第1話 切っていい綱
荷台の奥に置いた木箱が、疾風の力では少しも動かなかった。
八歳の風切疾風は、九月の朝、峠見宿の荷場で父の仕事を手伝っていた。今日は薬と織物を峠の向こうへ届ける日だ。積み方くらいは一人で決めたかったのに、最後の二箱が邪魔をしている。
「親父、これ、何が入ってんだよ」
「歯車だとさ。蓋を開けるなよ、預かり物だ」
父の源次は荷台へ上がり、箱の下に腕を差し入れた。木がきしみ、角の鉄帯が朝日に鈍く光る。二人連れの旅人が今朝になって頼んできた荷で、見返り橋を越えた先まで運べばよいらしい。
「この二つ、後ろへ積んだら駄目か。降ろすのが先なんだろ」
「悪くねえ。ただし車が傾く。重さを左右に分けろ」
疾風は荷台の後ろへ回り、父が持ち上げた箱を一つずつ左右に寄せた。薬箱と織物は中央に残す。薬の入った箱には細い瓶が詰めてあり、少し揺らすだけで中から硬い音がした。
二つの歯車箱を一本の太い綱でまとめ、荷台の後ろへ結びつける。中央の荷は別の綱で底板の金具に留めた。箱の下から通した綱を引くたび、指の付け根が熱くなる。
「締まった。これでいいだろ」
源次は結び目を順に引いた。薬箱を押し、歯車の箱も押してみる。疾風が自分で考えた結び目は、直されなかった。
「これを切ったら、何が落ちる」
父の指が、後ろの太い綱を示す。
「歯車の箱、二つ」
「こっちは?」
「薬と織物。だから、そっちは切れねえ」
「覚えてんならいい。荷は積むより、下ろすときが面倒なんだ」
疾風は腰の荷札を数え直した。父のまねをして作った札は、穴が一つ、右下の角が少し欠けている。荷物を見ずに行き先を言い当てるのが最近の遊びだった。
もう一度荷台を見上げると、父が薬箱の角に布をかませていた。今さら何をしているのかと聞きかけて、瓶が当たる音が消えたことに気づく。
なるほど、綱を強く締めるだけでは足りないらしい。
「疾風! 飯を食ってから行きな!」
茶屋のおトメ婆が店先から手を振っていた。湯気の立つ握り飯を二つ、手ぬぐいで包んで差し出してくる。
「一つは親父さんのだよ。二つとも食べたら昼に腹が鳴るよ」
「じゃあ、一つ半分だけにする」
「残りの半分を誰に渡す気だい」
「親父」
「それじゃ親父さんが半分じゃないか」
後ろから伸びた源次の手が包みを取り上げた。おトメ婆が笑い、疾風は取り返そうと背伸びする。父は高く上げた包みをそのまま荷台に置いた。
「届け終えたら食え。朝のうちは手を空けとけ」
「腹が鳴ったら、親父のせいだからな」
「鳴らす暇があったら、車輪を見とけ」
旅人の二人も、自分たちの荷車の横で出発の支度をしていた。片方は車軸の下をのぞき込み、もう片方は何度も道の先を見ている。茶を勧められても首を振り、疾風が箱の重さについて話しかける前に車へ戻った。
源次が引き棒を持つ。疾風は車輪の横を歩き、荷台の揺れを見張る役をもらった。
宿の屋根が背後へ遠ざかる。父の背中の向こうに、山の細い道が続いていた。
*
見返り橋の手前で、源次が荷車を止めた。
谷に渡された木の吊り橋は、両岸の太い綱で板を支えている。欄干の木は手で触れただけで粉が付き、何枚かの板は端が欠けていた。
橋の入口には、一台ずつ渡れと墨で書いた板が立っている。岸の杭には、車を引き上げるための綱も巻かれていた。
「親父。あの板、去年より減ってねえか」
「気づいたんなら、乗る場所を選べ。端は踏むな」
橋のたもとには灰色の羽織を着た男が一人立っていた。荷車に気づくと道を空け、岸の杭に巻かれた引き綱へ目を向ける。
源次は後ろの旅人たちに手を上げた。先に渡るという合図だ。二人は荷車のそばで立ち止まったように見えた。
橋へ入ると、車輪の下で板が一枚ずつ鳴った。疾風は左を歩き、父は前の引き棒を握る。右に寄せた箱が動かないか、綱の張りを確かめながら進んだ。
中央を過ぎたところで、後ろから別の車輪の音がした。
振り向くと、二人連れの荷車が橋へ入っていた。
先頭の男が引き棒を引き戻している。それでも車輪は回り続け、濡れた板の上を斜めに寄ってくる。
「親父! 後ろ!」
源次は振り返るより早く、荷車を左へ寄せた。
間に合わなかった。
ぶつかったのは荷台の後ろの右角だった。木の割れる音と一緒に橋板が二枚はね、右の後輪が板の間へ落ちる。
