「夜は少し呼吸しやすい」
夜のオフィスには、昼間とは別の静けさがある。
電話は鳴らない。
会議室も空いている。
誰かの笑い声も減る。
残っているのは、キーボードの音と、蛍光灯の白さだけだ。
宗形 恒一は、その空気を嫌いではなかった。
もちろん、残業自体が好きなわけじゃない。
ただ、夜の会社は少しだけ呼吸がしやすい。
◆
時計は二十一時を回っていた。
フロアの席も半分以上空いている。
宗形はモニターへ向かったまま、小さく肩を回した。
「……終わらないな」
思わず漏れた声に、隣から返事が飛ぶ。
「終わらないですね」
芦屋だった。
宗形は少しだけ笑う。
「まだいたんですね」
「宗形さんこそ」
芦屋はコーヒー片手に苦笑する。
今日はリリース前確認が重なっていた。
大きな炎上ではない。
ただ、“細かい確認が多い日”だ。
こういう仕事ほど時間を使う。
「目、大丈夫ですか?」
芦屋が聞く。
「若干死んでます」
「ですよね」
「芦屋さんは?」
「コーヒーで延命してます」
宗形は少し吹き出した。
疲れているのに、空気は悪くない。
昼間みたいな慌ただしさもない。
夜のオフィスには、“もう無理に頑張らなくていい空気”が少しだけある。
◆
「宗形くん」
その時、後ろから声がかかる。
大参課長だった。
「あ、はい」
「運用側への確認、ありがとうございます。
先ほど返答来ていました」
「あ、問題なさそうでした?」
「ええ。整理できています」
大参は宗形のモニターを軽く見ながら続ける。
「最近、“先回りの確認”が増えましたね」
宗形は少しだけ言葉に詰まる。
「……そうですか?」
「はい。
以前より、“後で困る可能性”を潰しにいけています」
静かな声だった。
相変わらず感情を大きく出さない。
けれど最近、宗形は少し分かってきた。
この人は、多分ちゃんと褒めている。
「ありがとうございます」
宗形がそう返すと、大参は小さく頷いた。
「無理しすぎない程度にお願いします」
そう言って、大参は自席へ戻っていく。
宗形は少しだけ、その背中を見送った。
◆
「なんか」
芦屋がぽつりと言う。
「大参課長、宗形さんのこと結構見てますね」
「……そうなんですかね」
「絶対そうですよ」
芦屋は断言する。
「期待してない相手に、あそこまで細かく言わないと思います」
宗形は返事をしなかった。
期待。
その言葉は、未だに少し落ち着かない。
昔は欲しかった。
認められたかった。
でもいつの間にか、“期待されると疲れる”の方が先に来るようになっていた。
「まあ」
芦屋は続ける。
「宗形さん、最近ちゃんと中心で回してますし」
「いや、そんな大したことは……」
「またそれ言う」
少し呆れたように笑う。
「宗形さん、自分のこと結構低く見積もりますよね」
宗形はモニターへ視線を戻した。
否定はできなかった。
◆
二十二時前。
作業はようやく一区切りついていた。
フロアには、もう数人しか残っていない。
「……終わった」
宗形は椅子へ背中を預ける。
芦屋も小さく息を吐いた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
PCを閉じる音が、静かなフロアへ小さく響く。
宗形は窓の外を見る。
夜の街は、昼より少し綺麗だった。
働いている人の数が減るだけで、景色は案外変わる。
「宗形さん」
「はい?」
「夜の会社って、ちょっと独特ですよね」
芦屋が窓の外を見たまま言う。
「分かります」
「疲れるんですけど、嫌いじゃない感じ」
「……ですね」
宗形は少し笑った。
昔は、“遅くまで残ってる自分”が嫌だった。
仕事が遅い気がして。
能力が足りない気がして。
でも今は少し違う。
ちゃんと考えて、確認して、整理して。
その結果なら、少し遅くなる日もある。
そう思えるようになってきていた。
◆
エレベーターを待つ間、オフィスは静かだった。
蛍光灯の白い光だけが、夜のフロアを照らしている。
「お先に失礼します」
その時、大参課長が静かに声をかける。
「あ、お疲れさまです」
「お疲れさまです」
大参は二人を見て、小さく笑った。
「ほどほどにしてくださいね」
それだけ言って、先にエレベーターへ乗り込む。
閉まりかけた扉の向こうで、大参がふとこちらを見る。
「宗形くん」
「はい?」
「今くらいの働き方、悪くないと思いますよ」
静かな声だった。
押しつけるわけでもない。
説教っぽくもない。
ただ、自然に落ちてくる言葉だった。
エレベーターの扉が閉まる。
宗形はしばらく、その閉じた扉を見ていた。
夜のオフィスは静かだった。
けれど昔より、その静けさが少しだけ冷たくなくなっている気がした。




