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平凡リーマンは無難を欲す  作者: 猫枕で寝たい。


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「少しだけ早い出社」

 社会人になると、“会社へ行きたくない理由”には慣れていく。


 眠い。

 面倒。

 仕事が多い。

 客先対応が嫌。


 そういう感情は、もう日常だった。


 けれど時々、“少しだけ早く行こうかな”と思う朝がある。


 理由は、自分でもよく分からない。


     ◆


 その日、宗形 恒一が会社へ着いたのは八時十分だった。


 始業まではまだ少し余裕がある。


 オフィスは静かだった。


 空調の音。

 誰もいないフロア。

 立ち上がっていないモニター。


 宗形は昔から、この時間帯が嫌いではなかった。


 誰にも急かされない会社は、少しだけ呼吸がしやすい。


「……早いですね」


 声がして、宗形は振り返る。


 芦屋だった。


「あ、おはようございます」


「おはようございます」


 芦屋は少し驚いたように笑う。


「宗形さんって、もっとギリギリ派かと思ってました」


「失礼だな」


「違うんですか?」


「半分くらい合ってます」


 芦屋が小さく吹き出す。


     ◆


 二人ともPCを立ち上げながら、静かな時間が流れる。


 始業前のオフィスは、不思議と会話の温度が低い。


 まだ完全に“仕事モード”じゃないからかもしれない。


「宗形さん」


「はい?」


「朝強いんですか?」


「いや、全然」


「ですよね」


「なんでそう思うんです?」


「いつも眠そうなので」


 宗形は少し笑った。


 否定できない。


「芦屋さんは?」


「私、起きるのは平気なんですけど、家出るの苦手です」


「分かる」


「“あと五分”を五回くらいやるタイプです」


「かなりやってるな……」


 そんな他愛ない会話をしているうちに、少しずつ社員が増えていく。


 キーボードの音。

 挨拶。

 チャット通知。


 静かな朝が、仕事の空気へ変わっていく。


     ◆


 午前中。


 小規模改修のレビューは、思ったより順調に進んでいた。


「宗形さん、これ運用側返答来ました」


「あ、ありがとうございます」


 宗形はチャットを確認する。


 認識齟齬なし。

 追加修正なし。


 かなり平和な部類だった。


「珍しく燃えてませんね」


 芦屋が言う。


「奇跡かもしれない」


「金曜だからですかね」


「逆に怖いな」


 二人して少し笑う。


 その時だった。


「宗形くん」


 大参課長が後ろへ立つ。


「あ、はい」


「少し確認ですが」


 大参は資料へ視線を落とす。


「今回の件、運用側との認識合わせまで終わっていますか」


「はい。先ほど返答来ました」


「そうですか」


 大参は小さく頷いた。


「では問題なさそうですね」


 それだけ言って去ろうとして――ふと足を止める。


「そういえば」


「はい?」


「今日は少し早かったですね」


 宗形は一瞬だけ固まる。


「……見てたんですか」


「たまたまです」


 大参は静かに笑った。


「朝のオフィス、嫌いじゃないでしょう」


 宗形は返事に少し詰まる。


 図星だった。


「静かですからね」


「ええ。

 誰にも急かされませんので」


 その言い方が妙に自然で、宗形は少しだけ驚いた。


 あの人も、そう思うことがあるのか。


     ◆


 昼休み。


 宗形はいつもの鮭おにぎりを開けながら、ぼんやり朝のことを思い出していた。


「どうしました?」


 芦屋が聞いてくる。


「いや、別に」


「なんか考え事してる顔してます」


「そんな顔ある?」


「あります」


 即答だった。


「宗形さんって、“大丈夫です”って言いながら考え込むタイプですよね」


「……社会人なので」


「便利だな、その言葉」


 また笑う。


 最近、このやり取りが増えた気がする。


 宗形は少しだけ思う。


 多分、自分は前より喋るようになっている。


 劇的な変化ではない。


 昔みたいに熱血になったわけでもない。


 ただ。


 “話しかけられること”を、前ほど面倒に感じなくなっていた。


     ◆


 夕方。


 レビューも一段落し、フロアの空気が少し緩む。


 宗形はモニターを閉じながら、小さく息を吐いた。


 今日は、平和だった。


 こういう日があると少し安心する。


「お疲れさまです」


 芦屋が立ち上がる。


「お疲れさまです」


 二人でエレベーターを待つ。


 沈黙。


 けれど、気まずくはない。


「宗形さん」


「はい?」


「今日、ちょっと元気でしたね」


「……そうですか?」


「朝から少し」


 宗形は少しだけ考える。


 自分では分からない。


 ただ。


 朝の静かなオフィスは、確かに嫌いじゃなかった。


 誰もいない時間。

 まだ始まっていない会社。


 その空気を、誰かと共有していたからかもしれない。


 エレベーターが静かに到着する。


 開いた扉の向こうへ、二人は並んで乗り込んだ。


 春の終わりが、少しずつ近づいていた。

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