風とともに広がる香り
柔らかな朝日が、宿の窓から差し込んでいた。
悠真はゆっくりと目を覚ますと、身支度を整えて部屋を出た。
階段を下りていくと、食器の触れ合う音や宿泊客たちの話し声が聞こえてくる。
食堂へ入ると、焼きたてのパンの香りが漂い、すでに何人かの宿泊客が朝食をとっていた。
その中に、見覚えのある二人の姿を見つける。
リシェルとミリアだ。
二人は向かい合って座り、朝食を食べていた。
「おはよう。」
悠真が声をかけると、リシェルが顔を上げた。
「悠真か? おはよう。」
「おはようございます。」
ミリアも悠真へ軽く頭を下げる。
「二人とも朝から早いな。任務か?」
「ああ。そうなんだが……。」
リシェルの歯切れが悪い。
「どうした?」
悠真が尋ねると、リシェルは少し困ったような表情を浮かべた。
「実は、この国の族長へ挨拶をしに行くんだが……初めて会う方なのでな。」
その時だった。
「それなら、私から話を通しましょうか?」
階段の方から声が聞こえてくる。
振り返ると、ツバキがちょうど二階から降りてくるところだった。
「え? ツバキさん、ここの族長さんと知り合いなんですか!?」
悠真は驚いてツバキを見る。
「ええ、ちょっとね。」
ツバキは何でもないことのように微笑む。
「本当か!? それは、ぜひお願いしたい。」
「それなら、とりあえず行ってみましょうか。」
ツバキはそう言うと、少しだけ困ったように笑った。
「会えるかどうかは……行ってみないと分からないけどね。」
「……?」
リシェルは不思議そうにツバキを見る。
やがてフィルとゼノンも支度を終え、悠真たちは揃って族長の館へ向かうことになった。
宿を出ると、街にはすでに多くの人々が行き交っていた。
通りの両側にはいくつもの店が並び、色鮮やかな果物や野菜、香辛料など、見慣れない品々が所狭しと並べられている。
そして街の中を、心地よい風が絶えず吹き抜けていた。
悠真は辺りを見回しながら歩く。
「ほんとに、いろんな物が置いてありますね〜。」
その隣では、フィルが店先に並ぶ食べ物へ釘付けになっていた。
「どれも美味しそうです〜。」
「フィルは相変わらずだな。」
リシェルが呆れたように笑う。
「はい。いつものフィルちゃんです。」
ミリアも小さく頷いた。
「だって、本当のことじゃないですか〜。」
フィルは不満そうに頬を膨らませる。
そんな話をしながら街の中を歩いていると、やがて通りの先に一際大きな館が見えてきた。
「あそこよ。」
ツバキに案内され、一行は館の門の前までやってくる。
ツバキは門を守る獣人の兵士へ声をかけた。
「こんにちは。族長はいらっしゃるかしら?」
「あっ、ツバキさん。」
門番はツバキの顔を見ると、どこか申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「すみません。今日もいつものように、族長は館にはおられません。」
「そう。やっぱりね。」
ツバキは驚く様子もなく、小さく息を吐いた。
「ありがとう。」
門番に礼を言って戻ってきたツバキに、悠真が尋ねる。
「どうでしたか? ツバキさん。」
「ええ。それがね……。」
ツバキは困ったように館を振り返る。
「あの人、いつもいないのよ。」
「え?」
「まったく……今日はどこにいるのかしら。」
しばらく考えていたツバキだったが、やがて諦めたように息を吐いた。
「もういいわ。見つかるまで街を回ってみましょう。」
「賛成です〜!」
フィルが真っ先に手を上げる。
その反応にツバキは苦笑しながら、リシェルたちを見る。
「リシェルさんたちも、それでいい?」
「ああ。私は大丈夫だ。」
悠真たちは再び街へと歩き出した。
しばらくすると、フィルが突然足を止める。
「あれ、美味しそうです〜!」
そう言って店先へ駆けていったかと思えば、今度は別の店を見つける。
「あっ、あっちも美味しそうです〜!」
「またかよ。」
悠真は思わず笑った。
フィルはすでに両手に食べ物を持ち、次から次へと口へ運んでいる。
その姿を見ながら、リシェルやミリアも楽しそうに笑っていた。
「フィル。あなた、そんなに食べて大丈夫?」
ツバキが呆れたように尋ねる。
「はい〜。まだまだいけまふよ〜。」
口いっぱいに頬張ったまま答えるフィルを見て、ツバキがくすりと笑う。
「ふふ。ちゃんと食べてから返事をしなさい。」
そのやり取りに、悠真たちから再び笑い声が上がった。
その時――。
「……くんくん。」
フィルの鼻が動いた。
「悠真さん!」
「え? なに?」
フィルは辺りの匂いを嗅ぐと、突然目を輝かせる。
「この匂いは!?」
「匂い?」
フィルは吸い寄せられるように、その匂いが漂ってくる方へ歩いていく。
悠真たちもそのあとを追うと、そこには色とりどりの粉や乾燥させた植物などが並ぶ店があった。