荷台が傾いた。
歯車の箱が右へ滑り、箱を留めた太い綱が張った。右の欄干が外へ開き、川の白さが足元に広がる。
源次は引き棒を抱えて踏みとどまったが、かかとが板の端にかかっていた。
「疾風、岸へ走れ!」
「親父は!」
「俺は車を離せねえ! お前だけでも行け!」
その声の途中で、もう一度板が割れた。落ちかけた後輪が下へずり、荷台の角が欄干を押し出す。父の片足も一緒に滑った。
疾風は荷台へ飛びついた。
歯車の箱を押し戻そうとしたが、肩から押しつけても動かない。持ち上げるどころか、押している自分まで谷へ引かれる。
「何やってる! 離れろ!」
「ちょっと待ってくれ!」
父の声を背中で聞きながら、綱を見た。
後ろの太い綱には歯車の箱二つがつながっている。薬と織物は底板の金具に別に結んだままだ。
朝、父に聞かれた。
これを切ったら、何が落ちる。
今も答えは変わらない。だが、あの時は荷を下ろすためだった。今は二箱を捨てなければ、父も荷車も谷へ落ちる。
腰の小刀を抜き、自分で結んだ綱へ刃を当てた。
刃が滑った。
引っ張られた綱は丸く硬くなっている。左手でつかんで押さえると、指の皮が引かれた。熱くなった掌から、小さな赤い線が伸びる。
手を動かすたびに車体が揺れた。小刀の先が、中央の荷を押さえる別の綱へ触れそうになる。
「親父! 後ろの綱、切るぞ!」
「そこだけだ! ほかは切るな!」
「分かってる!」
歯車箱の重さを受けている方だけ、刃を深く当てた。
小刀を手前へ引く。太い綱の表面が裂け、何本かの繊維が切れた。残った部分がさらに強く指へ食い込む。
今なら手を放せる。父も岸へ戻れと言った。
それでも、父の足は谷のすぐ上にあった。
「切っていい綱は、これだ!」
力いっぱい小刀を引いた。
綱が切れ、結び目が跳ねた。
支えを失った箱が荷台の右後方へ滑り、壊れた欄干の外へ落ちていく。一箱目の鉄帯が橋の端を打ち、続いてもう一箱が視界から消えた。
荷車の右側が軽くなった。
だが後輪は落ちたままだ。残った荷の重さが車体を傾け、源次を谷側へ引いている。
父が引き棒を持ち上げようとすると、車軸に絡んだ古い綱が張り、車輪が動かなくなった。
「そこを押すな!」
橋の入口から声が飛んだ。
灰色の羽織を着た男が、足場の残る板を選びながら駆けてくる。いつの間に抜いたのか、手には細い刀があった。
「右の古綱じゃ。先に切れ!」
声は男の口から出ていなかった。
刀が喋った。
疾風が見ている前で、刃先が車軸に絡んだ古綱を撫でるように通り、張りつめた綱を断ち切った。
灰色の男は岸へ取って返し、杭に巻いてあった引き綱をほどいた。綱の端を持って橋へ戻り、荷台の後ろの金具へ結びつける。すぐに岸へ退き、引き綱を握り直した。
「小僧、荷台から離れろ。親父殿、引き棒を持ち上げてくだされ。来た岸へ戻します」
源次は一度だけ男を見たあと、引き棒を両手で持ち直した。
「疾風、前の板を押せ! 車を後ろへ戻すんだ!」
痛む両手では綱を握れない。疾風は荷車の前板へ右肩を押し当てた。
源次が引き棒を持ち上げる。岸から引く綱が張り、車体がわずかに後ろへ動いた。
だが、割れた板の角に右の後輪が引っ掛かっている。
「もう一度だ!」
源次が声を上げた。
疾風は足を踏ん張り、肩で押し返した。父が車体の前を支え、岸の男が引き綱を引く。
今度は後輪が板の角を越えた。
重い音を立てて車輪が戻り、荷車が橋の入口へ向かって動き出す。
源次に背を押され、疾風も岸へ転がるように進んだ。
土の上まで車輪が戻ったところで、父は引き棒を地面に下ろした。
ぶつかってきた荷車も、橋の入口から道の脇へ退いていた。二人連れは自分たちの車のそばにいる。こちらへ近づいてくる様子はない。
疾風は振り返った。
橋の中央には、板の抜けた大きな穴が開いていた。
下の川で硬い音が二度続く。落ちた箱が岩に当たったのだろう。
その下まで目を向けた途端、膝が急に力を失った。
さっきまで自分の足が乗っていた板は、もうない。
*
「手を見せろ」
岸の水場で源次がしゃがみ、疾風の手首をつかんだ。
左右の掌が赤く擦れている。とくに親指の付け根は皮がめくれ、握っただけで痛んだ。
「平気だって。ちょっと擦っただけだ」
