新たな日常
アラームが鳴り響いた。
ウィレイ改め「舞」は、枕元のスマホをもぞもぞと探した。
(まだ無理 まだまだ無理)
探し当てると、スヌーズを押して、また布団を被った。
季節は初夏となり、朝の気温もだいぶ上がってきているが、布団の中の温もりは何ものにも代え難い。
「むにゃ……」
僅か数分の名残を惜しんでいた舞であった。
「姉ちゃん、いい加減起きろよ」
扉をガラッと開けて、篤史が入ってきた。
「ふにゃ〜」
「『ふにゃ〜』じゃねぇ、この怠惰姉!」
そう言うと、篤史は布団をベリッと剥がした。
「何すんのよ!寒いじゃない!」
「うるせー!起きろよ!走る時間だっつーの!」
「もう少しいいじゃん!まだ5時半だよ?!」
「走るんだろ、今日から?」
篤史は鼻から息をふん!と出して言った。
……そうでした。走るんでした。篤史と一緒に。
「体鈍ってるからって自分で言ったんだから、ちゃんと起きろよ!」
「ふぇーい……」
舞はしぶしぶ起き上がった。
「ほら、行くぞ」
「はーい」
玄関を出て引き込み道路を上ると、ランニング開始である。
コンクリートの細い道の周りには、果樹園が広がっていた。今は林檎の花の時期で、薄らと甘い香りがする。林檎園の中にはミツバチの巣箱が幾つか置かれている。ミツバチは、朝から懸命に蜜を集めている。
(ミツバチ、ファイト!)
そう心の中で応援しながら、舞は篤史の後を追った。
緩やかな坂を上り切ると、海が見えてくる。
T字路のところで、一旦休憩することにした。
「気持ちいいねぇ」
篤史は、ふぅ……とため息をついた。
そして、持ってきた水を飲むと、またため息をつきながら言った。
「それなら、ちゃんと自分で起きろよ」
「だって」
舞は、言い返そうとした。
「だって何だよ」
だって……それは。
「布団が甘やかすから」
「甘やかしてんのは自分だろ」
「くっ」
共感ゼロである。
呆れたように舞を見た篤史だったが、小さく息をつくと、言った。
「ま、それなのによく走る気になったな」
「それは……」
「それは?」
その本当の理由は、言えなかった。
「体力落ちてきたからね」
「ま、歳も歳だからな。早く嫁に行けばいいんじゃないの?」
「それ、セクハラ!」
「きょーだいにセクハラも何もないから」
「くっ!」
口の減らない奴め。
それにしても、本当に体力が落ちてきたのだ。
自分から35歳の体を選択して変身したのはいいが、18歳の自分が簡単にできたことが、今はできないのである。
体のキレが悪い。
仕事で運動してはいるものの、運動の絶対量は少ないのだ。このままでは、元の体に戻っても、体力・持久力共に終わる。
そう思い、走ることにしたのである。
体幹トレーニングと護身術も、人に見えないところで、また始めていた。たかだか2年で衰えさせるわけにはいかない。
「さ、戻るぞ」
「うん」
「明日はちゃんと起きろよ」
「わかってる」
口を尖らせながら言った。
「嫌ならいいんだぞ」
「!!そんなことでないです!お願いします!」
「ならよし!」
これではどっちが年上なのかわからない。が、それもいつものことなので、もう諦めはついていた。
家に戻ると、朝ごはんができていた。
「おはよう。早かったわね」
母の理恵が鍋の蓋を閉じて言った。
「「おはよう」」
「手を洗ってらっしゃい」
「はーい」
母は、いつまでたっても母である。
父は、もう食べ始めていた。
新聞を片手に食べており、母に叱られている。
「お父さん、ご飯こぼしますよ!」
「うん」
「おや、だから、うんじゃなくて」
「うん」
母はやれやれというように頭を振ると、コーヒーをマグカップにいれた。
中澤家の朝ごはんは、二手に分かれている。男達は和食を、女達は洋食を食べるのだ。そのため、基本的には、和食の準備を母が、洋食の準備を舞が行っている。今日は舞がいなかったため、母が両方とも準備をしていた。
「ごめんね、お母さん」
「何が?」
「ご飯の準備」
「いいのよ」
「ありがとう」
舞はそう言うと、座って食べ始めた。
下つ国の生活は、とても新鮮であった。知らないことで満ちていた。
知らないことを知らないとは言えないし、やれないとも言えないので、その都度サッと術をかけながら、何事もなかったようにして過ごした。
(術ができて、良かった……)
つくづく、そう思った。