店先から漂ってくる独特な香り。
悠真にも覚えがある。
「これは……。」
「はい!」
フィルが嬉しそうに振り返る。
「カレーになるスパイスじゃないですか〜?」
「カレーだと!?」
今度はリシェルが食いついた。
「また、あれが食べられるのか?」
「ああ。」
悠真は店先に並ぶスパイスを見ながら頷く。
「ここの何種類かのスパイスを調合すれば作れるよ。」
「おお、これか。」
ゼノンも興味深そうにスパイスを覗き込む。
すると、店の奥からその話を聞いていた店主が顔を出した。
「兄ちゃんたち、さっきから何か調合するとか言ってるけどよ。」
店主は並べられたスパイスを指差す。
「ここらじゃ、そいつは肉や魚の臭みを取ったり、ちょっと味をつけたりするくらいだ。そんなもんで料理が作れるのか?」
「はい。」
悠真は頷く。
「やり方は人それぞれ違うと思いますけど、できますよ。」
「ほんとかい?」
店主の目が輝いた。
「だったら、ここで作ってみてくれねえか? 代金はいらねえからよ。」
「え?」
「その代わり、その料理……うちでも使わせてもらっていいか?」
「ええ。大丈夫ですよ。」
「よっしゃ! すぐ調理場を用意するから、ちょっと待ってな!」
「あ、大丈夫ですよ。」
「ん?」
「少しスペースを貸してもらえれば、自分の物がありますから。」
「ほんとかい?」
「はい。」
「じゃあ、店の横を使ってくれ。」
悠真は店主に案内された場所へ向かう。
そして、アイテムBOXからテーブル、カセットコンロ、鍋を次々と取り出した。
「相変わらず便利だな、それ。」
リシェルが苦笑する。
悠真は店先に並ぶスパイスを確認し、必要なものを店主へ伝えた。
「この辺りを使わせてもらってもいいですか?」
「ああ。好きなだけ使ってくれ!」
店主からスパイスを受け取った悠真は、それらをテーブルの上へ並べていった。
以前カレーを作った時は、スパイスを一から調整するのにかなり時間がかかった。
だが、今の悠真には《調合》がある。
「これなら、前より早くできそうだな。」
悠真はターメリックをはじめ、必要なスパイスを《調合》で粉状にしていく。
さらに、それぞれの分量まで《調合》が補助してくれるため、前回とは比べものにならないほど作業が楽になっていた。
「悠真さん、買ってきました〜!」
声のする方を見ると、フィルとミリアが玉ねぎとトマトを抱えて戻ってきた。
「ありがとう。」
悠真は受け取った玉ねぎを切り、鍋でじっくりと炒めていく。
そこへ、切ったトマトをたっぷりと加えた。
火が通るにつれてトマトから水分が溢れ出し、鍋の中を満たしていく。
そこへ先ほど調合したスパイスを加え、香りを立たせながら混ぜ合わせる。
次に、一口大に切ったボアの肉を鍋へ。
トマトから出た水分でじっくりと煮込み、必要な分だけ水を加えて濃さを調整していく。
最後に味を確かめながら塩を足していく。
ぐつぐつと鍋が音を立て始める頃――。
鍋から立ち上る香りを、街を吹き抜ける風がさらっていった。
食欲をそそるその香りは風に乗り、店先から通りへ、その先へと広がっていく。
「いい匂いです〜!」
フィルが鍋のそばで目を輝かせる。
リシェルも漂ってくる香りを吸い込み、懐かしそうに笑った。
「ああ……これだ。前に食べた時の、この匂いが忘れられなかったんだ。」
「この匂いは、食欲をそそります。」
初めてカレーを目にするミリアも、興味深そうに鍋を覗き込んでいる。
「これか? これがカレーなのか!」
ゼノンまで身を乗り出した。
店主もたまらなくなったのか、悠真へ声をかける。
「兄ちゃん! すげえいい匂いがするけど、まだ食えねえのか?」
「もう少しですよ。」
その間にも、風はカレーの香りを街へと運び続けていた。
「なんだ、この匂い?」
「うまそうだな……。」
「どこからだ?」
香りに誘われるように、一人、また一人と人が集まり始める。
いつの間にか、店の周りにはちょっとした人だかりができていた。
その時――。
「なんだ、この匂いはー!?」
人だかりの向こうから、一際大きな声が響いた。
「ん?」
悠真が顔を上げる。
集まった人々の間を抜けるように、一人の女性がこちらへ近づいてきた。
その姿を見たツバキが目を見開く。
「ナディア! あなた、こんなところにいたの?」
「おお! ツバキじゃないか! 久しぶりだなー!」
「族長!?」
店主も驚いた顔をする。
「どうしたんですか、こんなところに!」
「え?」
悠真はツバキと女性を交互に見る。
「この人が……族長ですか?」
「ええ。」
ツバキは少し呆れたように笑った。
「紹介するわ。この人がこの国の族長、ナディアよ。」
「それよりツバキ!」
ナディアは鍋から漂う香りを気にしながら尋ねる。