「じゃあ洗っても騒ぐなよ」
柄杓の水が傷へ落ちると、疾風の肩が跳ねた。
源次は手を放さず、土と綱の細い毛を洗い流した。荷台から出した布を細く折り、片方ずつ巻く。
「親父、薬箱は?」
「割れてねえ。織物も濡れてない。お前のおかげで無事だったんだ」
そう言ってから、源次は少しだけ布の端を引き直した。きつすぎたらしい。今度は指を曲げても布が食い込まなかった。
「でも、あの箱は俺が落としたんだぞ」
「俺が積んで運んだ荷だ。お前は悪くねえ」
「でも、俺が綱を切った」
「見てた。だから俺はここに座ってる」
父は包帯の結び目を手の甲へ寄せ、残りの布を袋にしまった。
疾風が立とうとすると、肩を押して座らせる。
「箱のことは預け主に話す。まず橋を通れなくしねえと、次の車が落ちる」
父が立ち上がると、荷車に置いてあった握り飯の包みが目に入った。
疾風はそれを取ろうとして、包帯の巻かれた指を曲げた。痛みが走り、すぐ手を引っ込める。
「飯、食えねえ」
「俺が包みを開けてやる。そこに座ってろ」
源次は手ぬぐいをほどき、握り飯を一つ差し出した。疾風は受け取ろうとして、また指を動かせずに顔をしかめる。
「……親父、持っててくれ」
「さっきまで一つ半食うって言ってた奴が、ずいぶん弱気だな」
「食うのは食う。手が使えねえだけだ」
父の手にある握り飯へかじりつく。
塩が効いていた。もう一口食べようとしたところで、道の方から車輪の音がした。
さっきの二人連れだ。
荷台には衝突した時の傷が付き、燃料箱の蓋が片方開いている。
その奥で、車輪がゆっくり回っていた。
誰も引き棒を持っていない。
疾風は握り飯を父に預けて立ち上がった。包帯を巻いた手をかばいながら荷車へ寄り、開いた燃料箱をのぞく。
底まで見えた。
燃料の欠片もない。
それでも車輪は回っていた。土の上をほんの少し進み、車輪止めに当たって止まる。
「親父! あの車、燃料が入ってねえ!」
「何だと?」
「空なのに動いてる。見てくれよ!」
源次が来る前に、旅人の一人が蓋を閉めた。もう一人が引き棒を握り、車を道の先へ動かす。
「おい、待てよ!」
疾風が声をかけても、二人は振り返らなかった。
父が追いかけようとした時には、荷車が曲がり角の向こうへ消えていた。
「見間違えじゃねえよ。俺、ちゃんと中を見た」
「そうか。だが今は落ちた箱だ。あの二人の行き先もあとで確かめねえとな」
「本当に空だったんだって」
源次はもう一度道の先を見たあと、傷んだ橋へ向かって歩き出した。片側の綱に壊れた板を結び、後から来る荷車を止めるつもりらしい。
疾風は車輪の跡を見た。
轍から燃料の有無など分かるはずもない。
どうやって動いていたんだろう。
空の箱を見たのは確かだ。それなのに、誰も引いていない車が前へ進んだ。
灰色の忍びが少し離れた所で刀を鞘に戻していた。
「あの刀、今、喋ったよな」
「喋ったな」
「刀って、みんな喋るのか?」
「さて。それがしの知る刀を全部並べても、みんなが同じ口はきかんだろうな」
疾風は男の腰にある刀を見た。
さっき車軸の綱を切った時、確かに刀が声を出した。しかも、綱のどこを切ればいいのかまで教えていた。
「もう一回喋ってくれねえかな」
男は答えず、柄のあたりを指で軽く叩いた。
刀は黙ったままだった。
「けち」
「そう言われても、それがしの都合ではないのでな」
男は歩き出した。名を聞くと、肩越しに小さく手を振るだけで、林の道へ消えていく。
疾風の耳には、古綱を払えと言った声が残っていた。
源次に呼ばれて橋の手前へ戻る。
父は通行止めの綱を張りながら、荷札を二枚抜き取って疾風に渡した。
「落とした荷の札だ。両方とも帳面に書いとけ」
「分かってるって」
包帯を巻いた指では札をうまくつまめず、片方を落としかけた。
拾い上げて、谷の方を見る。
川のそばの岩に、四角い木の角が一つ見えていた。朝、二箱を運び込んだときの鉄帯と同じ色だ。その少し下には流木が引っ掛かり、岩の間に細い足場が続いている。
源次は橋の入口で、後から来た荷車を引き返させていた。
まだこっちを見ていない。
疾風は荷札を帯へ押し込み、岸の松の木から谷底までを目で測った。
家にある長い縄を足せば、あの岩に届くかもしれない。




