん、自分のこと結構低く見積もりますよね」


 宗形はモニターへ視線を戻した。


 否定はできなかった。


     ◆


 二十二時前。


 作業はようやく一区切りついていた。


 フロアには、もう数人しか残っていない。


「……終わった」


 宗形は椅子へ背中を預ける。


 芦屋も小さく息を吐いた。


「お疲れさまです」


「お疲れさまです」


 PCを閉じる音が、静かなフロアへ小さく響く。


 宗形は窓の外を見る。


 夜の街は、昼より少し綺麗だった。


 働いている人の数が減るだけで、景色は案外変わる。


「宗形さん」


「はい?」


「夜の会社って、ちょっと独特ですよね」


 芦屋が窓の外を見たまま言う。


「分かります」


「疲れるんですけど、嫌いじゃない感じ」


「……ですね」


 宗形は少し笑った。


 昔は、“遅くまで残ってる自分”が嫌だった。


 仕事が遅い気がして。

 能力が足りない気がして。


 でも今は少し違う。


 ちゃんと考えて、確認して、整理して。


 その結果なら、少し遅くなる日もある。


 そう思えるようになってきていた。


     ◆


 エレベーターを待つ間、オフィスは静かだった。


 蛍光灯の白い光だけが、夜のフロアを照らしている。


「お先に失礼します」


 その時、大参課長が静かに声をかける。


「あ、お疲れさまです」


「お疲れさまです」


 大参は二人を見て、小さく笑った。


「ほどほどにしてくださいね」


 それだけ言って、先にエレベーターへ乗り込む。


 閉まりかけた扉の向こうで、大参がふとこちらを見る。


「宗形くん」


「はい?」


「今くらいの働き方、悪くないと思いますよ」


 静かな声だった。


 押しつけるわけでもない。

 説教っぽくもない。


 ただ、自然に落ちてくる言葉だった。


 エレベーターの扉が閉まる。


 宗形はしばらく、その閉じた扉を見ていた。


 夜のオフィスは静かだった。


 けれど昔より、その静けさが少しだけ冷たくなくなっている気がした。

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