夢渡り
馬車は、ゆっくりと山道を進んでいた。
左右には切り立った岩肌が続き、遠くには白い雲が浮かんでいる。
御者席では、フィルが慣れた手つきで手綱を操っていた。
「フィル。」
「はい?」
「俺もやってみたい。」
「えっ?」
フィルは目を丸くした。
「馬車をですか?」
「ああ。」
「うーん……大丈夫でしょうか。」
「たぶん。」
「たぶんって言いましたよね?」
悠真は苦笑しながら、御者席へと移動した。
フィルは少しだけ困った顔をしながら手綱を差し出す。
「まずは力を入れすぎないことです。」
「こうか?」
「もう少し右です。」
「これくらい?」
「そうです。」
馬は、のんびりと歩き続ける。
「おっ。」
「上手ですよ!」
しばらく馬車は山道を進んだ。
「何とかなりそうだな。」
そのときだった。
――ゴーン。
鐘の音が響いた。
悠真は、はっと顔を上げる。
(まずい……。)
鐘の音は、自分にしか聞こえない。
つまり、それは帰る時間が来たということだった。
「あっ!」
悠真は慌てて手綱をフィルへ渡した。
「えっ?」
「悪い。説明してなかったけど、必ず戻るから。」
「え?」
次の瞬間、悠真の体は光に包まれた。
「えっ!? えええっ!?」
フィルが慌てて手を伸ばす。
しかし、その手は空を切った。
光は風のように舞い上がり、悠真の姿は跡形もなく消えてしまった。
「うそ……。」
フィルは呆然と立ち尽くした。
「ツバキさん! 悠真さんがいなくなっちゃいましたよ!」
すると、馬車の後ろからツバキが静かに顔を上げた。
「……夢渡り?」
「えっ?」
「幼い頃、祖父から聞いたことがあります。」
ツバキは遠くを見るような目をした。
「遠い昔、この世界と別の世界を行き来する者がいたそうです。」
「別の世界……。」
「ええ。人々は、その者たちを『夢渡り』と呼んでいたそうです。」
フィルは目をぱちぱちと瞬かせた。
「あっ!」
「どうした?」
「わたしも父の書斎で見つけた古い本に書いてあったのを読んだことがあります!」
「本当か?」
「はい。でも、おとぎ話だと思っていました。」
ツバキは小さく微笑んだ。
「わたしも、幼い頃はそう思っていました。」
「……本当に存在したなんて。」
二人は、悠真が消えた場所を見つめていた。
⸻
目を開くと、見慣れた天井が目に入った。
「……戻ってきたか。」
悠真は、ゆっくりと起き上がった。
「あっちにいるのが当たり前になってたな。」
小さく息を吐く。
「説明してなかった。」
悠真は頭をかいた。
「戻ったら、ちゃんと話すか。」
「俺も、よく分かってないんだけどな。」
時計を見る。
まだ朝だった。
「今日は飛び休か。」
悠真は伸びをした。
「それにしても、向こうは大丈夫かな。」
悠真は小さくため息をついた。
「今日は幼なじみと同僚たちとBBQだったな。」
「よし、支度するか。」
そう呟きながら、BBQ道具を車へ積み込んでいく。
折りたたみ椅子、テーブル、網、食材を入れるクーラーボックス。
「よし、出発。」
⸻
悠真は車を走らせ、順番に三人を迎えに行った。
同僚の蓮。
幼なじみの陽菜。
そして、設計部の美月。
四人は、少し前からたまにこうして集まっていた。
山へ向かう途中、一行はスーパーへ立ち寄った。
「飲み物はどうする?」
「私はお茶かな。」
「私はジュース!」
女性二人が店内へ入っていく。
それを見送りながら、蓮が小声で話しかけてきた。
「なあ。」
「ん?」
「もう少し、美月と仲良くなりたいんだ。」
「なるほど。」
「頼む。」
「分かった。」
すると、陽菜が振り返った。
「何をこそこそ話してるの?」
「何でもないよ。」
「怪しい。」
悠真と蓮は顔を見合わせて苦笑した。
⸻
やがて、四人は山の麓にあるキャンプ場へ到着した。
川では子供たちが遊び、あちこちに色とりどりのテントが並んでいる。
管理棟で受付を済ませると、悠真は笑みを浮かべた。
「今日は炭じゃなくて、薪でやろう。」
「いいね。」
「賛成。」
「じゃあ、二組に分かれるか。」
悠真は、ちらりと蓮を見た。
「俺と陽菜。」
「俺と美月か。」
「そういうこと。」
蓮は嬉しそうに頷いた。
⸻
森へ入ると、陽菜が呆れたように笑った。
「あんた、何か企んでるでしょ。」
「何のことだ?」
「あの二人をくっつけようとしてるんでしょ。」
「ばれたか。」
「でも、あんまり意味ないと思うけどね。」
「どうして?」
「さあね。」
悠真は首を傾げた。
その瞬間だった。
(――っ!?)
気配察知が反応した。
「陽菜。」
「えっ?」
「ここで待っててくれ。」
「ちょっと!」
悠真は森の奥へ走り出した。
木々の隙間を抜ける。
すると、その先に淡い光が揺らめいていた。
前に見た空間そのものが波打っているかのような景色だった。
「これは……。」
次の瞬間。
光の中から何かが飛び出してきた。
悠真は反射的に身をひねり、その勢いのまま手刀を振るった。
鈍い音とともに、小さな影が地面へ転がる。
「何だ……?」
悠真は目を見開いた。
「まさか……。」
そこにいたのは、一匹の角を持つ兎だった。
「ホーンラビット……?」
あり得ない。
この世界に存在するはずがない。
そして、気づけば、淡い光は消えていた。
森に残されたのは、静寂だけだった。