「なんだよ、この匂いはー? 食いもんかー?」
「ええ。ここのスパイスを使って、悠真さんが料理してくれているのよ。」
「ほんとかー!?」
ナディアは嬉しそうに鍋を覗き込んだ。
「ちょっと食わせてくれよー!」
その横で、リシェルが姿勢を正す。
「あの!」
ナディアが振り返る。
「私は王都騎士団隊長、リシェルと申します。この度は、我が騎士団の任務を――」
「分かってるよ。」
ナディアはリシェルの言葉を遮った。
「話は聞いてるから。こっちこそ、よろしく頼むな!」
「……はい。」
リシェルは少し拍子抜けしたように返事をする。
だが、ナディアの興味はすぐに鍋へ戻っていた。
「それより、この料理はまだ食えないのか?」
「カレーですか? もう少し待ってください。」
「いいよ、いいよ。堅っ苦しいのはなしだ!」
ナディアは豪快に笑う。
「普段通り喋ってくれ!」
「……はあ。」
悠真が戸惑っていると、ツバキが苦笑した。
「こういう人なのよ、この人は。」
「はあ……。」
悠真はもう一度返事をすると、鍋へ向き直った。
しばらく煮込んでから味を確認する。
「……よし! そろそろいいかな。」
悠真はフィルを見る。
「フィルも手伝ってくれ。」
「はいです〜!」
二人は出来上がったカレーを順番によそい、テーブルの上へ並べていった。
「では、召し上がってみてください。」
「待ってました〜!」
フィルが嬉しそうにスプーンを手に取る。
ナディア、店主、リシェルたちもそれぞれカレーをすくい、口へ運んだ。
「…………!」
一瞬、全員の動きが止まった。
次の瞬間――。
「美味いぞー!」
真っ先に大声を上げたのはナディアだった。
「なんだこれ! こんな味、食べたことないぞ!」
店主も驚いたようにカレーと店先に並ぶスパイスを交互に見る。
「こいつはすげえ……。まさか、あのスパイスでこんな味が出せるなんて……。」
「やっぱりこれです。これ〜!」
フィルは満面の笑みを浮かべ、早くも二口目を頬張っている。
「うん。やはりカレーはいいものだな。」
リシェルも満足そうに頷く。
「カレー……止まらないです。」
ミリアはそう呟きながら、黙々とスプーンを動かしていた。
「おお。少し辛いが、ちょうどいい辛さだな。」
ゼノンは豪快にカレーを口へ運ぶ。
「フィルが騒ぐだけのことはある。」
「でしょう〜?」
なぜかフィルが得意げに胸を張る。
ツバキも一口味わうと、悠真へ微笑んだ。
「悠真さん、とても美味しいですよ。」
「ありがとうございます。」
悠真はみんなの反応にほっとしながら笑った。
「さ、どんどん食べてください。」
その言葉を待っていたかのように、再びみんなのスプーンが動き始める。
そんな中、ナディアがじっと悠真を見た。
「……悠真、と言ったな。」
「はい?」
「どうだ? ここで私の専属料理長にでもならないか?」
「えっ?」
「待遇は良くするぞ!」
突然の勧誘に、悠真は慌てて両手を振る。
「いやいや! 俺なんてそんな。」
そして困ったように笑った。
「それに、俺は今、世界を旅している途中なので……遠慮しておきます。」
「そうかー。」
ナディアは残念そうに肩を落とす。
だが、それも一瞬だった。
すぐに店主へ顔を向ける。
「店主!」
「は、はい!」
「この料理、この国を代表する料理にしたい! 同じものを作れるか?」
「はい!」
店主は力強く頷いた。
「作り方は教えてもらいました! あとは自分たちで試行錯誤しながら、同じものを作れるようにやってみます!」
「そうか!」
ナディアは満足そうに笑う。
「なら、頼む! こっちからも人を送るから、そいつらにも作り方を教えてやってくれ!」
「はい!」
店主も嬉しそうに返事をした。
その声を聞いて、周りに集まっていた人々からも声が上がる。
「俺たちも食べてみたいぞ!」
「その料理、まだあるのか?」
「私にも食べさせてくれ!」
次々と声が上がり、悠真は目の前にできた人だかりを見て苦笑した。
「これは……もう一鍋必要かな。」
「悠真さん!」
隣からフィルが勢いよく手を上げる。
「私も手伝います〜!」
「食べたいだけだろ?」
「そ、そんなことないですよ〜。」
明らかに視線が鍋へ向いている。
「まったく……。」
リシェルが呆れたように笑い、その隣でミリアも小さく笑っていた。
「兄ちゃん! 俺も手伝うぜ!」
店主が腕まくりをする。
「じゃあ、今度は一緒に作りましょう。」
「おう!」
悠真は新しい鍋を取り出し、店主と並んで再び調理を始めた。
やがて、鍋から再び香りが立ち上る。
その香りを街を吹き抜ける風がさらい、遠くへと運んでいく。
香りに誘われるように、人の輪は少しずつ広がっていった。
悠真はその光景を眺めながら、小さく笑った。
今日もこの国には、心地よい風が吹いていた。




