揺らぎ
午前六時。
目覚まし時計の音で、悠真はゆっくりと目を覚ました。
「……朝か。」
天井を見上げたまま、小さく息を吐く。
昨夜まで、悠真は夢世界で七日間を過ごしていた。
王都を歩き、フィルと話し、リシェルと食卓を囲んだ。
それなのに、現実ではたった一日しか経っていない。
「どっちが夢で、どっちが現実なんだろうな……。」
そんな言葉が自然と漏れた。
夢世界は確かに存在している。
空気の匂いも、風の感触も、人々の笑顔も、本物だった。
だが、こうして自分の部屋に戻ってくると、今度は現実のほうが夢のようにも思えてくる。
「……まあ、考えても仕方ないか。」
悠真はベッドから立ち上がった。
「今日からまた仕事だな。」
◇
東栄マシナリー。
朝のミーティングを終え、悠真はいつもの作業場へ向かった。
「よし。」
今日の仕事は、部品の組み立て作業だった。
バーナーを手に取り、着火しようとする。
「あれ?」
ライターが見当たらない。
工具箱の中を探す。
作業台の下を見る。
それでも見つからない。
「おかしいな……。」
その瞬間だった。
悠真は無意識に指先を動かした。
ボッ。
小さな炎が灯る。
「……えっ?」
悠真は固まった。
目の前では、バーナーの先端が静かに燃えている。
「うそだろ……。」
慌てて周囲を見渡す。
誰も気づいていない。
「ふぅ……。」
悠真は胸をなで下ろした。
「気をつけないとな。」
どうやら、夢世界の力は現実でも使えるらしい。
◇
昼休み。
「神崎、今日は食堂か?」
声をかけてきたのは、高橋蓮だった。
「ああ。」
「じゃあ、一緒に行こうぜ。」
二人が席へ向かうと、窓際の席に見慣れた姿があった。
「高梨さん。」
黒髪の女性が顔を上げる。
「こんにちは、神崎くん。」
高梨美月。
設計部の社員であり、蓮の同期でもある。
仕事中は冷静で、誰に対しても淡々としているが、その仕事ぶりから社内の信頼は厚かった。
「珍しいな。」
「たまには気分転換よ。」
美月はコーヒーを口に運ぶ。
「それより、神崎くん。」
「ん?」
「最近、何か変わった?」
「そうか?」
「ええ。」
「前より雰囲気が変わった気がするわ。」
蓮も頷く。
「俺も思ってた。」
「そうか?」
「そうよ。」
「そうだよ。」
悠真は腕を組んだ。
「うーん……。」
しばらく考え込む。
「キャンプ道具が増えたくらいかな。」
「……はぁ。」
「……はぁ。」
二人は同時にため息をついた。
「何だよ。」
「何でもないわ。」
「何でもない。」
悠真は首を傾げた。
理由はまったく分からなかった。
◇
午後。
悠真たちは、クレーンを使って大型の部品を運んでいた。
その時だった。
空気が震えた。
ビリッ――。
「……っ!」
悠真は目を見開いた。
この感覚を知っている。
湖で感じたものと同じだった。
だが、前回よりも明らかに強い。
「危ない!」
誰かが叫ぶ。
ガシャンッ!
金属音が工場内に響き渡った。
フックが外れたのだ。
吊り上げられていた部品が、後輩へ向かって落下していく。
「しまった!」
考えるよりも先に、体が動いていた。
瞬間。
景色が流れた。
悠真は後輩の腕をつかみ、その場から飛び退く。
次の瞬間――。
ドォォォン!
激しい音とともに、巨大な部品が床へ激突した。
「だ、大丈夫ですか!?」
後輩が目を丸くする。
「えっ……?」
周囲にいた人々も呆然としていた。
「あれ……?」
「神崎さん、いつの間に……?」
誰にも見えていなかった。
あまりにも速すぎたのだ。
悠真は静かに息を吐いた。
「間に合ってよかった。」
◇
夜。
三人は居酒屋で食事をしていた。
「いやぁ、本当に驚いたよ。」
蓮がジョッキを置く。
「後輩に怪我がなくてよかったわ。」
美月も小さく頷いた。
「そうだな。」
三人は仕事の話をし、昔話で盛り上がった。
気づけば、ずいぶん長い時間が過ぎていた。
◇
帰り道。
悠真は、大きなアウトドアショップへ立ち寄った。
「旅に出るなら必要だよな。」
テント。
ランタン。
ロープ。
調理器具。
小型のナイフ。
さまざまな道具を買いそろえていく。
店を出た頃には、大きな荷物になっていた。
「重い……。」
悠真は人気のない路地へ入った。
「悪い。」
そうつぶやき、アイテムボックスを開く。
次々と荷物が消えていく。
「便利だな。」
そう笑った、その時だった。
暗闇の向こうで、何かが揺れた。
まるで、水面に石を投げ入れたように、空間が波打っている。
「……ん?」
一瞬だけ、淡い光が漏れた。
「何だ、今の……。」
しかし、次の瞬間には消えていた。
悠真は首を傾げる。
「看板の光か?」
そう考えることにして、その場を後にした。
もちろん、この時の悠真は知らなかった。
この小さな揺らぎが、二つの世界をつなぐ裂け目になろうとしていることを。
そして、それはもうすぐ現実世界に大きな変化をもたらすことを。
まだ、誰も知らなかった。




